隠岐・鳥取 太平記旅行モニターツアー3日間 後半

  
           後醍醐天皇の道(碧風館に掲示されていたもの)

隠岐を脱出しますが 追っ手の佐々木清高隠岐守護)が追います
何とか追っ手をかわしたが ただ帆掛け船では進路が定まりません
当初 隠岐から直下の島根半島を目指したものの 風にあおられて
大きく東に逸れ 鳥取県の名和湊(上陸地点伝説複数あり)に上陸


   「太平記」の舞台・潮風のみちコース(名和エリア)散策マップ
   スタートの御来屋(みくりや)伊勢神宮の御厨から拝借した名前

(前半に続いて)
太平記」は 後醍醐天皇が倒幕運動を開始した正中の変(1324)
 から足利義満の将軍職就任・南北朝統一(1367)まで約40年間
平家物語」と並ぶ日本を代表する軍記物 いささか北朝びいきです
太平記読みの太平記知らず」と言いますが ゴタゴタしていて どう
解釈すべきか難解 「後醍醐天皇は徳を欠いた人」とも書かれています

上のマップ①~⑫をガイドさん二名と共に歩きます

②お腰掛けの岩 脱出に成功してひとまずホッ 横に歌碑があります
 「忘れめや よるべも波のあら磯を御船の上に とめし心を」
 30年ほど前までは海中にありましたが 漁港の改修により海面が
 下がったため 現在では陸の上ですとガイドさんが説明をスタート

                  大山町(旧名和町)のマンホール
                  中心に名和氏の家紋帆掛け船あり
③元弘帝御着船所の碑 名和湊(現在の御来屋)に上陸時 しばらくの間
 天皇をかくまった家(塒ねぐらという姓を賜る)に対し 後に鳥取藩が
 賞してこの碑を建立(以前の碑は先が丸く 今は帆掛けを意識した形)

 歩いていて車以外誰にも会いません 以前 ある番組の撮影のロケでも
 人と会うシーンが撮れずに苦労したらしい・・・と二人目のガイドさん
 窓から顔を出した人を頼りに紹介してもらい 辿り着いたのが「塒家」 
 名字から名前の由来を聞き出しビックリ! 

住吉神社 摂津の国の官幣住吉大社の分霊を祀る 奉幣したらしい

 山陰本線 名和駅 背中に建つのが駅隣接の居酒屋 ごく稀に営業と
 当駅の乗降人数は 一日平均80人

⑤名和公園 桜の名所 日本海の向こうに隠岐の島が見えると皆さん
 近隣で生産の 真子瓦(しんじがわら)で統一された屋根が美しい


      ⑥名和神社鳥取県で最大の神社) 

 「別格官幣社名和神社」これは東郷平八郎 扁額は三条実美が揮毫した
 1876年 鳥取県名和長年の功績は 楠木氏に比肩するから県社を
 国幣社格にと申請 多くの推薦もあり3年後湊川神社の次順位に定めた
(参考:別格と付くのは 国家に功績のあった人をまつるの意味がある)

 明治16年参道に400本の桜が植えられ「桜のトンネル」として有名
 現在の社殿は 伊藤忠太指導 角南(すなみ)隆により昭和10年完成

 神社本殿の社紋は 名和氏家紋の帆掛け船(後醍醐天皇より下賜) 

 右は長谷川等伯筆の名和長年肖像画 長年の直垂に帆掛け船あり

   「太平記」の時代の大ファンである私の長年の疑問点 それは
   どうして南朝側の武将は 足利尊氏に次から次と敗れたのか?
   楠木正成新田義貞名和長年親子も 北畠顕家も・・・・・
   武将の人数差が大きかったのか 戦術の差か はたまた何が?
   ガイドさんにぶつけるも分からないそうで 本当に残念でした

 昼食はジビエ料理でした コロッケの肉はイノシシでした

①御来屋みくりや駅 添乗員さんに依頼して 予定外の当駅訪問が実現
 昭和35年に鳥取県で初めて鉄道が開通します この時の開通区間
 物資陸揚げの境港から 陸軍軍馬補充部が近い御来屋駅間でした 


  当時の駅舎がそのまま残る山陰最古の駅 
 (平成14年山陰鉄道100周年を記念して旧駅舎を改修しました)

 駅事務室の有効活用で農産物直売所に ただし農家の高齢化で
 置く人も減り赤字化 9月末で閉店 乗降客一日平均180人

 隣のホームまでひとっ走り 跨線橋を必死に往復したのに小さな写真
 しかも綺麗に写っていないと 妻のブツブツが聞こえます

 ポストも現役 一日一回の回収だそうです
 問題は 右の「みくりや」の看板です ここはなのに・・・

     WEBを検索していて判明 市場の市だったのです
     一週間 分からなかったのです スッキリしました!

⑦名和公屋敷跡 名和氏二代の屋敷跡 昼食後再スタートしました

⑧長綱寺 名和一族の菩提寺 後醍醐天皇 名和一族の位牌が祀ってある
 約680年前 長年の父行高の60歳を祝って建てた隠居所が始まりと

⑨名和公一族郎党の墓 200基ほどの一石彫の五輪塔
 長年が船上山で鎌倉幕府軍と戦った際の戦死者一族や
 館に残った女性や子供たちの墓とも言われている

 名和長年 室町時代には「足利氏に弓引いた一族」江戸時代になると
 地元の民によって こっそり祀られ 明治時代になると「勤王の英雄」
 「鳥取の英雄」に 明治19年正三位 昭和10年従一位に列せられる
 これは 家康・慶喜東郷平八郎と同格で あの乃木将軍より上である

⑩的石 弓の名手であった長年が 弓矢の稽古で的にした石

⑪氏殿(うじどの)神社 名和神社の旧社殿 ジャングルの中にあった
 江戸時代 初代鳥取藩主池田光仲公の命令で「氏殿権現」として祀る
 名和長年の顕彰文を見つけ 石碑にするよう命じたまま170年経過
 石鳥居は嘉永7年(1854年)
 当時の鳥取藩 藩主は池田慶徳慶喜の実兄)初代藩主が手をつけた
 石碑を(明治の廃藩置県で)最後となった藩主が完成させたのです

⑫三人五輪 五輪塔は5基 左から長年 長男 三男の首が埋められる
 周囲の畑には えぐみの少ない「大山ブロッコリー」が植わっていた

ここで終了 バスで大山寺門前の「ホテル大山しろがね」へ向かいます
本日のホテル客室は 添乗員さんのご配慮で洋室にしていただけました

時間は まだ15:30です 余裕があるので大山寺奥宮に行くことに
妻は疲れた様で寝て待っていますと

ルート上 奥宮まで15分と書いてあります これは楽勝と思いました
写真左は「和合の石」と言うそう 杉の木と石がしっかり和合している

大山寺本堂は 明日行くであろうからと 最初は奥宮から攻めることに
入ったはいいが砂利道が続きます 綺麗に削られた石段ならいざ知らず
自然石がころがっているのです(翌日添乗員さんから日本一長い砂利道
ですと伝えられました 事前に知っていたらチャレンジしなかった?)

途中ですれ違う人に聞きます「あとどのくらい?」「まだまだです」と
「暗くなるから気を付けて下さい」そう言われても どうしようもない

ようやく石段前に来ました 石段の方がはるかに歩きやすいのです
「後ろ向き門」という立て札がありますが何のことやら・・・(後述)

ビフォーアフターです 眼の前には 覆いをかぶった神社社殿が・・・
令和4年から7年までの修復工事に入っていました

真っ暗の中 拝殿に入りパチリ(奥の奥に撮影禁止とありましたが)

社殿を回り込んで お仮殿に出くわしますが社務所らしきものなし

工事中の社殿を見て回り 階段を下ります 見えるのが表門?
少しづつ暗くなってきて 急ぎます 石ころの砂利道でころばぬように
下ばかり見ながら下山です 砂利というより 石を並べただけ?

神社入口の像がライトアップされています
すぐ横に 志賀直哉「暗夜行路ゆかりの地」という文学碑があるはずで
往路では覚えていました 復路では疲れていて見落としてしまいました
小説の神様と言われた名文家 ですが好みではありません 暗過ぎます

大山寺本堂もライトアップされている?と期待しつつ 上ります

こちらは石段だけなので そう苦痛は感じませんでした
時間は17時過ぎ まだまだ真っ暗になりませんように

やはり本堂はしまっていました そうそう証拠写真が必要でしたね

周囲を見渡すと 奥宮に通じる道の標識があるではありませんか! 
そうなんです この本堂から近道が有り それで15分なのです!

鐘撞きは禁止の様です 
急いで下山 もう真っ暗になりました まだ17:30です


私が採ったコースは①から③⑥⑦⑧ ③へ戻り② そして③①
効率的なのは ①から③②④⑥⑦⑧ ③へ戻り①へだと思います
15:30に走れば本堂が閉まる16:00に間に合ったかも?

これ御幸参道本通りです ③から①へ坂道で足が疲れます
どうしてこんなにも 両方上るなんて無理したのでしょう
大山が平成28年4月に日本遺産認定 その2年後の平成30年には
「大山開山1,300年祭」が開かれた 是非挑戦をと思ったのです
大山の大本営(旧大山寺本社は奥宮)だからです

夕食です お造りは 境港の銀鮭と山陰沖の白烏賊 甘えび
焼き物は 大山豚の陶板焼き 御飯は 鳥取県産米「星空舞」
・・・お米は昨晩の方が断然美味しかった
今日のお酒は 日本酒吞み比べ三種セットにしました

<三日目 11月1日(水)晴れ>大山と琴浦町

レストランというか食堂 朝食は普通

大山寺には 昨日行っているのでホテルで待とうかと思いましたが
妻のことがチョッピリ心配 そしてご朱印をもらえたらと再出発!

大山寺は「地蔵信仰が育んだ日本最大の牛馬市」で有名と
明治時代には 年間一万頭以上の取引となりました 昭和初期の鉄道
発達で幕を閉じますが 地蔵信仰自体は日々の営みの中生きていると
右の写真は 昭和6年の市の様子と

いざ大山寺へという場所 左が昨日歩いた大神山神社奥宮への道
右が大山寺本堂への石段 ここでは神仏習合のように見えますが 
よく神仏分離廃仏毀釈)の歴史を生きながらえた?

前を見ても石段 後ろを振り返っても石段

本堂に到達しましたが またも閉まっています 9時からとのこと

ご朱印は 途中の社務所に置いてあるものを 300円の賽銭で入手済

鐘をつくふりをして終了 
牛の頭を撫でて認知症にならない様お願い 「宝牛」と呼ばれています

何の花か不明です 本堂の舞台は懸造り? いやコンクリートです

ホテルを9時前に出発し 後醍醐天皇決戦の地 船上山に向かいます

ここ 船上山を仰ぎ見る「船上山ダム」です 天気快晴雲一つ無し
船上山は 平安時代初期から山岳仏教が栄え 大山・三徳山と共に
伯耆三嶺」と呼ばれる修験道霊場であった

船上山 近づけば柱状節理がすごい 山頂は平坦で 守る側には有利
後醍醐天皇・名和一族連合軍側はわずか150人 大山寺の僧兵も応援
(大山寺別当であった信濃坊源盛は僧兵700余騎を従え 兄名和長年
の義挙を助けたと 大山寺記録にあり 源盛の墓が牛霊碑横にあった)

追っ手の佐々木清高はじめ幕府軍は2~3千人 圧倒的不利の中 山頂
から大きな石を落とします 住民たちがかき集めて献上した旗竿が大勢
いるように攪乱させます 地勢的に圧倒的に不利な幕府軍は敗退します
結局80日間守り通したと(準備に食料も担ぎ上げた 一斗六升です)

ここにはガイドさんのほか 琴浦町の観光局の方が複数見えていて
このモニターツアーでもって 会社が正式に ツアー取組み開始を
進めるよう 必死に願っているのが良く分かります

新歌舞伎「名和長年」なる 鳥取県のトリニュースが回覧されて
フムフムとその場では見ていました 幸田露伴原作そうなんだ~
くらいに見ていましたが このブログ作成にあたり 私が撮影を
しておいた記事の欄外に 演出石川耕士とあるではないですか!
学生時代に 同じ映画研究会に在籍していた後輩 歌舞伎界では
今話題の 有罪判決を受けた人物の付け人から始まり 現在では
超売れっ子脚本家として名を馳せているのが石川耕士君なのです
平成21年という相当前の新聞記事 奇遇だなと感じ入りました

この新歌舞伎 地歌舞伎(素人歌舞伎)の伝統があり 現在も
引き継がれていると 郷土の英雄「名和長年」が44年振りに
新・朝日座に堂々の復活と 当時は大賑わいであったようです

船上山ダムでは わずか10分程度のガイドに終わりましたが
私にとっては 大変収穫のある記憶に残る訪問地となりました

日本交通のジャンボタクシーが 道幅ギリギリに走り 琴浦町
海岸に作られた「波しぐれ三度笠」の石像が出迎えてくれました

9人乗りジャンボが 琴浦町の「塩谷定好記念写真館」に到着です
特別 期待していませんでしたが とても良い思い出が作れました

今年8月 倉敷市下津井の回船問屋(平成29年日本遺産認定)に
立寄り 北前船の話をじっくりと聞かせていただいたばかりであり
比較しながら お孫さんの話に夢中になった 今回隠岐の西ノ島で
知った北前船と焼火神社の話も 帰京後調べ直し感心したばかりで
今年は 北前船の当たり年 日本遺産もイイ クラブツーリズム
北前船寄港地旅行」なんていう企画は出来ないものでしょうか?

左:海水浴場小景 中:ホタルブクロ草 右:三徳山
写真はそれほど興味が湧きません

愛用のカメラと 塩谷氏の写真を紹介する雑誌
TV「ぶらぶら美術館」でよくゲストに来られる山下さんの本です

天井を反射板のように白く塗ったギャラリーで写真をどうぞ

固い椅子と坪庭のセンスがとても素敵です

入口から入った瞬間の吹き抜け天井の雰囲気に思わず引き込まれます
次いで 回船問屋だった生家の 登録有形文化財の数々を拝見します

 最初から 床の間が二つある部屋に驚かされます

何だか圧倒される贅沢の極みです 螺鈿を施した違い棚は必見です
左端の木「鉄刀木(たがやさんの木)」という銘木で作られている

お庭もトイレのマジョルカタイルもイイ 本当に築120年?

