英国感動紀行10日間⑨-2ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン

 マリー・アントワネット専属画家ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの生涯
                  河出書房新社 石井美樹子著より
「彼女の作品を多く所蔵している美術館は」
1、ヴェルサイユ宮殿  20作品
2、ルーブル美術館    6作品
3、エルミタージュ美術館 9作品
「彼女がマリーアントワネットの肖像画30枚描いたということ そんな
に多く王妃がモデルに立ったのか?」という私自身の疑問に対する答えは
下の4作品を描いたのち その作品をベースとして 彼女自身が模写して
いったことを意味するとのことです 1783年彼女が28歳のときに 
4人しか認められないという王立アカデミー会員になって以降の作品が

1)シミーズ・ドレス姿のマリー・アントワネット王妃
2)薔薇を持つマリー・アントワネット王妃
3)書を読むマリー・アントワネット王妃
4)マリー・アントワネット王妃と子供たち
特に子供を描くことは  よっぽど王妃や王室に気に入られていたことで
実際ルイ16世は この絵をヴェルサイユ宮殿の軍神マルスの部屋に飾り
のちのナポレオン・ボナパルトヴェルサイユに乗り込んで来てこの絵を
私室に置いて楽しんだとか

<ルイーズのマリー・アントワネットに対する第一印象は>
王妃は23歳 若さと美しさの盛りにあった 背が高く均整が取れ ほど
よく肉付きが良かった 引き締まった腕 形の良い手 華奢な足 頭を高
くすっくと立てているために 王妃ほど威厳のある女性はいなかった 
「お妃さまに会ったことのない人に 優雅さと高貴さが完璧な調和をなし
ているその美しさを伝えることは難しい」

マリー・アントワネットの容姿が完璧だったわけではない 額が少し出っ
張り 鷲鼻 細長い卵形の顔とつんと突き出た細い顎 瞳はさほど大きく
なく 青というより灰色に近い しかし表情は知的で愛らしく 鼻筋は美
しい 口は小さく唇はぽってりしている 何よりも素晴らしいのは明るく
艶やかで透明な肌である
あまり透明なので影を捕らえることができないほどだった 輝くような色
白の肌と生来の血色の良さは この世のいかなる絵の具も絵筆も 王妃の
溌溂とした初々しさを写し取れず 繊細で透明な肌の色調を表現できない
と感じた

フィレンツェに存在する自画像の背景には何があったか?>
時は1789年10月6日深夜 ルイーズと娘と娘の家庭教師の3人は辻
馬車に乗り込みパリ脱出
リヨン~トリノパルマボローニャフィレンツェ~ローマへと続く逃
避行であった 7月にバスティーユ監獄が襲撃され フランス革命勃発!
 前夜 母に別れを告げに行った際には 3週間前に会ったばかりなのに 
 母親は娘と分からなかったほどやつれていたとか
トリノに着いた時の気持ちたるや それは生き延びたという思いもあった
ろうが お金もないどうしようという切迫感も大きかったろう ここです
ごいのが彼女の名声と芸術家同士のつながりの深さだろう 次々に支援の
手が差し伸べられ 肖像画の注文もどんどん舞い込み 彼女自身 フィレ
ンツェのウフィツィ美術館 ピッティ宮殿 バチカンで大尊敬のラファエ
ロの本物に触れて大感激 元気づけられた
ウフィツィ美術館からは 是非自画像を寄贈願いたいとの申し出を受け 
ローマで上の絵を完成させ寄贈した 肖像画の彼女は20歳の女性の様に
若く美しい フランスを離れてからの苦難の日々が画家の内面を鍛え上げ
それが作品に反映されている

このあと ナポリ肖像画の大量注文をさばき ローマからトリノまで来
て ルイーズに対し 革命政府が「不法亡命者」のレッテルを張り 全財
産没収という処分に出ていることを知り 戻れなくなった

そこでルイーズはウィーンに それからプラハドレスデン~ベルリン~
サンクトペテルブルグと移動の旅を続けた でも 彼女がどれだけ欧州で
愛されたか・・・生涯でパリ ルーアン ローマ パルマ ボローニャ 
サンクトペテルブルグ ベルリン ジュネーブ アビニョンの各アカデミ
ー会員に推挙されたことが証明している

追悼:ルイーズは パリ近郊のルーヴシエンヌ市(サン・ラザール駅から
   30分)に居住しここで没した 市から功績を讃え 居住地の通り
   を「ヴィジェ・ルブラン通」と名付けられた いつか行ってみたい