回船問屋時代の品を集めた部屋 北前船は「蛭子丸」という船名
そうそう お孫さんというのは写真の方 小さな子供ではないです

司馬遼太郎菜の花の沖」の主人公 高田屋嘉兵衛はここで修業を
積んで大出世したと 今年テレビで再放送 竹中直人が適役でした
出来得るならば ここでもう1時間ほど滞在したかった

神﨑神社 欧米人向け日本の観光地ガイドMに紹介されていました
(ここに来る前の塩谷定好写真記念館も同様紹介されていました) 
地元では荒神さんの愛称で親しまれる 水産海運・牛馬の守護神
本殿は鳥取藩のお抱え宮大工 小倉園三郎 拝殿は孫の平次郎作

拝殿には 天井に大きな龍が彫られ 3本の爪で幸せの玉(宝珠)を
つかんでいる姿が見られます 爪3本かあ・・・少々残念

宝珠の真下で一つだけ願い事を祈りましょう

本殿の彫刻を一周して見ましたが 全部彫っただけで 東照宮
参考にしたのでしたら 一部だけでも彩色作品にしてほしかった

彫刻作品としては 拝殿担当のお孫さんの作品に軍配!
左から神功皇后 亀に乗った浦島太郎 拝殿懸魚の「波と兎」等

昼食は 道の駅「ポート赤碕」すぐ横の「魚料理 海」
もさエビと海鮮のコラボ「鳴り石丼」食べてもたべても御飯に
到達しない こんな贅沢ができるなんて 近隣の人が羨ましい

いよいよ最後の訪問地 琴浦町「光の鏝絵(みつのこてえ)」
ANAの機内雑誌「翼の王国」546号でも紹介されました
そして 欧米人向け日本の観光地ガイドMでは☆一つ獲得です

鏝絵は全国で見ることができますが 一か所に集まっている密度では
琴浦が日本一 なまこ壁の蔵が密集する風景も珍しいですが 随所に
見られる縁起モチーフがユニーク 昭和30年頃から光地区に鏝絵が
作られ 現在は約30戸に見ることができます
上のマップに沿い 地元在住者のガイドさんに案内してもらえました

①吉田貞一 亀・波・・・波は火事除けのシンボル
②吉田勝重 巾着
③吉田貞一 鯉・波

④野口原貞雄 鯉・波・・・鯉の苦労の末の龍 立身出世の象徴
⑤野口原貞雄 巾着・・・・福をためる 災いから身を隠す
⑥野口原貞雄 打出の小槌

⑦吉田貞一 巾着・菊
⑧調査中  亀・波
⑨調査中  鶴・松

⑩吉田貞一 家紋
⑪調査中  木目
⑫吉田貞一 稲妻

⑬吉田貞一 亀・波・・・不老長寿の地としての蓬莱山の使い
⑭吉田貞一 座り蕪・・・株が上がるにかけて 評判が良くなる
⑮野口原貞雄 飛翔鶴 波・亀・巾着・小槌
         ・・・古来「鶴は千年」長寿を象徴する吉祥の鳥

⑯吉田勝重 巾着
⑰野口原貞雄 鶴・亀・波

この6枚は 12歳から左官職人に弟子入りをし多くの鏝絵を残した
吉田貞一の家 生家と分かるように色彩豊かな鏝絵を残してあります
鏝絵は「蔵飾り」とも呼ばれています 職人が創り上げた芸術品です

最後におまけです 家々の門の入口に一時停止のマークがありました
ガラス細工の装飾も綺麗でした 瓶を割って張り合わせたようです

この地域 昔は「三津」だったと「光(みつ)」と覚えてもらうまで
時間がかかります 地域的には漁業の町 港も近く三津が似合います

道路に出ました この道の奥に船上山がありますと
後醍醐天皇は馬に乗り 最後は おぶられ山に登られたそうです

米子空港には 鬼太郎とぬりかべが待っていました
復路は 米子空港17:40発ANA 羽田空港19:05着です

帰京後おさらいです
1,大山の「後ろ向き門」って何だろう?
  明治維新政府での薩長の下級階級の狂気の仕業 それが廃仏毀釈
  神仏分離令のもと 神道を国教とし仏教はそもそも外来の物だと
  決めつけ あらんかぎりの狼藉を働いた 日本の恥の歴史である

  ここ大山も1875年「大山寺号廃絶」となり 大山寺の本社は
  大神山神社の所有となって 本尊などは大日堂へ移されたのです
  奥宮には 新たに大国主命が祀られて 仏像は全て取り除かれた

   
                 本坊西楽院(さいらくいん)跡 
  問題の「後ろ向き門」は 元は大山寺の本坊・西楽院の表門です
  廃寺で奥宮へ神門として移築する際 表と裏をミス「逆門」とも
  呼ばれています 残念なのは この天下の悪法も1876年には
  下火に もう少し頑張ってほしかった

2,(添乗員さんの一言 大山寺本堂から見える弓ヶ浜 これは何と
  たたら製鉄からの排砂からできている エッ!です 調べました)
  米子から境港まで続く20kmの海岸 弓ヶ浜半島の成り立ちです

         日本最大の砂洲 半島は砂のみで形成されている どこから供給?
  砂の量も広さも鳥取砂丘を遥かに凌ぐ それ 本当なのだろうか?


   2022年8月放送の旅番組 境港・米子編では ゲストが
   水木しげるロードを歩き 弓ヶ浜の砂洲の秘密も解き明かし
   最後は皆生温泉にも行っていた 添乗員さん見ていたんです

  膨大な砂の多くは 半島の付け根に河口のある日野川から運ばれる
  上流部の中国山地や大山から崩れた砂 いや大半は たたら製鉄
  砂鉄を採るため 山を崩して鉄穴流しをした際の排砂(砂鉄は少し
  だけ 残りは川に流す)なのです その量は1億㎥とも言われます
  古代より 中国山地は日本を代表する鉄生産地で 江戸幕末期から
  明治初めに至っては このエリアで 日本の鉄の8割以上を賄って
  いたことが背景にあります(参考:大山開山1、300年祭講演)

3,欧米人向け日本の観光地ガイドMで 紹介されている今回のツアー
  中に訪問した先で ☆を獲得した先は・・・
  水木しげるロード・・・☆
  隠岐諸島 国賀海岸と摩天崖・・・いずれも☆☆
  大山・・・☆
  光の鏝絵・・・☆

  この選定をした編集者の言葉が素敵です
  「隠岐の慈しみ深い自然の風景です 野生の植物や 人の手の
  入らない切り立った崖 その類まれな自然の楽園を 整備された
  歩道から楽しむ開放感 非日常的な冒険を求めるフランス人を
  大いに喜ばせるでしょう」

  代表取締役社長の言葉もあります
  「自然と文化 豊かな山陰の各地の観光地がフランス人の視点で
  まとめられています このサイトの公開によって 多くの外国人
  観光客が山陰エリアを訪れ 点から線 地域から広域へと 足を
  延ばし 山陰を驚嘆と共に周遊していただくことを願っています」  

  追加:Mと並んでフランスで有名な A社の格付け旅行ガイドでは
     隠岐の島が☆☆☆(日本全国では20余り)を獲得した

4,私の意見
  このツアーを成功させるためには
  ①鳥取砂丘出雲大社・松江・石見銀山そして米子・境港まで
   来ている あの人に是非 隠岐の島にも出向いてもらいたい
   隠岐の島の島前カルデラ 地質学が大好物な あの人です 
   絶対にOKされるはず・・・
  ②テレビでの「太平記 総集編」を是非リバイバル
   島根県鳥取県の両県で声を上げれば 実現するのでは?
   
  ③欧米人向け日本の観光地ガイドMを 広く見てもらうように
   クラブツーリズムの広宣担当に頑張ってもらう事も重要です 


   琴浦町快挙

   人口別に7グループ(1万人未満~20万人以上)に分けた
   その中で 人口1万人以上2万人未満のまち総合第一位です

   ・大山と日本海の両方に接し 山と海の多彩な魅力が楽しめる
   ・若い人たちがチャレンジしやすい環境があり 街の人も応援
   ・さまざまな分野のサークル活動が盛んで官民一体で移住者を
    支援
   因みに第二位は長野県飯山市 第三位は高知県四万十町でした

  ④費用面でいえば 15万9千円は 少々高過ぎる気がします
   他社催行の「島の恵みを味わう 隠岐諸島3日間」と比べて
   勝てる要素が少ない 対抗する琴浦町知名度が相当低い!
   と思っていたところ 上の雑誌記事発見 頑張れるかも??
   注:「鏝絵ってどう描くの?」と検索するとユーチューブで
     実演光景が流れます その動画を活用してPRするのも
     いいのでは?
  ⑤ガイドさんは 発声のしっかりした若い女性がイイ・・・
   何なら歴史好きのフェロースタッフさんを猛勉強させては?
   二日目と三日目のおじいさんベテランでしょうがノーグッド
   (私が元気でしたら 標準語で説明が可能ですが残念です) 

   あと 参考までに シニアには洋室を そして洋式トイレの
   有無も 各観光先で要注意です
                          終了です
   
  
  
    





















 


























 






 

 

隠岐・鳥取 太平記旅行モニターツアー3日間 前半

隠岐 西ノ島の観音岩 サンセット時の絶景

<一日目 10月30日(月)晴れ>隠岐の島上陸
今回は クラブツーリズムのCTキャストとして このコースで一般の
お客様が参加し 本当に満足していただけるか否かを探る旅 責任大! 
スマホで見る場合は 文字数の関係で 横画面で見ていただきたい)

機種は新しく 映画を観る画面が最新式 ただし米子空港まで80分で
全編見られないことになるので注意 あとANAのマイルはつきません

米子空港到着 荷物受け取り場所の天井を見上げると ぬりかべの歓迎
そして大山を背景とした皆生温泉足立美術館の広告  山陰の顔ですね

空港から専用バスで境港へ JR駅とフェリー乗り場が隣接しています
それにしても どこを見ても鬼太郎ばかりです 境港市水木しげる
出身地だから仕方ありません

案内標識も「水木しげるロード」が一番上にあり添乗員さんも勧めるので
レインボージェット(高速船)11:50出発までの時間に いざ見学!

ガイドマップは観光案内所にあります 妖怪スタンプラリーはいかが?

世界ジオパーク」としての「隠岐の島の成り立ち」について

①「大陸の時代」2億5千年前 隠岐は かつて大陸の一部であった

  

②「日本海形成の時代」2,600万年前~600万年前
  日本と隠岐の土地はゆっくり引っ張られ その部分が沈み その
  窪みに湖ができ 海水が流れ込み 日本海になった 隠岐の島が
  湖の底から海の底になった時代である
③「火山島の時代」 600万年前~40万年前
  激しい火山噴火 500万年前には「島前カルデラ」が誕生した
④「半島から孤島へ」 40万年前~現在へ
  火山活動が終息したのちは 気候変動と海抜の変化で 繰り返し
  地上に現われては海水に沈み 島と本土の繋がりは断続的に変動
  (現在の水深が70~80mしかない隠岐海峡は 最終氷期には
  約1万年の間に 100mの高さが変化した)

2013年ユネスコ世界ジオパークに認定され 今年10周年を迎えた

そして隠岐は 古事記の神話の島 イザナギの命(みこと)とイザナミ
の命が三番目に産んだ島が隠岐(参考 一番目から淡路島 四国 隠岐
九州 壱岐 対馬 佐渡 ラストが本州)更に神話世界では 大黒様が
助けた因幡の白兎は 隠岐の島から鰐の背中を渡ってきたのです

高速船で 島後の西郷港経由 西ノ島別府港着13:55 2時間の船旅

お弁当が配られます 美味しかった
というか献立表がすごいのです 砂丘長芋 米子白ネギ 境港サーモン
大山豚 大山ブロッコリー 大山鶏 星空舞 鳥取県産すいかのゼリー
これでもか これでもかの 産地名の宣伝オンパレードでした

船は全く揺れず快適でしたが 展望デッキが無く外に出られません 
カメラ撮影は分厚い窓越しになります

(妻のスマホで撮影)私のボロカメラよりもキレイ

別府港到着 背後に見えるのは 見附島 監視と警護を兼ねています
そうです 島流しにあった後醍醐天皇の 脱出防止が主目的なのです

観光タクシーには 我々モニター6人 添乗員1名 会社から2名の
計9名 港からすぐの「黒木神社」後醍醐天皇の行在所阯からスタート

付近の案内図で説明後 資料館の「碧風館」に入ります

黒木御所の黒木とは 木の皮を削っていない木材のこと
「黒木御所の歌」これを読めば 後醍醐天皇脱出劇の概略が分かります?


   館内ガイドが 後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を図った意図を説明
嵯峨天皇の後継天皇を 第三皇子にせず弟の第四皇子にしたために
兄弟間の争いに発展 最終鎌倉幕府が仲介し「両党迭立(てつりつ)」
という異例の天皇交代制(持明院統大覚寺統)が始まったのですと

私流に説明すると 御嵯峨は兄の後深草より弟の亀山を好んだため最初
譲位した兄から弟へ譲位させ そして亀山の子2歳の後宇多へ継がせた
最終 御嵯峨は 自分の嫡流を二人の息子のどちらにするか明言せずに
あとは鎌倉幕府宜しくという感じで死去 これではもめること必至です

後に 後醍醐天皇が即位したあと やはり自分の子息に譲位し 自分は
上皇になるのが筋 鎌倉幕府には次の天皇決定権限は無いと主張します 
倒幕計画を練り 最終的に失敗し(死刑の次に重い)島流しになります

ここで疑問が・・・どうして隠岐の島なのか?
月刊誌「島へ●」の隠岐の島特集号で判明 京都・奈良から見て北西の
方角が吉兆だから(反対に北東は鬼門)と天皇に対する敬意からです

右は 出雲市別所町の鰐淵寺(がくえんじ)根本中堂 南北朝時代には 
当寺の北院と南院で それぞれが北朝 南朝を支持して対立していた
後醍醐天皇隠岐に配流を知り 南院の頼源大師が御所に伺候し 宸筆の
願文(倒幕の所願を遂げたら 薬師堂を造営するというもの)を賜った
この願文は現存し 重要文化財に指定されている(碧風館の物は複製)
頼源は 後醍醐天皇隠岐脱出を助け 南朝に忠誠を尽くした人物です

10数年後 北院と南院は和解し それぞれの千手観音菩薩薬師如来
両方をご本尊として祀ったそうです 

後醍醐天皇は 配流後 各方面に手紙を出し続け 脱出計画を進める
親書の伝達は専ら 島の焼火(たくひ)神社で修行中の山伏だったと

現在も続いている地元別府の「でやんな祭り」は春と秋に実施される
酒造り神事 神事の開始前に「でやんなよう(出逢うな出るな)」と
告げられ 神事の間は関係者以外は外出禁止となる 家の戸を閉ざし
明かりが外に漏れないようにして家の中で物忌みをする・・・

これが後醍醐天皇の脱出日に実施され 暗闇の中必死の山越えが実現
(地元民は知らないことと言えます) 帆掛け船で本土に向かいます
その日が1333年閏2月24日 旧暦の2月は現在の3月に相当し
3月の初巳と10月28日に「でやんな祭り」が行われるのです 

(2019年8月に英国を訪問 その際知った物語があります)
我々夫婦 これを聞いてすぐに連想するのは 11世紀イングランド
ゴダイヴァ夫人 夫で領主の悪政に反対するも聞き入れられず 夫から
コヴェントリーの町を 裸で馬に乗り通せば聞いてやると言われ では
ということで 長い髪を下ろし できるだけ目立たぬように行進します

町人たちは 夫人に恩義を感じ 窓を閉め覗き見するのを控えたのです
結果 悪政は取り消された 後日この夫人が領主になったとのことです
現在のゴディバチョコレートの由来となり ゴディバの商標になります

黒木神社へ参ります

「黒木御所阯」と 小泉八雲の手記 

黒木御所阯には 大正天皇以降 代々の天皇・皇室の方々が参拝されて
います すごいなあと思ったのに 実は海士町後鳥羽天皇御火葬塚や
行在所跡に参拝されたあと ついで(の意味が大きい)に こちらもと
いうことで来られるとのガイドさんの説明 なあんだという気持ちです
なにしろ 現在の皇室は後鳥羽天皇北朝持明院統) 後醍醐天皇
もうすでに途絶えている南朝大覚寺統)だからなのでしょうか?

参考(地球の歩き方から)
天皇家の紋章が菊とされているのは有名です その起源は後鳥羽上皇
菊の花をよく好み  自ら造った刀にも菊を記していたことから始まった

昔は この石の所までが波打ち際で ここで船待ちのあいだ腰掛ていた
伝承では ここから小舟で脱出スタート(知夫村から帆掛け船)したと

ガイドさんお勧め由良比女神社 平安時代隠岐国一宮に定められた古社
本土にまで宮大工修行に出て習得した地元の大工さんの見事な腕を見てと
時間が無いことを残念がっていました(WEBより転載しておきます)

タクシーは山の上に到着 3島で「島前カルデラ」を形成
西ノ島の焼火山を中心に その外輪山が3つの島々となっています

海に浮かぶカルデラは世界的にも珍しく 外輪山が島でカルデラが海
なのは世界で2つ ギリシャサントリーニ島とここだけだそうです
この内海は非常に穏やかで 本土側からのフェリーや豪華客船も寄港
「島前カルデラ」は 世界の方が知名度高く 外国人の訪問も多いと

いったん山を下り「赤尾展望所」に向かいます
馬が道路をふさぎます 牛もです 馬は戦時中軍用馬に徴用され絶滅
内地や外国から島に 牛は小さいうちに競りにかけられ本土に送られ
神戸牛や松阪牛になるそうです

今日は天気が最高 雲の形がいいとガイドさん 次は「摩天崖」と
皆さん先ほどの馬に見とれて 反対側の通天橋には目が行きません

「摩天崖」こんな急坂を馬は難なく下りて行きます

添乗員さん撮影

私の後ろの赤シャツが 運転手兼ガイドの鏡谷さんです
ここからは竹島も近い 島根県の管轄です

この辺は 馬のウンチや牛のウンチで 足の踏み場がありません
ウンチは草食のためと 虫がバクテリアを分解し臭いはしません
陽が落ちて来ました ガイドさんがあせります

次は最後の観音岩 許可を得たからとゲートの錠前を・・・

ガイドさんが先頭に立って走ります 皆も後を追いかけます
岩と岩の間に陽が吸い込まれる寸前です まさに「天上界」です
追いかけると ガイドするのも忘れ この景観に浸っていました

観音岩を背にして 間近になった通天橋でも写真を一枚

その間に陽が沈み 夕焼けが広がります
こんな景観が見られるのは 私でも年に2~3回ですと ガイドさん
相当に興奮(岩の先端に夕日が重なり 後光が差す春夏の時期が最高)
山を下りながら 上ってくる車に何台も出逢いましたが 残念でした!

岩ガキ こんなに大きいのビックリです しかも超美味しい! 
岩ガキの養殖は 1992年に全国で初めて 西ノ島町で成功
現在はそのノウハウを基に 隠岐諸島全域で生産されています

箸置きの裏に書かれていた「隠岐しげさ節」の歌詞から
隠岐は絵の島花の島 磯にゃ浪の花咲く 里にゃ人情の花が咲く

本日ガイド兼運転手さんと一緒に回り 種々勉強になりました
江戸時代には 北前船が下関から隠岐経由能登まで運行しての
中継港だったし 北海道から帰りの船が 日本海が荒れるころ
までに瀬戸内海に入れない時は 無理をせずに隠岐で冬を越す
これを囲い船と呼んだそう 寄港地で一番栄えたのは 島後の
西郷港で 次は知夫里島が風待ち港として 西ノ島が続いたと

残る中ノ島の海士町(あまちょう)は 今空前のIターン人気
一年間のお試し期間を経て ずーっと住んでみたいという人が
とても多くて キャンセル待ちだそう 海士町の中ノ島は島の
北半分は島前最大の平地で住み易い 住民の2割がIターンと

<二日目 10月31日(火)晴れ>隠岐の島から鳥取県

ホテル「国賀荘」(浦郷湾の高台に位置する)の部屋の窓から
カルデラの内海のせいか 全く波が見えません 湖のようです

朝食は 昨晩の夕食に比べ 少なめですが お米が美味しい
当地のお米ではなく 鳥取・島根から運ばれます

ホテルの部屋が和室 我々夫婦 私は肩を痛めており 妻は膝の具合が 
良くなくて 朝起き上がるのに苦労しました シニアには洋室が・・・

フェリー乗り場とは少し離れた場所に切符売り場及び観光案内所が
あります そこに(ガイドさん曰く)広重・北斎隠岐の絵があり
それを一目見たかった


初代歌川広重「六十余州名所図会」隠岐焚火の社(1853~1856)


          葛飾北斎が描いた「焚火の社」北斎漫画七編より
          この二枚は残念ながら見逃したのでWEBから拝借
          
当寺 西回り廻船(北前船)の船人が尊崇した焼火権現は 船乗り達の
信仰厚く その神徳は東国まで轟き 広重・北斎は現地には行かずとも
聞き伝えで書いたのです 実際の焼火神社は海抜300mの高さにあり
上の絵の様に海岸から見えるものではない(とガイドさん)

神社のかがり火が 灯台の役目を果たし 船の航行の安全を守ったと
その焼火神社 今では日本人の99%が一生行かない初詣スポットと
(今回行けなかったけれど 参考の為掲載です)

船が別府港を離れます 帰路は中ノ島の菱浦港から 島後の西郷港
経由で境港に 7:40発 9:58着の予定です
いつかまた「隠岐へ ござらっしゃい」

10分後には菱浦港に到着

8:25西郷港に到着 鬼太郎丸が接岸していました

大型船が出港しています 外国船も寄港するそうです

境港に到着です 目の前の山頂には自衛隊の美保レーダー基地
上空には飛行機の往来が何度も見られました

境港駅自動販売

駅の待合室

駅舎は こんなに小さいのです(右写真)

バスの添乗員さん(勤続16年だそうです)
境港には いろんな大型船が寄港します 飛鳥 にっぽん丸
ジャパネットクルーズのMSC ホーランドウエステルダム

大山が見えて来ての民話紹介です 昔 韓国の神様 韓山と大山
どちらが高いかを比べるため 大きな船で 韓山をここに運んで
背比べしたそうで 結果大山が少し高かった 怒った韓国の神様
置いていったのが写真の左側の山 現在高麗山と呼ばれています

さてさて 我々は無事隠岐の島を脱出出来ましたが 歴史上での
後醍醐天皇脱出ツアーはどうなるのでしょうか 後半に続きます

簡単な人物関係
鎌倉幕府末期 第14代執権北条高時(高慢・病弱・虚無感の人物)
 正中の変で後醍醐側近の日野資朝佐渡へ配流 元弘の乱で俊基を
 処刑 後醍醐を隠岐へ配流 後醍醐船上山で挙兵では御家人筆頭の
 足利高氏を京都へ派遣・失敗 新田義貞が鎌倉へ そして高時自刃
 (テレビ「太平記」では片岡鶴太郎が怪演 まさに適役であった)

建武の新政時 後醍醐の皇子護良親王と後醍醐側室三位の局が対立  
 護良親王派は 赤松則村(幕府側六波羅探題家臣)・楠木正成
 三位の局派は 千種忠懸(この二人は隠岐に同行)・名和長年
 圧倒的に厚遇されたのは三位の局派で 護良親王の令旨を拝受後に
 反幕府として挙兵し 大活躍した赤松はその後 反後醍醐の尊氏に
 従った 公卿である千種・北畠顕家(親房の長男)は尊氏に敗れた

参考として「太平記」を取り巻く 南北朝時代を描く史論を紹介します
1,「増鏡」
  後鳥羽天皇即位から後醍醐天皇流罪・京都への復帰までを描いた
  百歳の尼に語らせた形式で 朝廷側に同情的な表現が多い 立場は
  南朝側の立場からで 南北朝時代に成立したようで作者不明である

2,「太平記
  全40巻+アルファ 作者は複数でしょう 成立時期不詳
  鎌倉幕府末期から足利義満までを 室町幕府との密接な関わりを
  持つ知識人を中心に編纂され 足利義満も修訂に関与したらしい
  初め南朝よりだった内容を「難太平記」で誤りを証明・訂正して
  北朝寄りに持って行った

3,「神皇正統記北畠親房著 1339年 1343年改訂
  日本建国の由来から 後醍醐天皇の皇子である後村上天皇即位まで
  約2千年の(天皇の代毎の)歴史をたどり 南朝の正統なることを
  論証した 国体論(血統的に一系の天皇をいただく日本国家体制の
  優秀性と永久性を強調する)や武道論を随所に交え 後世に大きな
  影響を与えた 1339年は後醍醐天皇が崩じ 後村上天皇となる
  年で この史論は後村上天皇への教育的要素をも含んでいる
    
4,「大日本史水戸光圀編纂と水戸学
  江戸時代 上の北畠親房の影響大で編纂された「大日本史」に端を
  発し 皇室の尊厳を説き 幕末の尊王攘夷運動に多大な影響を与え
  たのが 後世の皇国史観へと繋がる水戸学で 天皇親政を目指した
  後醍醐天皇こそ 正当な天皇であると主張 これは明治から昭和の
  初期に大ブームとなり 大日本帝国時代には 政府公認の歴史観
  された(「太平記」はどこかに置き去られた)

5,「私本太平記吉川英治著 戦後毎日新聞連載
  明治政府体制では 天皇に背いた大悪人とされた足利尊氏(高氏)
  南朝の大忠臣として美化されていた楠木正成等 イデオロギー的に
  語られた戦前では 一種のタブーであった日本の南北朝時代 逆に
  尊氏を主役に新解釈を加えて描く 
  楠木正成も温厚な苦悩の人として描かれ 戦前の忠臣のイメージを
  大きく変えている 1991年テレビ上映された「太平記」の原作
  真田広之足利尊氏を 武田鉄矢楠木正成を演じていました

個人的: 鎌倉幕府側から後醍醐天皇側に寝返り 最後に後醍醐天皇
     弓を引いた尊氏 理由の如何を問わず 絶対に許せません! 
     それと 父が軍人で 私が小さい頃に 銭湯で父から毎回の
     ように楠木正成公の赤坂城 千早城の戦いぶりを聞かされた
     これは団塊ジュニア世代の共通認識 南朝びいき当然ですね
     だからこそ 今回のツアーにも参加したのです

     皇居前には「大楠公」として立派な武者姿の銅像があります
     隠岐の島から戻られた後醍醐天皇を 兵庫の道筋で出迎えた
     ときの正成の勇姿 頭部は髙村高雲 他の部位を3名が担当
     肖像画は20枚以上あるが その全てが違う顔 多くの知見
     が集約され 製作に10年かかった力作なのです

     楠木正成は明治13年 正一位を追贈されています
     反対に足利尊氏は 一体どこでどうなっているのでしょう?
  
  






































2023年 初めての台湾4泊5日 後半

台湾総統府内にて

新幹線で台北駅(英語表記Taipei Main Station)に戻って来ました

昼食は「阿美飯店」 隣接する同系列店「好記担仔麺」は1867年
創業 担々麺では台北一との評判店 二店ともガイドさん一押しです

トイレにかかっていた暖簾と 男子トイレのドアの文字が???
「金玉(きんぎょく)満堂」とは 黄金や珠玉などの宝物が家の
中に満ち溢れていること 転じて学識や知識が非常に豊富なこと
例文「彼は 歩く辞書と言われる位の博識で まさに金玉満堂だ」
出典は老子九章「金玉 堂に満つれば 之を能く守る莫(な)し」


バスの車窓から 台北101を 手前に松山空港

免税店で 妻がシャネルの香水を購入 自らのお誕生日プレゼント
右:57歳のガイドさんと 日本の商社にも勤務していた経験あり
  ここは中華民国ではなく「台湾」ですと! 絶対独立をと主張
  まだまだ日本語はタドタドシイ 塩を「しょ」と発音愛嬌です

「十分」到着 願い事を書いて空に放つスカイランタン(天燈上げ)
赤色のランタンは健康を示す 他に黄色は金運 青は事業運 紫は
学業運等とあります 1色200元(4色までランタンにできる)

ランタンを上げる前と瞬間からは 店のスタッフが 
妻のスマホで撮影してくれます(別途動画で保管されています)

町の真ん中を観光列車が通る 日本統治時代は石炭を運ぶために
敷かれた路線 現在も1日16本 恵まれた景観の中を走ります
九份からでも バスと列車利用で十分駅に来れる人気コースです

参考:九份とか十分とかいう地名の意味?
   九份という地名には「開墾した土地を9人で分けたもの」と
   いう意味があり 清朝初期9世帯しか住民がいなかったこと
   に由来しているという説あり(十分も同主旨のようです)

平渓線の十分駅が見える所で ちょっと横に入って吊り橋へ

ガイドブックにも紹介されていなかった吊り橋で 得意の仁王立ち!

九份」です ツアーバスを町の駐車場で下り 町の乗合バスに乗換え
バスは3台目にようやく乗れました 本日3連休最終日曜日 大混雑

やはり人 人 人の満員状態 この階段を180段 必死に上ります

ここは金鉱で栄えた町 名残があります
と言うか 台湾九份の金山には 明治の日本統治時代1896年以降
石見銀山の技術者(藤田伝三郎創業の藤田組より)が派遣され開発を
続けたという歴史があったのです 現在 台湾の世界遺産登録認定に
向け 日台でムーブメントが起きています 注目して行きましょう!