後日談:東京富士美術館にて
    ルネ・ユイグのまなざし「フランス絵画の精華」

なんと エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの絵画展が来日し
ているとの新聞広告を妻が発見 展示作品に「麦わら帽子・・・」が含ま
れているかもと期待しましたが 目録を調べると他の作品3点ありと判明
是非見に行きたいと思いましたが 場所が八王子の郊外 しかも創価学会
がらみで どうしようか迷っていましたが 結局思い切って出かけました
八王子駅北口から西東京バス(シルバーパス利用可)で創価大学正門前・
東京富士美術館前まで直通 バスは満員で座れませんでした
本日令和二年1月16日のお昼 平日なのに館内は満員 聖教新聞の読者
が大挙して来ているのでは?と思えるほどでした

お目当てはルイーズです 何と 提供者のご厚意で写真撮影可が3枚 
うち1枚が下の「ポリニャック公爵夫人」でした

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ヴェルサイユ宮殿所蔵作品 何となく「麦わら帽子・・・」に似ています
モデルはマリー・アントワネット王妃の友人で フランス王家の養育係で
した フランスのロココ趣味がヨーロッパ各国に広まったのは ルイーズ
の絵によるところが大きかったと言える

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他の2枚は撮影不可だったので ポストカードを購入して転写しました
右の「クリッソル男爵夫人」はトゥールーズのオーギュスタン美術館
左は東京富士美術館所蔵の「ユスーポフ公爵夫人」ロシア ポチョムキン
の姪とのこと(1797年)
実は もう1枚が当館の常設展にあることを事前に調べておきました
「フランス王妃マリー=アントワネットの肖像」です 専門家に言わせる
と 夫の姪が原作を前にして模写したものでは?とも言われる 原作はル
イーズが死ぬまで手元に置いておいた超お気に入りの作品らしい

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常設展の展示物は 撮影可 ものすごいサービスです
池田大作先生に感謝 というか所蔵の陳列作品にしても 今回の企画展に
しても よくまあこんな見知らぬ美術館に集められたものだと正直ビック
リでした

今回の展覧会は ここ東京富士美術館の初代名誉館長であるルネ・ユイグ
に捧ぐとあり 何者?と調べると フランスの美術史家でルーブルの絵画
部長 ジャックマール・アンドレ美術館の館長など歴任している方だそう

当館のコレクション形成に尽力し ナチスからルーブル美術館のコレクシ
ョンを守ったことで有名だとか
歴史的には この人よりジャック・ジョジャールの活躍の方が上と思うが
1939年 9月3日 英仏がドイツに宣戦布告した日 まさにその日
サモトラケのニケ」がパリから160km南のシャンボール城に向けパ
リ脱出に成功したのである

中学2年生当時「大列車作戦」という映画に夢中になった 蒸気機関車
主役 連合軍のパリ解放直前 ドイツが軍資金にするため略奪した美術品
(当時パリに残っていたのは退廃芸術と言われた印象派作品群)を機関車
に載せドイツへという時 機関車の操車係長を中心に フランス国鉄の鉄
道員達がサボタージュ 一晩中機関車はパリ市内を回る 次々に駅名の札
を変えドイツ軍を欺いたのです
そして脱線させ 美術品を守ったという粗筋だったと記憶します 
バート・ランカスター主演の米国映画です
機関車の爆走 脱線 爆発と一体どれだけ壊せば気が済むのか・・・
鉄ちゃんなら泣き崩れます 最後はバートランカスターだけ生き残った
これは出来過ぎです

1974年 モナリザが来日し その際ユイグ氏も来日 そして池田大作
氏と意気投合し「友情と信頼」を築き上げ 美術館設立となったようです
結局は金の力?
1995年 在外外国人として 日本の「勲二等旭日重光章」を受賞

今回の展示作品もヴェルサイユ宮殿美術館 オルセー美術館 大英博物館
などの協力で17世紀の古典から18世紀のロココ 19世紀の新古典主
義 ロマン主義を経て印象派誕生前夜まで 壮大なフランス絵画の流れが
日本に集結したことはスゴイ!

個人的には ルイーズの作品にお目にかかれて昨年の悔しさのウップンが
晴れたことが嬉しかった(一つ気になったのが 彼女に対し「ヴィジェ」
と表記している点 離婚した夫の側の名前は使わないでほしいものです)