   閉山後は閑散としていたが 映画「悲情城市」のロケ地で
   有名になり 今では台湾屈指の観光名所になりました 

観光地図には ただ神社との記載あり ガイドブックにも説明無し

茶芸館「九戸茶語」は 撮影スポットとして有名な階段のすぐ前です
夕日が隠れる前に入店 眼下に基隆(キールン)の海や山が広がります

生きた海老を14匹 上の箱に入れ熱湯を注ぎ入れる 暴れています

茶芸館とは思えないほどの 様々な料理に驚きました
当店は 高山茶が有名なのに お茶を楽しんでいる記憶がありません

ツアー同行の 親子連れの息子さんに撮ってもらえました
どうもNHKの番組作りに携わっているようでカメラの構え方が
サマになっている 普通ではないしゃがみ方での撮影でした・・

私が撮るといつものポーズ

<四日目 10月2日(月)晴れ>中正祈念堂と午後から自由時間
明日午前までの24時間自由時間で「MRT24時間パス」を購入

MRT(地下鉄)乗り放題 値段は 180元 安いですね

「中正祈念堂」の中正は蒋介石の字(あざな)で介石は通り名と
国民党を象徴する青瑠璃色の屋根が美しい

堂内にあった掲示写真を写しました 自由広場 何の集会かは不明 

衛兵交代式(妻のスマホに動画を保管) 
行進の際 特注の軍靴を床にたたきつける音カシャーンがイイ!
(衛兵の服 深緑が陸軍 紺色が海軍 青色が空軍 交代制)
参考:台湾の徴兵制 1949年以降2018年までは2年間で
   対中国との関係が落ち着いて 4ヶ月間の軍事訓練義務を
   残した志願制に移行した 但し最近の中国の軍事的圧力を
   勘案 来年2024年から1年間に延長方針となっている
   国民の声(18歳)としては 女性は有意義 男性は就職
   活動に不利で意義無しという風に分かれている

衛兵交代は毎正時に行われます 交代するまでの50分間 衛兵は
微動だにせず 瞬きさえも厳禁!守らないと翌日罰が与えられる?
(妻は 初め蝋人形かと思っていたようです)
衛兵になるには 三代の身元調査は勿論 身長178~180㎝と
規定あり イケメン度は?とガイドさんに質問 無いようですと

参考:真夏など汗が顔に という時は そばに汗をふく世話係
   のような人がいて その人が汗をぬぐってくれると


またも民芸店立ち寄りです
台湾茶は 1810年に中国福建省 厦門(アモイ)の商人が茶の苗木を
伝えたことでスタート または1860年代英国商人が 中国茶の最高峰
福建省 武夷山の葉樹を持ち込んだことからスタートと諸説あるようです

日本の茶道のように型や作法にはこだわらない「茶芸」があり おおらか
「どう お茶をおいしく飲むか」これがモットー 伝統と格式の老舗茶屋
「王徳傳」のモットーは 「徳をもって人に伝え 茶を持って友に介す」

お茶の種類も複数説明されていますが 次の4種類を記しておきます
凍頂烏龍茶と高山烏龍茶(千m以上の高地で栽培)は ほぼ同じ
②文山包種茶 茶葉が広がっているので20~30秒の湯煎でOK
③木柵鉄観音 茶葉が丸まっているので1分の湯煎
④東方美人茶 これは20~30秒 熱湯ではなく90度くらいの湯で

製法(発酵と焙煎)の度合 茶木の品種 産地の山頭気の別で微妙に違い
東方美人茶は 雲霞(うんか)にどれくらい噛まれたかでも違うそうです 


二つで 日本円で9千円と 「20%引きのおまけ」と店員さん
1元=4・875円と換算して そして20%引き 消費税5%

参考:台湾ドル対日本円の5年間推移(大きく変動した時期を記載)
    2018・10・09・・・1TWD=JPY 3・652
    2019・08・26・・・1TWD= JPY 3・336
            2022・07・16・・・1TWD=JPY 4・628
    2023・01・16・・・1TWD=JPY 4・226
    2023・09・30・・・1TWD=JPY 4・632


それにしても民芸品店では 北投石のセールスにスゴく熱心です
「我々買って持っているんです」と言い 何とか切り抜けました

ここでの小籠包各種は どれをとっても美味しかった
鼎泰豊(ディンタイフォン)で修業した人が数名いますと


ツアーの皆さんと一緒に食事するのは当店が最後
共通の感想は「とても美味しい でも塩分が足りない」でした

12:30ここから自由時間(バスでホテルに戻らず ここでの解散に)
私は駅からの道筋しか把握していないので 先ずは最寄り駅の中山駅


三越横「誠品生活」4Fの「神農生活✖食習」で 上のラベルの
マンゴージャムか カラスミをほぐしたペーストを探しましたが
売切れ!残念 ガイドブックに載ると日本人すぐ飛びつくのです

中山北路に建つ 旧米国領事館を改装したカフェ1階「珈琲時光
ここは台湾映画「悲情城市」の監督 侯孝賢氏のプロデュース建物
圧倒的に若い女性だけで少々気まずい コーヒー2杯で264元

実はこの地域 台北でも屈指のハイソな地域 蔡英文総統の地元で
彼女の父親が 周辺の不動産を所有していた もしかしたら・・・

  「珈琲を味わうときのように 気持ちを落ち着け 心をリセットし
これからの人生を見つめるためのひととき」というテーマを小津安二郎
生誕100年を記念し「東京物語」のオマージュという形で製作された
2004年日本映画 侯孝賢ホウ・シャオシェン)監督 一青窈主演

台北のMRTがスゴイ 列車が到着するまでの時間が秒単位で掲示される
さすがIT先進国ですね 日本より進歩していることにビックリしました
ホームも広いのです 車内は満席でも 杖付き妻を見て サッと席を譲る
そのスマートさ これは何回も経験しましたが 完全に身についています 
(日本に帰国し 羽田から品川までの京急で 優先席前に立つ妻を見ても
若い乗客が完全に無視なのです 妻のご機嫌が超悪化 コワイこわい!)


今日は月曜日 3連休明けの道路には バイクの車列がすごい
これが一斉にスタートするときの爆音とスリル とても怖い!
途中に自転車も入り 皆さん必死です 車が追いかけて来ます

日本では見ない漢字なので「ディ ホアジェ」と一生懸命覚えました
台北では「永康街」と並んで人気のある散策路 問屋街の街並みです

ここには TV「孤独のグルメ」台湾編で 五郎役の松重豊さんが
立寄った店が二軒あるので ちょいと見物です 宣伝用にでしょう
写真が堂々と張られている 茶芸店という予定があるので入店せず
参考までに メニューには「五郎特餐」というものがあるそうです


永楽市場 これの南北に五郎立ち寄りの店があるのです

二軒目は「原味ルーローハン」五郎先生二次来訪とあります
なにしろ安い! ルーローハン35元(約170円)だそう
五郎先生は このあと寧夏夜市に出かけ スイーツを食べた

信仰心が厚く 寺廟への参拝や占い師への相談が生活に密着している
台湾のここ「霞海城皇廟」では恋愛運の月下老人がデンと構えており
赤い糸で男女の縁を取り持つ 参拝は若い女性ばかりで熱気ムンムン
目をつぶり かなりの時間 必死にお願いしているようで 我々退散

目的の茶芸館「南街得意」 当地マイバス推薦の茶芸館の一つなのです

若者に人気のある店のようで男性のグループも 奥に一席空いていました
12個の茶瓶から 蓋を開け香りを楽しみ お気に入りの茶瓶を選びます
私は東方美人 妻は凍頂烏龍茶を選択 お茶請け(茶菓子)が運ばれます

空席時の写真を拝借

多分 ナッツペースト ドライオリーブ スモーク梅等9種類

どのお茶を選んでも 茶菓子付きで280元(1,400円)
お湯のお代りもできることは知っていましたが 次の予定があります

当店は全て用意ができて運ばれますが 念のため「台湾茶の淹れ方」を
①温める  茶壺(急須)に湯を入れて温める 湯を茶海と茶杯に
      移して温める  別途 湯はポットに入れておきます
②茶葉入れ 茶壺に適切な量の茶葉を入れ 適量の湯を少々あふれる
      程度に勢いよく茶壺いっぱいに注入し 蓋をする
③蒸らす  蓋をした上から湯をかけて蒸らし 茶葉の開きを促す
      茶海を温めていた湯を捨てる
④注ぎ入れ 茶葉ごとの適切な時間を経過したら 茶壺のお湯を
      茶海に注ぎいれる 茶杯を温めていた湯を捨てる
⑤出来上り 茶海から(聞香杯を経由して)茶杯へ移す
      香りを楽しんだ後 お茶を飲みます

この店では 気に入ったら茶葉も15グラムから購入できます
東方美人も凍頂烏龍茶も 30グラムで280元(1,400円)
ガイドさんに案内してもらえた専門店でなく こちらで良かった?

指差す場所に「南街得意」があります


休憩ができたので元気回復 ここは龍山寺1738年創建です
神様には専門分野があると言われていますが 総合運アップを
祈願するなら どんな願いもきっと叶う 台北屈指のパワスポ
それが龍山寺です 仏教・道教民間信仰の神様たちを集めて
祀られているので 一度の参拝で沢山の願い事ができ人気です

なにしろ ものすごく多くの人が参拝していて 唱和する声が響きます

本日の夕食は 夜市ではちょっと心配なので 昼間寄った誠品生活の
隣接レストラン「食習」に  704元支払い 残金が6元(30円)

これから夜市に行くのですが 何も買えません 明日も文無しかも?

海外旅行でツアーに参加するに際しての「油断」の一つが現金でした
今まで 訪問国はヨーロッパ中心で各国クレジットカード優先でした
アジアは初めて そして台湾はクレジット利用が浸透していなかった

今回の旅行中も 現地ガイドさんが バスの車内で両替をしてくれて
不自由はなかったのです ところが台北に戻り そのガイドさんから
開放されて 両替可能だと思っていたホテルがダメ 銀行がどこに?
最終クレジットカード頼り 人気店なら使えるだろうと少々心配に

寧夏の夜市」です ものすごい人の波 お腹もすいていないので
ただの見物です さっさと帰ろうと中山駅に向かいますが 道が?
妻が もうこの辺と曲がりましたが 変?と思い 若い女性二人に
聞くと「フォローミー」 矢張り間違っていて戻り 最後駅までを
同行してくれました(妻のスマホでマップが出せなかったのです)
「私 これから日本語を勉強します」何と健気な台湾女性 感激!

<五日目(火)10月3日 少々雨>最終日は15:30まで自由
現地ガイドさんは自宅に帰っていて 彼女からの両替はできずです
参考:帰国後の学習です ここでは空港以外の両替可能場所を列記
   ①第一銀行 台湾銀行等台湾の銀行 郵便局
    あと国際キャッシュカードがあればATMで引き出し可能
    または クレジットカードでのキャッシング引き出し可能
    外貨自動両替機(手数料無料)・・・どこにあるのやら
   ②お茶屋さん(両替が政府公認の店では手数料無料)
   ③免税店
   ④百貨店(新光三越やそごう)
   ⑤台北101のショッピングモール
   ⑥一部の宿泊したホテル       
    ④⑤⑥では両替レートが良くないので注意

参考:台湾に複数回行かれる方は「悠遊カード」がお勧めです
   日本のスイカの様な交通系ICカード マイナス利用が
   できる(次回利用時補充要)のが特徴 有効期限が無い
   チャージできる場所(コンビニもOK)が多岐にわたる

朝のバイク競争で我々もスタート
MRTの座席シートの色が違うので 優先席かどうか分かります


西門駅から台湾総統府へ そうそう駅員に「総統府」と言っても?
「ゾントンフー」と言うそうで 「地球の歩き方」を持っていれば
該当写真を見せることができたのにと 今日はできるだけ身軽にと
いうことで旅行バッグにおいてきたことを後悔しました
もう一つ 総統府に隣接して 台湾銀行本店があったようなのです

9時前に到着 一番乗りです 地元小学生の団体もやって来ました


入る時にパスポートを見せ リュックの中身を検分する際にも
またオーディオガイドを借りる際にも パスポートをと面倒!
幸い日本語を話せる係員がいたので オーディオ操作を理解?

一室目で 台湾総統府の歴史を学習

二室目は 康子総統の執務室


中庭には入れませんでした

蒋介石の本名が蒋中正を示す戸籍謄本 右は総統府内の郵便局

さすがIT先進国 我々が席に座り 椅子のボタンを押してから
手を振ると 蔡英文さんが現われ ニッコリと会釈され記念撮影
(この動画は妻のスマホに収録済 ツアーの皆さんに自慢です)

これもパネルの前に妻を立たせての撮影です


表正面に回って撮影 それにしても「慶祝中華民国22年国慶」とは? 
「二二」ではなく「一一二」でした 10月10日が112年国慶

念願の「二二八和平公園」に来ました 総統府からすぐです
残念ながら 紀念館は2025年まで工事中で 外観だけです
悔しいのでグルッと回り 正面入り口の表札だけ撮影しました

二・二八事件」について(ブログ最後の「台湾の歴史」も参照)
1947年2月27日 国民党専売局員により ヤミ煙草売りの寡婦
殴られ 抗議に集まった台湾人に向かって発砲され 一人が亡くなった
翌28日 抗議のデモ隊に機関銃が一斉掃射され 多数の死亡者が出る

戦後台湾に移住してきた外省人の店舗焼き討ちと 台北市放送局(現在
の二二八紀念館)を占拠し 全島民に決起せよ!と呼びかけ・・・
この反乱は 蒋介石によって武力鎮圧され 台湾人エリート層数万人が
闇へ葬られた 本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)対立が始まる

このあと東門駅に行き「永康街」散策 小雨が降っていて少々寒い
まさかとは思っていましたが 予定していた以下各店が次々・・・
①鼎泰豊がテイクアウト専門店に 少し離れた場所に本店は移転済
②アイスモンスター永康創始店が閉店と
③マンゴーかき氷の人気店「思慕昔」は現金のみ カード不可
④茶芸店の有名店「王徳傳永康店」は オープン前か休日か
⑤本日昼食を計画していた「栄康刀削麺」は現金のみ カード不可
予定の店全部アウト 寒いので街の一番外れのカフェでコーヒーを
(そう この店だけがクレジットカード利用可なのでした)

ここ以外計画していなかった 近くに銀行も見つからず それなら
台北駅に行けば何とかなると 台北駅に向かうも 迷うばかりです


  お腹もすいてきて 駅構内でパンでもと 付近を見渡しハッ!
  もし今回ツアーの人数が多くて 大きなホテルとなった場合に
  予定されていたホテルが「天成大飯店」それが目の前なのです


    ホテルフロントに宿泊者以外でも食事できるかを尋ね
    OKをもらう クレジットカードは当然の事利用可と
    (でもアメックスは利用できませんでした)

海老入りチャーハンと麺を注文しました 二人で取り分けて十分
烏龍茶を何回もポットに入れていただき そちらも美味しかった


さあ あとは 24時間パスの 最終有効時間が13:49なのです
その時間までに 南京復興駅の改札を通過できるか 1分を争います
(万一経過してしまうと 手持ち現金が無く 切符代を払えません)
最終的に13:45に駅改札を通過 現金を使わず24時間終了です

 最後に 我々の宿泊ホテルは普通だが 両隣のビルはスゴイのです
チャイナエアライン本社入居ビルと 日本のJRが建てたホテルです
台湾新幹線で儲けたお金で建て ホテルでまた儲けてると陳さん私語
参考:ホテル メトロポリタン プレミア台北(和名)
   JR東日本大飯店 台北(中名) 2021年8月23日開業
   たとえFXホテルフロントで 宿泊していませんからねえ~と
   両替はムツカシイと言われても 日本人だしお願いしてみても
   よかったなあ JR海外進出第一号ホテルの内部も見たかった   

帰国前 松山空港の上級会員専用VIPラウンジで満腹!
そのため 機内での食事は ほとんど食べられなかった

「台湾の歴史」(地球の歩き方より抜粋)
1,オランダによる統治
  1624年オランダが台南に上陸し築城 1626年イスパニア
  基隆・淡水に築城 1642年オランダがイスパニアを駆逐した後
  台湾原住民(多くは東南アジアからの移住者)を懐柔し 支配した

2,鄭氏 清朝による統治

   
  鄭成功長崎県平戸出身 日本名 田川福松1624年生まれ)

  17世紀初頭は明と清交代期で 福建・広東省から台南へ移住者増
  清朝発足時に 反清朝活動の海賊の子孫 鄭成功(母は日本人)は
  1661年 オランダ人を台湾から追い払った ただし1683年
  清朝により鄭の子孫一族が滅ぼされ 台湾が領有され ここからは
  大陸からの渡航が制限され 残された漢民族の子孫が土着・台湾化
  これが現本省人のマジョリティーである

3,日本による統治

  児玉源太郎後藤新平

  日清戦争で台湾が割譲され 日本統治がスタート
  李鴻章清朝政府は 住民の意向を無視 台湾切り捨て政策を取った
  反日・反抗継続のなか 児玉源太郎台湾総督と後藤新平のコンビで
  インフラ整備 蔓延していたコレラマラリア制圧 アヘン中毒を
  激減させ 学校設立で(主に巡査により)日本語を共通語にさせた

  日本統治後を知る台湾のご老人の言葉
  1949年後 国民党が台湾に逃れてきた ボロボロの身なりで
  ダラシナイ その連中が腰を抜かしてビックリしたのが 水道が
  あり 栓をひねると水が出る その驚く姿を見て これはマズい
  自分らより未開の人に占領されると・・・それだけ日本人による
  インフラ整備が素晴らしかったということを思い知ったと同時に
  心情的には「犬(番犬)去りて豚(食べるだけ)来たる」でした
 
  日本統治時代「工業は日本 農業は台湾」というスローガンのもと
  台湾特産の烏龍茶などの生産能力は急拡大した 世界一の親日国も
  そうだが 抗日運動で台湾人としてのアイデンティティーも強まる

4,中華民国の時代
  1945年8月15日 台湾が中国(中国国民党政府)に「返還」
  (不法占拠説もある)され 台湾は「祖国」復帰=「光復」したが
  国府軍の士気の低さと驕りで人々に嫌われるなか二・二八事件発生

  1949年 国民党は毛沢東に敗れて 2百万人と共に台湾に遷都
  同年10月1日の中華人民共和国建国で 人民解放軍が台湾も解放
  してくれるかと思いきや 翌年朝鮮戦争が勃発 共産化を恐れてか
  アメリカ第七艦隊が台湾防衛に派遣され 台湾海峡の中立化を宣言
  現在を考えると 寸前のところで 解放=共産化を回避できました

5,目覚ましい経済発展

   
  朝鮮戦争後 蒋介石アメリカ化政策で アメリカから1965年
  まで15年間 年平均1億ドルの軍事・経済援助が行われた
  1971年10月 中国に国連代表権を奪われ 国際的孤立のなか
  経済活動に専念 蒋介石の子息 蒋経國は半導体製造技術にも特化
  それが後年実を結び 2022年 国民一人当たりGDPで日本を
  抜きアジアトップに躍り出るまでに成長するのです

6,李登輝総統時代    
    

  李登輝国民党総裁(本省人)が台湾民主化時代を大いに前進させた
  1987年に計38年間の戒厳令を解除させ 1999年7月には
  「李登輝の二国論」「中台は特殊な国と国の関係」と規定させた
  (実はこれ 行政官時代の蔡英文さんの発案であったと言われる)

7,台湾総選挙
  1996年3月に総統民選(直接選挙)が行われた際に 李登輝
  圧倒的支持で民選初の総統に選ばれたが 2000年3月の選挙を
  辞退したため 国民党は候補が分裂して 野党の民進党が勝利した

  2004年 民進党勝利 この年 蔡英文氏 民進党に入党
  2008年 国民党の馬英九勝利(大変な親中派) 
  2012年 馬英九蔡英文の一騎打ち カネの力で蔡英文敗北
  2016年 蔡英文民進党大勝利

8,(背景にあるのが)ひまわり学生運動

    
  親中派馬英九政権は 徹底した中国一辺倒政策で 台湾海峡
  両岸を「中台統一」で目指した 2013年中国共産党と「両岸
  サービス貿易協定」を締結 翌年3月に立法院で批准実行という
  そのとき 学生らが突然立法院になだれこみ 批准阻止を計った
  大学院生らが立法院を占拠 ただ行動は 整然としたものであり
  週末には 彼らを応援する大規模デモは50万人になった

  中国からモノやヒトやサービスが台湾へ流れ込めば 台湾経済は
  中国に隷属するとの危機感も持った結果の阻止行動が理解された
  結果 行政院長が話し合いに応じ 最初から審議し直すと約束し
  翌4月 学生らは立法院を自ら去った・・・
  この「ひまわり学生運動」は同年9月から12月の香港雨傘革命
  の先駆けとなっている

9,新しいリーダー 蔡英文総統
  2016年1月 蔡英文大勝利 民進党の時代が来る
  ただし台湾と断交する国が増加するなか 2018年にトランプ
  米国大統領が「台湾旅行法」を成立させて 両国トップが自由に
  行き来できるようになった 

  二・二八事件追悼式典での蔡英文総統

  2020年 蔡英文再選 次回2024年1月どうなる?
  
  日台の「善の循環」 東日本大震災の際の莫大な金額の支援から
  コロナ危機事態最中での 日本からのコロナワクチン無償配布と
  「まさかの時の友こそ 真の友」ですとは蔡英文さんの言葉です

  台湾人の心に「二・二八事件の心の痛み」が常にあり民主主義を
  大事にする同胞への寄付・支援が即時に実現したのだと思います

  「台湾の独立とは?」
  1949年以来 中国共産党は台湾を一度も統治していない
  今なお台湾は 台湾住民が自ら選挙で選んだ人たちが合法的
  政府を形成し 彼らが台湾住民を支配している
  中国共産党から実効支配されていない以上 台湾が中国から
  「独立」することはありえない 元来は「台湾独立」という
  タームは 国民党以外の野党の人々が 「中華民国体制から
  の独立」と使用していたのを中国共産党が勝手に 中国から
  の「台湾独立」と言い出したのである
  現在も「台湾独立を許さない」と叫んでいるが 実際に独立
  している台湾は どこから「独立」する必要があるのだろう 
  
  
  

   
  








































































2023年 初めての台湾4泊5日 前半


 台北松山空港からツアーバスで市内へ入ります
台湾は本日から3連休 バイクも駐車スペースに止めてあり通りは静か
これが連休明けにはどうなるか? 随時フォローしてみます なにしろ
バイクの保有率は 2人に1人(日本は12人に1人)世界一の普及率
「台湾人は普段は温厚なのに 乗り物に乗ると性格が変わります」と
台湾では 歩行者の方が圧倒的に 立場が弱いのだそうで 要注意です

<一日目 9月29日(金)晴れ>本日は中秋の名月 3連休初日
中秋の名月で満月になるのは14年振り しかも前回は雨だったと

羽田空港のJALラウンジが利用できました
我々は デルタ航空のゴールドメダリオン よってスカイチーム
飛行便だとビジネスクラスラウンジが使えますが 本日のチャイナ
エアラインは7:55発です デルタの超豪華ラウンジもチャイナ
エアのラウンジも開いていません でも本日はJALの共同運航便
なので JALのラウンジが使えたのです

本日はクラブツーリズムのツアー5:55羽田集合なので 3時に起き
軽い朝食と このラウンジで満腹 それで機内食は無理矢理食べました
そうそう 今回ツアー参加は7名(夫婦2組 親子1組 あと女性一人)

台北101」は 地上101階 地下5階建て 高さ509m 
2007年に ブルジュハリファに抜かれるまでは世界一でした
2004年に竣工 施工は熊谷組中心の日本企業JV ビル外壁
全面がガラス張り(8トントラックが乗っても耐え得るそうです)
エレベーターは東芝製 毎分1,010m 時速は60・6キロ
地上1階から89階まで39秒で到達しますが このスピードは
2016年上海のビルに導入の三菱電機製に抜かれるまでは世界一

過去の栄光はともかく 料金が高い!
89階の展望階まで 一般は600元 我々のような時間に制約の
ある旅行者は 昼食時間を削ってファストパス1,200元を支払う
地元民は半額以下 学生・シニアなど300元(1元は現在約5円)

エレベーター内ディスプレー 37秒からのカウントダウンタイマー
そしてエレベーター作動と同時に天井に星座が現われガイドも始まる
エレベーター床面に小銭を縦に置いても倒れないことで有名になった

この89階には 葉書と切手を売っているので郵便も出せます


夜の眺めがいいだろうとは想像できますが 行列が厳しいのです!

このタピオカミルクティー 200元(千円)もします

後ろの大型バスに7名 そして現地ガイドの陳さん含めて計8名
これで台北から台中・台南に行き 新幹線の駅までゆったりです

 
台北101から向かうのが 故宮博物院 土林(シーリン)郊外です 

たまたま 写り込んだセブンイレブン 台湾に何店舗ぐらいある?
台湾の4大コンビニ(便利商店とか超商と呼ぶ)につき紹介しますと
第一位がセブンイレブン何と6,502店(米国セブンイレブン傘下)
第二位がファミリーマート(こちらは日本資本)4,024店 
第三位 四位は ハイライフとOKマート(両方台湾資本)台湾では
自動販売機がほぼ無いので人気です 以上は2022年3月時点調査

        「故宮博物院」と言えば 中国が本家では?そうです でも
北京にある故宮博物院は 1933年日本軍の侵略に備え 上海へ
そして中国本土各地を移動し 1948年国共内戦の際 中華民国
政府は 選りすぐっての一級品を台湾へ移動させた
1956年には一般公開させて 1965年今の台北故宮博物院
オープン 約70万点の貯蔵品の内 2万点を順次展示させている
結局 中国北京故宮博物院には 残り物しか無いということになる 

日本での「故宮博物院展」では見ることができなかった「翠玉白菜
(この展示は最初の2週間で終了 3時間待ちの人気であったと)
8月6日までは 嘉義故宮南院で展示されていたようで良かった

高さ18・7㎝ 小さいので室外の拡大模型で説明してくれます
光緒帝の妃の持参品(嫁入り道具)と伝えられている 白は純潔
それと 子孫繁栄を象徴するイナゴとキリギリスが乗っています

「肉形石」美味しそうに煮えた「豚の角煮」を模した玉の彫刻
素材は瑪瑙(めのう)で自然石のままではなく 皮 脂肪 肉部分の
三層に分かれた豚肉に見える様 細かな加工が施されている 高さは
5・7㎝ 毛穴までリアルに表現されている

西周時代の「毛公鼎(もうこうてい)」 料理に用いられた器 内側に
32行500文字が鋳込まれている 白菜と豚の角煮を入れて 料理が
できると不謹慎な考えも浮かぶ 後に権威の象徴とされる礼器となった


翡翠の屏風」後日「碧玉屏風」と改名(注)
ガイドさんのサラッと説明で終わったが 実はものすごい傑作なのです
48枚の翡翠を削ったもの 裏面とデザインが全く同じに彫られている
日中戦争時に昭和天皇に寄贈され 一時日本が所有 敗戦後中国に返還
され台湾に移された 注:翡翠でなく碧玉(ブルーサファイア)と判明

左: 西太后がお気に入りの一品
中: 左「紅白玉 髄筆洗」そして右「黄玉 髄三蓮章」黄色い
   鎖もサイコロ状の石も実は一個の石からで 繋ぎ目が無い
右: 滅茶苦茶大きな翡翠の石と碁石

「灰陶加彩仕女俑」灰陶と呼ばれる粗製陶器に着色した俑(よう)
仕女は宮廷に仕えた女性 俑は主に人型の副葬品です 高さ75・5㎝で
色は薄れてしまっているが ふくよかな姿態に細い目 小さな口と典型的
唐美人の姿を彷彿とさせる 

「定窯 白磁 嬰児型枕」愛らしい幼児を写した白磁の枕
底には「乾隆葵日三十八年(1773年)と題された 乾隆帝の詩が
彫りこまれている
右は「汝窯 青磁無紋水仙盆」水仙を室内鑑賞するための青磁器の盆
全体にメノウの粉末を加えた天青の釉薬により 高貴な青色のグラデ
ーションが生み出された名品 所蔵品で唯一ひび割れの無い極上品!

「官窯 青花 蟠龍天球瓶」白地に青の文様を描いた「天球瓶」と
呼ばれる器 形状はイスラム金属器に影響されたものとも言われる  

今月初め伊万里で磁器を見学してきたため 磁器の展示品に目がいく
左: 「五彩蟠桃天球瓶」水蜜桃は昔から不老長寿の果物と言われた
右: 余りの美しさに引き付けられ品名? 官窯で製作されている

「鏤彫(るちょう)象牙雲竜紋套球」 球体は1本の象牙から彫られた
24層の球になっていて 全ての層が回転できます 製作方法はいまだ
不明であり 親子三代が100年にわたり 製作したといわれています

純金の8体     
赤い珊瑚は 台湾と小笠原のみで見られるそうです

中秋の名月を祝う京劇とか? 撮影禁止だそうで もう一枚を自主廃棄


孫文像」 孫文の教えは蒋介石に承継された
この二人が出て来ると思い出されるのは 映画の「宗家の三姉妹」
これを振ると ガイドさんがすぐに反応 宋美麗が素敵とのこと
私以外の他のツアー客はポカーン 知らなければ仕方ないのです

中国の激動の時代をリードした三姉妹「一人は金と 一人は権力と
一人は国家と結婚した」と言われる 長女は大富豪と 次女慶齢は
孫文と 三女美齢は蒋介石と結婚 正に三姉妹が政治をも動かした
戦後は香港 上海 台湾と別れ 二度と会うことはなかった・・・

映画では 好きなマギー・チャンが主演を務めた次女慶齢推しで
ガイドさんが推す 最後台湾で夫の蒋介石と歩んだ三女美齢とは
意見を異にしますが 台湾へ逃亡後の美齢をよく知らないのです

おまけ:現在の台湾100元紙幣表面は孫文 200元紙幣表面は
    蒋介石のそれぞれ肖像画です ついでに言えば1000元
    の紙幣裏面に描かれた山は 玉山(旧名称は新高山)です
    「ニイタカヤマ ノボレ」3,952m東アジア一高い山

台湾の建物は どの地域でも とにかく良く似た建て方をしている
ビルには〇〇建設のような看板 台湾でも完成前に売買されるそう

宿泊したホテルに隣設の台中金典酒店(金園中華レストラン)
上は 円卓にこれでもかと並べられた料理を一皿にまとめた状態

この顔が「美味しかった」と物語っている

一泊目のホテル 金典緑園道商派(パークレイン・イン)

<二日目 9月30日(土)晴れ>台中・台南観光


信号待ちでは バイクが車の前に出ます 一斉にスタートします
少し間をおいて 車が追いかけます まだまだ休日で少ない

白い弥勒菩薩像 お腹にさわるとご利益があるそうです

台中では珍しい仏教寺院「宝覚寺」で有名な 黄金の弥勒菩薩
サンダンカという聞いたことのない花を前にして輝いていました
境内には 日本軍人として戦った台湾人の慰霊碑があり 合掌!

日月潭」昨晩は中秋の名月でした
当地の先住民の男女が 結婚前の合コンで大盛り上がりしたそうです
ダンスの最中に女性が同意すると 夜に 女性の家に上がり込めると
女性が実権を握り家を持つ 男性は集団合宿生活でこの日が大勝負!

文武廟」1938年に行われたダム工事で水没した水社村の龍宮宮と
益化堂を移転 1999年の台湾中部大地震で倒壊したが再建された

ガイドさんに「台湾式運勢占い」の仕方を教わり 先ず自己紹介をする
氏名・年齢・住所を伝え 願い事を一つして杯コウを投げる 陰陽が
出れば その願い事は叶いますと 夫婦とも一度で陰と陽が出てOK!
注:杯コウ(竹冠に交の字)古代中国で占いに用いた道具

「ひのきビレッジ 檜意森活村」阿里山森林鉄路の起点駅に隣接し
林業に携わる人々の宿舎があった そんな檜造りの日本式宿舎群を
修復し 集落をまるごと文化園区とした 元は木材の集積地だった

ものすごい人気の鶏肉飯の店 我々のグループが食べ終わるのを必死の
形相で見つめる客 ガイドさんが小さい頃は屋台の店 今は大繁盛店と

店のバックヤードを見ても清潔で 従業員もテキパキ働いていた


バスの車内から「二・二八事件の慰霊碑」が・・・後述します
さあ 台南観光です

「赤嵌楼(セキカンロウ)」1653年当時台南を占領したオランダ人に
より建てられ この城が行政と商業の中心となった 300年以上も経過
した今も現存し 鄭成功統治下では 東都承天府として全島の中心となる 
ある時は清朝の中国風楼閣 ある時は日本統治時代の陸軍病院とされた

文晶閣の二階に祀られている「魁星爺」は かつての科挙の時代における
試験の神であり 今日では試験合格を祈願する信仰の対象 鬼の形相をし
右手に筆を 左手に墨床を握り 右足で大亀の頭を踏みつけ 左足で星を
蹴っている これらは「一等賞を取る」「試験合格」を意味していますと


庭園には オランダ人を投降させ ひざまずかせた鄭成功の像があったと
事前に調べておらず見逃しました パンフレットにも書いてありましたよ


孔子廟」 今月初め長崎で見て いま台湾でも・・・
建物が全て赤です 高貴な色なのです

上は工事修復前の「龍虎塔」 下が現在の姿

「蓮池譚」の淡水湖
台湾の人は 十二支の中で「龍が最も良い動物で 虎が最も悪い動物」と
信じており 虎の口から出たら罪が浄化され善人になれると言われている
トンネルの内部には 仏教説話の壁画が描かれています

「春秋閣」と大きな龍(これも口から入れる)の背中に観音様
頭の中で 中島みゆき「♬銀の龍の背に乗って♬」が流れていました

龍の像の先には 長い橋と中国式東屋「五里亭」フォトスポットです

熊本県熊本市と台湾は2017年に「友好交流協定」を締結
くまモンだと思ったら 「高雄熊のガオションション」でした


高雄港大港橋が2022年完成 高雄ウオーターフロントの新名所

それはそうと ガイドさんが高雄の道路幅は広いのですと 万が一
戦争が勃発したら 飛行機が道路に着陸できるのだそう 車窓の外
確かに広い そして電柱や電線が一切無いことに今更気付きました

帰国後調べました 台湾も日本同様台風が多くて その都度停電に
なるため 市民からの突き上げで無電柱化率・電線地中化率が促進
2022年現在 全国42・5% 台北は95%(因みに日本では
全国で0・3% 完全に無電柱化率の後進国です 恥ずかしい!)

金品旅行社の予約席のプレートあり
ガイドの陳さんはフリーのガイド 旅行社には属していませんと
ツアー客をお土産店に案内すると 売上の歩合分は旅行社に行き
私は ちょっとした月餅菓子をいただくくらいですよと・・・


ステンドグラスが美しい「美麗島駅」(メイリーダオ駅)  
アメリカの旅行サイトで「世界で最も美しい駅2位」に選ばれました
(参考までに1位は ベルギーのアントワープ中央駅でした)

「光之穹頂」(The Dome of Light)はイタリア人芸術家のマエストロ・
ナルシサス・クアグリアータ氏が 4,500枚ものステンドグラスを
全て手作業で嵌め込んだ 4年半を費やしたそうです 1日3回点灯


<三日目 10月1日(日)晴れ>妻の誕生日 新幹線で台北

新幹線の前に民芸店でショッピング 台湾土産の人気ナンバーワンは
パイナップルケーキですが高い! ドライマンゴーが大きい!


新幹線のホームから見下ろすと 巨大なバイク置き場が・・・

台湾新幹線」2007年開業 345km 最高時速300km
日本の新幹線車両・技術が 世界で初めて台湾に輸出されたのです
独・仏の欧州連合がコスト面では優位にいましたが 日本が徐々に
盛り返す ICEの脱線事故 1999年の台湾大地震で欧州勢に
地震への対応不十分が露呈し 最終日本連合に軍配が上がりました
(最後に追記あります)


それと背景には 欧州と日本を推すグループが それぞれ政治家と
結びついたため 政治色の強い競争になり 相当にもめたようです
(当寺台湾の武器輸入は仏からで アメリカは輸出禁止だったよう)
車輛は日本 配電は欧州 土木工事は国際入札となりました・・・
2023年 追加の車両受注も日本が契約 実質的な勝利は日本! 

追記1 ICE事故(エシェデ鉄道脱線事故
    1998年6月に ドイツのエシェデ駅付近で発生した 
    世界高速鉄道事故中 最悪の事故(101人死亡88人が
    重傷)車輪の金属疲労と不具合を看過した整備ミスによる

追記2 台湾での20世紀最大のM7・6台中大地震
    1999年9月 死者2,415人 負傷11,306人
    同日夜 日本の国際緊急援助隊が最初に台湾入り 現場に
    急行した(145人)後から海外派遣団が次々と台湾入り 
    最終ドイツ21人 フランス0 中国0・・・・

    2013年5月 李登輝氏が述懐しています
    地震で真っ先に駆けつけたのは日本 更に曽野綾子会長が
    主宰する財団から3億円の寄付 これを受け 将来日本で
    何か起きれば 真っ先に駆けつけるのは台湾の救助隊だと
    曽野綾子さんを通じ約束したのに・・・

    2011年3月の東日本大震災時 真っ先に救助隊派遣を
    申し出たが 話が進まず その間中国や韓国に先を越され
    何とか山梨県甲府市NPOを通じ独自に派遣隊を送った
    ところが日本の外務省から「台湾からの救助隊を迎え入れ
    る準備が出来ない」と言われた 中国に気を使った日本は
    台湾のことを そんな風にしか見ていないのか とこれは
    自分の生涯の痛恨事と吐露したのです 外務省情けなし!
    
    




































































 

 

2023年 台風にもめげず佐賀・長崎3日間

定期観光バスで長崎グラバー邸へ 西九州新幹線「かもめ」は3回乗車

<一日目 9月1日(金)小雨>東京から伊万里
今回は 息子の結婚・両家顔合わせのため九州へ 旅行はおまけです
とはいえ 顔合わせが9月3日であり 直前の台風9・11・12号が
心配で 毎日台風進路予想を見ていました
(結果は 太平洋高気圧が本州から九州まで覆っており 珍しく中国や
韓国に上陸したようで万々歳!結婚の前途に明るい兆しか?)

スターフライヤー福岡空港 そして地下鉄で博多駅
スターフライヤーの機内限定で「JR西九州フリーきっぷ3日間」が
購入できて 西九州新幹線指定席2回乗車可能 博多~長崎間を都度
購入するより(我々のように2日間利用でも)少しお得です

乗り鉄の妻が喜ぶ列車が次々と・・・

JR特急みどり15号佐世保行で有田 そして松浦鉄道伊万里

松浦鉄道 各駅には 地元小学校児童の書いた絵が・・・
列車の窓越しに 小雨交じりの山々が水墨画のように見えます

伊万里駅前 森永製菓のふるさとです

大川内山へ行く合間にイオンでパンを購入
さすが焼き物の町 大きな焼物が 堂々と飾られています
右はバスの車内から見つけた「古伊万里美人像」 こんなに大きいの!

西肥バスの終点 大川内山ではガイドさんが出迎えてくれました
ガイドについては伊万里市観光協会に事前申し込み(1,500円)

ボランティアガイドさんに聞きました「焼き物の像は壊されない?」
先ず 設置前に金銭面での猛反対とやはり破損懸念が 周りを檻で
囲いましょうかと 結果はどうか 全く被害はありませんと・・・

大川内山の「鍋島藩窯公園」を巡ります 関所から窯元奥深くへ

左は「めおとしの塔」人が通過すると鳴るらしいのですが・・・
   かつての陶工が焼物を叩いて音色で選別しためおとしの技を再現
右は「唐臼小屋」漆器の材料を砕くための工夫(鹿威しと同じ原理) 

散らばっていた無名陶工の遺骨を地元民が集めて山のように積み上げた

関所からは 自由に出入りさせず 鍋島焼の秘伝を守った秘窯が続く
(鍋島の殿様が有田焼の名工をえりすぐって囲ったのです)

それにしても 小雨交じりが良かった 通りの背景がケブっています

当店は 鍋島藩御用達なりと 大見栄を張る店も
ガイドさん曰く「関所の中の店は 全部御用達です」

この店のご子息の結婚式には 安倍晋三さんも出席されたとか
奥様(昭恵さん)の母方の出身地です 選挙用だと思われます
昨日までは「風鈴祭り」で各店が店前に飾り販売したようです

眼を引いた二品です 自分勝手に「色鍋島!」と撮影

それにしても 通りを人が歩いていません こんなに静か!
外国人(特に欧米人)に人気ですと 日本人にもっと来てもらいたい
佐賀県伊万里市も広報下手なんです 魅力を発信できずにいるので
我々も歯がゆい限りですと・・・
  有明海産の板海苔 生産量日本一
  ハウスみかんの収穫量も日本一
  呼子イカは日本一おいしい
  佐賀牛はアジアでの人気抜群
  小城羊羹で有名 1世帯当たりの購入金額が全国の2倍強です
  江崎グリコ 森永製菓の創業者は佐賀県出身
  でもでも佐賀県 福岡県と長崎県の間で地味な存在なのです
佐賀県人の特徴は 自分に厳しく 真面目でコツコツ 口数が少ない
世の中にアピールするなんて とんでもないことでございます・・・

葉隠れ(鍋島論語)精神「武士道というは 死ぬことと見つけたり

左はガイドさんが 名品ですと紹介した磁器
右は何と 骨壺なんです 絵模様は「結び」縁起のいい結び方で
ビックリ! 故人への思いを込めて つがいの蝶が花のまわりを
舞う世界へいざないますと(鍋島焼)

店に入るといい香り お茶を使った和のアロマテラピー 茶香炉
気に入った妻が購入しました 色鍋島の手描きです 1万数千円
おまけに風鈴がついたそうです(店名:小笠原藤右衛門)

ガイドさんが駅まで自家用車で送ってくれました ラッキー!
バスだと150円で済むもタクシーだと1,800円なのです
ガイドをお願いする以上最低限の知識だけは習得しておこうと
歴史から勉強しました 沢山質問を投げてより詳しいガイドに
ガイドさんも大張り切り 時間の許す限りのワクワクタイムに

そもそもは秀吉の朝鮮出兵時 韓国の名工を連れて戻り 有田でも
泉山陶石が発見された 釉薬をかけ1,300度の高温で17時間
以上焼き上げて作られた それが「磁器」です
(陶器の瀬戸物とは全く違うと ことさら強調されていました)
1650年 オランダの東インド会社が初めて有田焼を買い付けて
伊万里港からアジア・ヨーロッパへ輸出 背景として明の景徳鎮が
清朝との交代期で輸出停止になり 有田焼(伊万里焼)が人気に!

ただし 2000年頃「産地偽装問題」が出て生産地表記の厳格化
これで従来 同じ有田焼だった波佐見は有田焼の名称が使用不能
なり「波佐見焼」をスタートさせる これが大衆に受け 有田焼が
下降線をたどることになった

参考です 福岡空港から伊万里駅までバス(いまり号)が出ている
JR特急と松浦鉄道利用での時間と変わらず 費用は半分ですみます

ガイドさんが車中 勧めた「シトー会伊万里の聖母トラピスチヌ修道院
函館市があんなに有名なのに こちらは全くといって知名度がありません
そして昨年も引き上げられた「元寇の役」の時代の船のいかり 長崎県
報じているが 沈んだ4千隻は博多湾全体に及んでおり 佐賀県でも手を
上げるべき 両方とも観光の目玉になるのに 県も市も全く動きません!
観光ボランティアであれば よけいにイライラされていることでしょう

参考までに 私が佐賀県で一番行きたいのは「祐徳稲荷神社
武雄温泉駅から祐徳バスで南下して1時間 次回は有田と合わせて!!

さすが伊万里 焼き物で作られています

武雄温泉からは 西九州新幹線かもめ号です

天井のデザインは かもめが飛んでいる姿

今日明日と連泊です

行きたかった吉宗(よっそう)へTELするも 当日の予約不可と
駅ビルの「蘇州林」へ入り ちゃんぽんと皿うどんと餃子・焼売と
フルコース お腹いっぱい 細めんの皿うどんが一番でした

10階の部屋から長崎駅がすぐ眼下に

<二日目 9月2日(土)晴れ>長崎市内観光と夜景見物

朝食です 窓際の席が埋まっていて 妻が不満顔
すかさず係員 エグゼクティブ会員用の席に案内してくれ
「まだ早いので 会員の方がお見えでない どうぞ」

美味しかったです

長崎駅の東口は 駅前から突貫工事中(南北をつなぐようです)

西口は 真ん前がヒルトンで駅と連結しています
ホテル一階に観光バスが2台 すぐに1台が出発

 JR九州のデザイン顧問水戸岡鋭治さんによる 長崎県営バス

10:10から5時間 長崎定期観光バスです
先ずは原爆資料館 
螺旋階段から下りて入口まで「連鶴」なんと150m 紙一枚で製作と
オランダ人の芸術家マナ・オリさん 過去27年間折り紙を折り続ける
紙にはこだわりを持ち 手作りの高級和紙を使用している

資料館 先ずは 原爆投下11:02分で止まった時計

ボランティアガイドさんの説明に聞き入る妻
右の写真の左下方が原爆投下された場所とか
長崎は山に囲まれており 被害が周囲に拡大せず 爆弾の威力は
広島より大きいのに 死者数は広島比5万人少なかったそうです

在りし日の浦上天主堂 「長崎の鐘」の舞台です
「アンジェラスの鐘」その2つのうちの1つは 奇跡的に地中から
掘り出され 同年のクリスマスに 永井博士がその1つの鐘を鳴らし
たそうです 天主堂復元とともに 堂内に納められています


原爆投下の瞬間 礼拝堂で告解(犯した罪を司祭を通して神に告白し
許しを請うこと)のため集まっていた神父二名と信徒数十人は 倒壊
した天主堂の下敷きとなって全員死亡した・・・

原爆は「ファットマン」実物大模型 妻が演技しています
周りの火薬でプルトニウムを内側に爆縮して核分裂を起こした

「板壁に残った はしごと監視兵の影」 熱線の直射を受け 光が
当った部分は塗料のコールタールが剥げ 影の部分だけが黒く残った
バスの車窓から見えた山王神社の一本鳥居と楠木


  長崎医科大学助教授 永井隆博士 手に持たれたロザリオ・・・
  自らも重い傷を負ったその直後から 負傷者の救護や原爆障害の
  研究に献身的に取り組んだ

「焼き場に立つ少年」説明文を読みながら涙する妻です
右隅に「撮影禁止」が掲示されていました・・・スイマセン

長崎に来られたローマ教皇フランシスコ 再度の少年写真
1945年 米国のカメラマン ジョー・オダネル氏撮影
(後にNHK調査で長崎本線道ノ尾駅近くの踏切と 裏焼きされている)
同氏が翌年米国に持ち帰り フィルムをトランクにしまい込み封印したと
1989年 米国内で反核運動が広がり 43年振りにトランクを開けて
2007年 長崎県美術館に特別展示 そして長崎県に寄贈した
2017年 ローマ教皇フランシスコが この写真を印刷したカードを
      署名と「戦争がもたらすもの」という言葉を添えて世界の
      教会に配布するよう指示を出された
      「千の言葉よりも多くを語る」
      核兵器に対するメッセージを最初に出された法皇
      「核兵器は安全保障の危機から人を守らない」と発言

原爆投下中心地は下方

本当は水色だけど 好きではないので脱色編集の平和祈念像

原爆に会った子供達 水が欲しかった 川の水は油まみれ
それでも飲んだんです・・・

平和公園を後にして 出島に向かいます
その間20分 昼食としてパン(ホテルからの持ち込み)を食べます

バスの車内でガイドさんが朗読を始めます
永井博士の「この子を残して」です 4分弱を完全に暗記されています
博士は原爆で妻を亡くし 自らも重い白血病で死が近い 疎開させていた
子供は幼い 父親の顔に頬を寄せて臭いをかぐのを見てどんなやるせない
気持ちでいたか・・・
次いで長崎の鐘です
♬ 召されて妻は天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ
  かたみに残るロザリオの 鎖に白き わが涙
  なぐさみ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る ♬
サトウハチロウ作詞 古関裕而作曲 歌は藤山一郎

バスの車窓から 永井博士の生活された『如己堂」「浦上天主堂」 
「一本柱鳥居」 おくんちで有名な「諏訪神社」と見学です

出島に到着
出島をつくった理由:ポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止する
ため徳川幕府は岬の突端に人口の島を築き そこにポルトガル人を収容
(一番初めは長崎市内そして諫早から平戸に 最後に出島となった)

出島に女ガリバー出現!

                    イス・テーブルで床は畳敷き

オランダ商館長であるカピタン(英語でのキャプテン)邸
カピタンは1年交代 着任すると先ず「江戸参府」往復と滞在で3ヶ月
あとはヒマ まるで「国立監獄」のような生活だったとか その中では
「酒・女・歌」が楽しみ 平戸時代とは違って夫人同伴は許されず唯一
出島への出入りを許されたのが「オランダ行き」と称する遊女でした

あとは「オランダ正月」や「オランダ冬至」で 出入りの日本人役人を
招いての豪華な祝宴 ただし役人は肉など食べられず持ち帰ったとか

出島に関して有名人がドイツ人のシーボルト
1826年 カピタンの江戸参府に同行して 往復の途中での国内見物
動植物の採集にも熱心で 帰国後1835年「日本植物誌」を刊行した
オランダのライデン植物園に今でもアジサイをはじめ咲き誇っていると

シーボルトは 動植物以外にも日本地図とか持ち出し国外追放となった
シーボルト事件や遊女?タキとのロマンスなど話題の多い人物ではある

出島を出発し 新地中華街を通過 オランダ坂を一瞬見て
孔子廟見学です 本日何と変面ショーが見られるとのことラッキー


ショーの主人公『京介」の弟子?

中国華南・華北の建築様式合体の廟宇と72賢人石像・孔子

博物館には国宝級の文化財が展示されていますが
今日ばかりは変面ショーがお目当てです

いよいよ13時からショー開始

私自身 学生時代に 中国映画「変面 この櫂に手をそえて」で
四川省の川劇にこんな素晴らしいものがあることを知り この
ショーを見ることができる海外ツアーを候補に入れていました

いよいよグラバー園大浦天主堂です 90分で両方だそうで
グラバー園は頂上まで行き すぐに天主堂へ行くと決めました

プッチーニ三浦環 壁の石は♬だそうです
50年前に来たグラバー園 この像だけは鮮明に覚えていました


急いで坂を下ります

<国宝 大浦天主堂
プティジャン司教の指導をもとに 1865年2月19日に献堂式が
行なわれました 現存する日本最古の教会 
1597年2月5日 西坂の丘(長崎駅前)で殉教した日本二十六聖人
捧げられた教会で 殉教地の方向に向けて建てられました

シドツティ神父とは イタリア人のカトリック司祭
江戸時代の中期(月代さかやきをして武士の恰好で)日本に潜入し
土地の言葉までは習得できずで 怪しまれ捕えられた その死まで
江戸で幽閉された
幕府の実力者 新井白石は彼との対話をもとに「西洋紀聞」を著した


日本二十六聖人の殉教
1596年 フィリピンからメキシコに向かっていたスペイン船の
サン・フェリペ号の船員が「スペインは世界の強国で 宣教師を派遣
して現地人を改宗させ 占領する」旨を話したため 激怒した秀吉が
宣教師らを処刑するよう命じた

「信徒発見と信教の自由」
1865年3月17日の昼下がり 宗教史上の奇跡「信徒発見」が
起こる 天主堂門前に男女子供 約15名の一団がいて聖堂に案内
して祈ると 中年の女性が「私どもは 全部あなたさまと同じ心で
ございます・・・」「サンタ・マリアの御像はどこ?」祭壇に案内
すると喜びのあまり 皆が口々に「本当にサンタ・マリアさまだ!
御子イエスさまを抱いていらっしゃる」 (プティジャン神父)

このことはすぐ浦上に広まり 翌日から大勢が天主堂にやって来た
遠く五島列島からも訪れた
但しキリスト教は禁教下にあり 摘発や迫害・遠方への流配が続く 
最終 欧米歴訪中の岩倉具視使節団が 信教の自由を強く求められ
帰国し1873年 禁教令が259年振りに「禁教の高札撤去」!

2018年 大浦天主堂を含む「長崎・天草地方の潜伏キリシタン
関連遺産」がユネスコ世界文化遺産に登録されました

実は 登録の1年半前「消えたカトリック教会の献金3億円」事件が
文芸春秋によって暴露 教会を私物化する聖職者たちと副題が付いた
事件はウヤムヤにされ それに呼応するように 登録による観光客増
を見越し 300円の拝観料が 2015年に600円 2018年
以降1,000円と 3年で3,3倍にもなった

ガイドさんお勧めのプリンソフト600円 半分こしました

ホテルに戻り 今朝がた昼食用に購入した 大村寿司を食べました
稲佐山の夜景見学まで小休止です

観光バス(一人2千円)で頂上まで

すぐに真っ暗です

見えません 真っ黒なので3回編集機能で漂白しました


バスのガイドさんが 自分のスマホの光を妻のスマホに当て
それで撮影すると とてもきれいに撮れるんですね スゴイ!

まあこのバスガイドさんの話の面白いこと
どうも福山雅治の大ファンらしくて ジャパネット球場建設に反対だった
市民が 福山が広告塔になった途端 シーン やれ福山が被爆二世だとか
坂の途中でバスを止め この道を入ると福山雅治の実家があって 駅から
タクシーでここまで来て 玄関の前で写真を撮って帰るのが観光コースに
なっている云々・・・

<三日目 9月3日(日)晴れ>本日 大村の「実り」で両家顔合わせ
台風も来ず 晴れて良かった!


大村駅まで西九州新幹線

大村駅までバスで向かいます

大村は 妻のCA時代に 長崎空港からここまで宿泊・食事に来ていた
そうで 大村中央商店街が懐かしいと そこまで歩かされました
現在 商店街は ほとんどシャッターが下り 喫茶店を探すのさえ苦労

そうそう 大村の商店街から実りの店まで 妻がスマホで先導しました
何と 初めて目的地まで極めてスムースに行き着けました 驚きです!
あとはカット! 無事顔合わせができ 東京まで戻りました おしまい

おまけ 9月8日 TV「らんまん」を見ていた大阪の妻からのTEL
    寿恵子が渋谷に来て 鍋島の屋敷があったこと 書かないの?
    ボランティアガイドさんが大学時代 松濤に寮が有って 今も
    上京するたび松濤公園に行っています・・・と思い出しました

先ずは鍋島直正(第10代佐賀藩藩主)ずば抜けた先進性を持った名君
     江戸の佐賀藩邸に生まれた直正は 17歳で藩主になると逼迫した
  藩財政立て直しのため 粗衣粗食令を出し 自らも率先 藩役人の
  大幅なリストラ 借金の整理(8割を放棄させ残りを50年賦との
  踏み倒しにも近い力業) 磁器・茶・石炭などの産業育成を通して
  財政改革を行った

  教育にも力を入れ 藩校「弘道館」の拡充 洋学寮設置し 子息の
  成績によって父親の禄を決定する「文武課業法」を制定 医学寮を
  設置し 世襲制が当たり前だった医者の免許制度を 日本で初めて
  取り入れ 当時不治の病であった天然痘の根絶の為 種痘を自らの
  長男で試すことで その信頼性を世に示した
  (勉学なら佐賀藩と 岩倉具視は二人の子供を佐賀へ留学させた)

  長崎への外国船渡来を見て 国防の必要性を感じ 鉄製の大砲鋳造
  のための反射炉を築いたり 国産初の蒸気機関の開発など 幕末期
  佐賀藩の技術力は日本の最先端を走っていた

                 右は隈研吾さん製作の公園内トイレ
渋谷の鍋島松濤公園について
  江戸時代には紀州徳川家下屋敷があった地域 明治9年鍋島家に
  払い下げ(新政府側の圧力?)11代最後の佐賀藩主 鍋島直大
  広大な土地に狭山茶を移植し茶園を開き 士族授産(失業対策)の
  武士に運営を依頼し「松濤園」と命名した 茶の銘柄も「松濤」と
  され 東海道線開通で静岡茶が入るまで高級茶として人気があった

  関東大震災を契機に分譲し現在にいたる高級住宅地になっていった
  昭和7年に茶園廃止後 湧水地を中心に児童公園として整備された 
  同年東京市に寄贈され 昭和25年渋谷区に管轄が移った
  現公園は松濤2丁目で 東大駒場キャンパスの道路の反対側になる


































 

 





































2023年 酷暑の四国・京都一週間⑤


宇野駅前の船の信号機のモニュメント タイトルはBon Voyage

今春には 観光客の長い行列にビックリし退散 金閣寺リベンジです

<六日目 8月3日(木)晴れ>岡山から京都へ
今年一番の猛暑日 国内の観測地点別で猛暑日最多を記録!!

朝食は2日目ということで 前日とは違うメニューからチョイス
私はメインには ピーチポークハムとUNOパンケーキ

妻は生グリーンサラダとUNOフレンチトースト
こんなの見たこと無いと 妻が感激!

宇野から児島まで戻り 下津井循環バスで日本遺産を訪れます
倉敷市下津井の「むかし下津井回船問屋」というバス停で下ります
ここは北前船の寄港地・船主集落として平成29年日本遺産に認定
日本遺産のサブタイトルは「一輪の綿花から始まる倉敷物語」です

日本の歴史学者である磯田道史氏 岡山市出身であり当然ここには
来ましたと ものすごく詳しくて タジタジでしたと案内人さん談

                  右地図は干拓ビフォーアフター

学校の授業で習った覚えがあります 有明湾と児島湾の干拓事業
江戸時代の寛永年間より 慶応に至る役240年間 児島湾岸で
約8,400ha.もの土地が干拓により造成されている そして
明治になり 大阪の豪商 藤田伝次郎の大規模干拓5,500ha.
終戦により国家事業に移行し 1964年に干拓は完了しました

ここ下津井は 上の地図上ではプードルの後ろ足に当るようです

干拓地であり塩害が強く米作は無理 塩害に負けない綿花栽培が
発達 そして綿花の肥料に必須だったのがニシン粕だったのです
ニシン粕を運ぶのが北前船 当地には最盛期83もの船が集結!

北前船 大変な航海の時もあり 万一転覆しても右の固い「船箪笥」は
海面に浮きあがり 彫られた家紋から届けた人には 現在価値3千万円
の謝礼が手渡されたそうです 船乗りが命と同じくらい大切にしていた
「相棒」なのです ではいったい何が入っていたのでしょうか?

船の鑑札(往来手形)書付書 仕切り書 印鑑 そして現金 これらを
入れて 誰でもが容易に開けられないよう錠前で守られていた 表には
金毘羅様(こんぴらさま)のお守りも張り付けられていました
海上に漂う船箪笥 たとえ海賊でも奪わず持ち主に返したという 命を
賭けて生きる 男同士の仁義というものがあったようなのです

北前船は動く総合商社 北海道では無尽蔵とも言われたニシン その場
で煮られ それを絞ったのがニシン粕(北海道で必要なのはニシン油)
これを上り荷で西日本に運び高く売り 下り荷では西日本の古着を積み
衣類の生産技術が低かった北日本では高価な商品になる 押して引いて
木を切るのこぎりのように行きも帰りも商売ーのこぎり商いと言われた
当時の国内の地域間格差をうまく利用して 一攫千金を狙ったのです

祇園神
但し「板子一枚下は地獄」に生きた男たち 安全を神仏の加護に求め
寄港地の中心や小高い丘に 守護神としての神社や寺院がありました

北前船は海難事故の多発に寄り 明治18年「和船禁止令」が出され
以降 衰退の一途をたどり 陸路開発がそれに代わった

瀬戸大橋
橋の完成前 本州から金毘羅詣りの参拝客は 最短ルートとして下津井~
丸亀まで船での航路を選んだ 後に宇野~高松の宇高連絡船に追われたが
そこで「紫雲丸事故」(昭和30年 広島の修学旅行生100人を中心に
168名が死亡 宇高連絡船の上り下りの濃霧下の衝突・沈没)が発生!
これは 前年の洞爺丸事件と共に国鉄の大事故で 「早く瀬戸大橋を」の
大合唱に発展しました

昭和63年 18年の歳月をかけて瀬戸大橋が完成するのですが・・・
その難工事たるや NHKTV「プロジェクトX」でも紹介されました
最大の難関が 荒れ狂う瀬戸の渦潮・大潮流の海中基礎工事なのでした
紫雲丸事故の悲劇からは 33年も経過していました

お馴染み仁和寺仁王門と夜の御室会館

児島から京都まで3時間半 普通・快速を乗り継いでの強行軍です
これは当初「青春18きっぷ」の利用で 新幹線・特急を使わない
旅を計画しており その行程表をそのまま使ったためです
参考:料金は4,510円 青春18きっぷでなら2,410円です
   ただし5枚綴りであり 全部使わない旅では無駄になります
   (新幹線と特急を利用すると8,670円もします)

何とここで 痛恨のミス 私が個人旅行を計画し始めて最大のミス発生!
御室会館宿坊への予約が完了していなかったようなのです 絶句です!
何とか素泊まりでの宿泊は認めてもらえましたが 朝食は用意できずと

確かに「予約確認書」のメールは来ておらず 電話で確認すべきでした
変だなあ~とは思っていたのです 今回の計画は山陰からの大幅変更も
あり 徳島・高知の事前勉強と直島の諸手配でテンヤワンヤではあった 

参考:仁和寺御室会館宿泊代金
   105号室(4畳半)和室 バス・トイレ無し素泊まり
   単価 7,400円+宿泊税200円 の二名分15,200円
   特典:国宝金堂で朝のお勤めと住職の法話 庭園・御殿入場券付

   妻の感想:宿坊としては南禅寺の方が圧倒的に良かった!
   部屋は8畳トイレ付き(食事も夕・朝付きで申し込んだのです)

食事なし さあどうしようですが 夕食は門前の「佐近」に予約済です

ノンアルコールのスパークリングワインで乾杯
本日のおまかせ料理は「桜」のお献立 琵琶鱒のマリネからスタート

近江牛ローストビーフ 赤ずいき胡麻酢 夏野菜テリーヌ
トマト冷製スープ

天然鯛 本鮪 鱧落とし 造り合わせ
鮮魚ワイン蒸し カフェドパリ風

鱧鳴門煮 冬瓜 子芋 小茄子 焚き合わせ
天然鯛昆布〆寿司(これが大好物なのです) 香の物 赤出汁 

パイナップルムース 抹茶わらび餅(令和5年7月メニューから)
さすがの「佐近」でした 料金1万4千円(含むおにぎり代)

妻の私への不手際ブツブツも宿坊の不満も一挙に吹っ飛ばす料理
無理を言って「明日の朝食用のおにぎり」まで夜食用として用意
していただけました 
気になったのが 我々が入店した18時から19時の1時間に
他のお客様が誰も来なかったこと どうしたことでしょう?

それと道の反対側の広い敷地(仁和寺仁王門の真ん前)に計画中の
共立リゾート(我々の大好きなドーミーインや高級店「花伝抄」を
経営している)が計画しているホテル(仮称は 京都御室花伝抄)

仁和寺での説明会でも 住民は猛反対 儲けるのは佐近さんだけと
変にいじけられていると ただし市は許可 建築確認も下りており
今年の10月に着工 2025年には完成となる見込みと

この辺は バス便が終わるとタクシーが全く捕まらない そのため
お客様には ご不便をおかけしていますと・・・夜の営業が不調な
のは そんな影響があるのかも知れません
料理長が随分細かく説明してくれます 本心困っているのでしょう

<七日目 8月4日(金)晴れ>仁和寺金閣寺等持院


朝の勤行は 国宝の金堂で早朝の6時からです 参加者は7名でした
ロウソクの明かりだけが灯る中 読経に耳を傾けながら心静かに参拝
住職のありがたい法話(ほとんど忘れましたが)を拝聴しました

即身成仏の言葉から 凡人でも悟りを開けば 現世でも仏陀になれる
人間一人一人 仏の体を借りて生きているそうです 大切にすること
自分を愛することから人にも親切にできるー情けは人の為ならずです

朝が大事 朝と言う字は十月十日に分解される 朝には毎日生まれると
いう意味が表現され 鏡に向かって自問すること 今でいうドーパミン
が出て やる気が出て来る 脳が無意識に反応するのですと・・・ 

僧侶は 五重塔の曲がり角でも一礼 御殿に入る前にも一礼しました
じっくり観察させていただきました
そう言えば 朝の勤行中 一人は汗をふきふき 他の二名は動き無し
そこに集中度合の差 修行の差があるのかなあ~と変なところに注目
読経で声を張り上げる その声の美しさにも大きな差があり興味津々

佐近にお願いした おにぎりです(夜食用を今朝いただきました)

仁和寺から見て 左が佐近 右が「御室花伝抄」のホテル用敷地です
建築確認看板より:着工2023・10・2 完成2025・9・1
敷地面積 1172坪 地上3階地下1階 高さ9・98m 67室

仁和寺の壁際の桜は 何と山桜でした 御室桜ではなかったのでした

9時開門 我々が一番乗り
入口付近にダラダラと集まっている人はいましたが 並んでいません
そうなんです 外人さんには行列するという習慣が無いようなのです

ミストシャワーが歓迎してくれます 浮き世の汚れは取れましたか?

舎利殿は 応仁の乱では被害を免れましたが 1950年7月2日の
学僧放火により焼失 1955年復元 1987年「昭和の大修復」で
金箔は通常の5倍の厚さ「5倍箔」約20万枚のキンキラキンに仕上げ
悪趣味の極み!

この自撮りも悪趣味?

外人さん 蓮の花には興味なし 素通りです
(本当だ 蓮の葉は水面から浮き上がり 葉に切れ込みはありません)

お茶室に入ったのも我々が一番でした

金閣寺垣を意識して見たのは今回が初めて
三回目の金閣寺(妻が初めてなのでお付き合い)を後にします

そうだ 京都、行こう。2003年冬から

 陽気に誘われるだけが、旅ではないのです。
どうやら京都は 冬も「芸術の季節」のようです

そうだ 京都、行こう。1994年冬から


  シャッターを押すのをやめてじっと、まぶたに焼き付けています。
  しっかり見る。しっかり感動する。簡単にみえても、案外、
  コツがいったりするんです
第一層は藤原時代の寝殿造で 第二層は鎌倉時代の書院造で 第三層は
禅宗仏殿造 住宅と仏堂を兼ねた独特の建物 こんなこと考えますか?


金閣寺から仁和寺に戻る途中 立命館大学前でバスを降りて等持院

等持院門前に立つ上の像は「日本映画の父」と言われる マキノ省三
坂東妻三郎 嵐寛十郎 片岡千恵蔵 市川歌右衛門らを育成しました
当地は牧野省三の撮影所がありました 周辺はススキの原っぱでした

立命館創立者 中川小十郎は等持院の檀家総代でもあり 寺院から
の紹介で校舎敷地を購入 「等持院校舎」と呼ばれていた時代もある 

  中川小十郎は 西園寺公望の秘書であり 西園寺の夢を叶えての
  学校設立であった 当然多大の援助があり 声掛けで溥儀からの
  巨額の寄付があり 現在の衣笠キャンパスが購入できたようです

今回の旅行で 偶然にも二人の「牧野さん」にお会いできました

等持院臨済宗天龍寺派禅宗寺院 
禅宗開祖達磨大師図が我々を迎える(天龍寺にある絵と同じである)

足利将軍家菩提寺(先祖代々の墓がある寺)夢窓礎石を開山として
1341年足利尊氏により建立 等持院という名称は尊氏の法名です

霊光殿には足利氏歴代将軍の等身大の木造が並ぶ(家康像もあり)

応仁の乱の被災にあったが 秀吉の命により秀頼が再建した以降も 
方丈が妙心寺より移築されたり 庭の作りも変わるなど波乱万丈! 

茶室(義政好みと言われる)から眺める庭の美しさは格別

それにしても 我々の見学中 誰も来なかったのはどうしてか?
一つには アクセスが良くないことでしょうか

行きは立命館大学の外塀を 何人もに聞きつつクネクネ道を辿り
これは大変だと思いました 帰路は寺院の受付で教えてもらって
立命館の南出口から校内を突っ切り 意外な近道があったのです


仁和寺に戻ります

この角度からの「仁和寺五重塔」が見所なのです


仁和寺で 将棋の竜王戦が戦われる

何しろ暑い!!! 御室会館横で休息

この空を見上げれば 暑さが分かります
お腹がすいたので 等持院から予約しておいた「イ百食屋」に

バス停から店までの道順が分かりません
やはり スマホマップは言う事を聞きません
最後の手段 店に電話して 道案内をしてもらいながらです
しかも13時近く 一番多忙時に店員さんも可哀そう!!

予約時に 12:30までに入店できたら店内でOK 以降は
持ち帰りでよろしいですか?と聞かれ 了解した妻 13時に
到着し「店内では食べれないようで どうしよう どうしよう」
大声を出す妻を 店の外に連れ出すことが精一杯でした・・・
店の外の看板にも「お席でのご案内は14:00以降」とあり

超人気店ながら コロナの最中は大苦戦 店も縮小しての再出発
頑張ってほしい名店です
我々は ここは妻の機転 ローソンに入り「イートインできる場所?」
を質問 セブンイレブンを伝えられ そこまで何とか辿り着き食事を

ここでも我々夫婦の旅行中の恒例となっている口喧嘩 それにしても
暑い!もうどこにも行きたくない 京都駅に行きます

窓からボーッと見ていました

(本来なら 帰りの新幹線まで4~5時間あり どこか見物をとして
いましたが 頭が働きませんでした・・・やはり京都の夏はダメ!)




































 




2023年 酷暑の四国・京都一週間④

直島のシンボル 赤い南瓜に負けない黄色い南瓜
草間彌生氏初めての屋外彫刻作品 台風で海に流され破損
一年振りに復元・復活(2022年10月)しました 

<五日目 8月2日(水)晴れ>まるまる直島です

早朝 連絡船の切符を手配に港まで

たまの湯温泉に朝日が

ホテルでの人気の朝食です
飲み物5種類:オレンジ キウイとリンゴと小松菜 トマト赤パプリカ
       紫キャベツと豆乳 瀬戸内レモン
野菜のココット蒸し ヨーグルト ポタージュ UNOベネディクト

  SANAAの作品 観光案内所

直島の観光案内所に貼ってあったポスター 女の子の服がイイ!

予約済みのレンタサイクル店で電動自転車 1台1,200円
地中美術館チケットセンターまでは20分ほどですが 電動で
ないと 坂道続きで ちょっとキツイ
まだ9時です 10時開館の地中美術館の前に一つ見ておこうと
ベネッセハウスの北ゲートからは徒歩で 坂道を下ります

VALLEY GALLERYは安藤忠雄氏設計
草間彌生氏の「ナルシスの庭」ステンレス製のミラーボール
       1966年のヴェネチア・ビエンナーレで会場の芝生に
       大量に敷き詰め 世界的注目を集めた記念すべき作品

小沢 剛氏の「スラグブッダ88」豊島の産業廃棄物処理後 無害化は
       成し遂げたが 負の歴史が無かったことになるのは? 
       測量と写真をもとに 直島に残る八十八体の仏像を模刻
       し仏像の型をとり その型にスラグを流し込んで焼成
       廃棄物のスラグを取り入れた仏像が勢ぞろいしたのです
       
      (江戸の人は四国八十八ヶ所巡礼地をコンパクトに模して
       簡単に巡れるコンビニエンス巡礼を各地に設けました)            

地中美術館に戻り 開館を待ちます 圧倒的に若者が多かった

チケットセンターからここまでの途中に「地中の庭」と銘打って
モネのジヴェルニーの庭を模した 道すがらの小川がありました

   空中から撮影の地中美術館

 何と!建物を構築させた後 地中に埋め込んだのです

この三角の切れ込みがスゴイ! やはり建築構造上難度大と
隅っこに妻が写っていたのでビックリです

地中カフェで一休み オリーブサイダーとレモネード各560円
外に出て感動 小島までは歩いて行けそう?

地中美術館では モネの睡蓮5作品と ウォルター・デ・マリアの
直径2.2mの球体と27体の金箔をほどこした木製の彫刻を配置 
そしてジェームズ・タレルの「オープン・フィールド」 

参考:ジェームズ・タレルって?
   金沢21世紀美術館の「ブルー・プラネット・スカイ」でも
   そして 後の「家プロジェクト」の南寺の暗闇も同氏作品と

チケットセンターからベネッセミュージアムまではシャトルバスで
「自然・建築・アートの共生」をコンセプトに1992年ベネッセ
ハウスミュージアムが完成 瀬戸内の風景が主役です!

対岸に架けられたこの一枚を撮影するために来たのです
杉本博司氏 海景シリーズの「タイム・エクスポーズド」
原始人が見た海を現代人も同じように見ることは可能か?

実は帰京後調べていたら この最後の一枚が 少し離れた
シーサイドギャラリー横の桟橋から 眼前に見物できると
作品は タイム・エクスポーズド ミルトア海スーニオン
この一枚は 風雨にさらされ何回か 掛け直したようです

ちょっと気になった作品 ずーっと笑っているのです

妻がシュワッチ!しています ウルトラマンの群像です
実際は円の四分の一だけなのに 鏡の反射で円にしてある

軽く食事を

右:大竹伸朗氏「シップヤード・ワークス 船底と穴1990年」

リーウーファン美術館 李さんと安藤忠雄さんのコラボ芸術です
2007年のヴェネチア・ビエンナーレの作品を見たベネッセ代表の
福武総一郎から「あなたの美術館を直島に作らないか?」と声掛け

「美術作品だけを集めて人を呼び込んで見せる 世の美術館に対して
美術の墓場みたいではないか?」「アルタミラやラスコーの洞窟など
外側と何かを感じ合えることのできる場所・空間にこそ 自分の名を
冠した美術館を作りたい」この要望を包み込んだのがここ・・・

2010年 安藤忠雄による建物は 直島と言う海に面し山の谷間に
ある その作品は個を超え 周囲の空間に調和・反発し 豊かな響き
合いを生み出している 李さんに対する回答といえるのではないか!

ベネッセハウス下のシャトルバス停留所からは乗る人が多いため
13:30に予約してある杉本博司ギャラリーに行けないかも?
という私の懸念に 妻「それなら一つ前のバス停まで歩いてそこ
からのシャトルバスに乗ればいい」との提案でここへ来たのです

杉本博司ギャラリー時の廻廊 時間ピッタリに到着 先ずはホッ!

硝子の茶室「聞鳥庵」
2014年 製作され ヴェネチア・ヴィエンナーレに出品
2018年 ヴェルサイユ宮殿トリアノンの池に設置される
2020年 京都京セラ美術館大リニューアル杮落し 庭園の池に設置
2022年 最終目的地が直島で 五輪塔と一緒に設置される

他にも 後の「家プロジェクト」につながる護王神社の模型あり

これでベネッセハウス内の鑑賞は終わり
シャトルバスでチケットセンターに戻り 再び電動自転車で島の東へ
北ゲートを左折して ほぼ下り坂を15分進みます 一本道で助かる


               本村ラウンジで共通チケット1,050円を購入

         最初は南寺 安藤忠雄設計 ジェームズ・タレルの作品
暗闇の中で感覚が研ぎ澄まされ 次第に光が見えてくる体験を作品化
何だか だまされたようなキツネにつままれたような印象が残ります

家プロジェクト「角屋」空き家を改修して宮島達男氏が作品化

同氏の作品が「カウンターサークル№18」としてベネッセハウス
内にもありました どうもアーティストが両方に出品している感じ

家プロジェクト「護王神社杉本博司氏作品 ガラスの階段
そう言えば この模型が杉本博司ギャラリーにありましたね

かつて製塩業を営んでいた石橋邸を再建 母屋と庭の一体感「空の庭」

蔵の中で自然光のもと鑑賞(モデルが入っては困るそうです)

家プロジェクト「石橋」千住博の「ザ・フォールズ」は壁の
穴から庭につながって 橋を渡って流れて行くイメージです

16:30で終了なのです あとの2件は訪問できずでした

電動自転車をすっ飛ばして宮浦港
港周辺の有名どころと言えば 直島温泉と赤い南瓜です

フェリーで宇野港まで戻って来て たまの湯温泉に入り 夕食です

目の前に沢山皿が並ぶと それだけで満足です

ホテルでは うまい棒とシューアイスが食べ放題だったそうです
(裏口の休憩所にお茶のセットとうまい棒 冷蔵庫にシューアイス)
知りませんでした ホテルと食事 温泉とコスパのいい連泊でした
一つだけ難点 たまの湯 何回でも入れますとは言うものの 朝が
10時から それはない! その時間にはホテルにいません!