隠岐・鳥取 太平記旅行モニターツアー3日間 前半

隠岐 西ノ島の観音岩 サンセット時の絶景

<一日目 10月30日(月)晴れ>隠岐の島上陸
今回は クラブツーリズムのCTキャストとして このコースで一般の
お客様が参加し 本当に満足していただけるか否かを探る旅 責任大! 
スマホで見る場合は 文字数の関係で 横画面で見ていただきたい)

機種は新しく 映画を観る画面が最新式 ただし米子空港まで80分で
全編見られないことになるので注意 あとANAのマイルはつきません

米子空港到着 荷物受け取り場所の天井を見上げると ぬりかべの歓迎
そして大山を背景とした皆生温泉足立美術館の広告  山陰の顔ですね

空港から専用バスで境港へ JR駅とフェリー乗り場が隣接しています
それにしても どこを見ても鬼太郎ばかりです 境港市水木しげる
出身地だから仕方ありません

案内標識も「水木しげるロード」が一番上にあり添乗員さんも勧めるので
レインボージェット(高速船)11:50出発までの時間に いざ見学!

ガイドマップは観光案内所にあります 妖怪スタンプラリーはいかが?

世界ジオパーク」としての「隠岐の島の成り立ち」について

①「大陸の時代」2億5千年前 隠岐は かつて大陸の一部であった

  

②「日本海形成の時代」2,600万年前~600万年前
  日本と隠岐の土地はゆっくり引っ張られ その部分が沈み その
  窪みに湖ができ 海水が流れ込み 日本海になった 隠岐の島が
  湖の底から海の底になった時代である
③「火山島の時代」 600万年前~40万年前
  激しい火山噴火 500万年前には「島前カルデラ」が誕生した
④「半島から孤島へ」 40万年前~現在へ
  火山活動が終息したのちは 気候変動と海抜の変化で 繰り返し
  地上に現われては海水に沈み 島と本土の繋がりは断続的に変動
  (現在の水深が70~80mしかない隠岐海峡は 最終氷期には
  約1万年の間に 100mの高さが変化した)

2013年ユネスコ世界ジオパークに認定され 今年10周年を迎えた

そして隠岐は 古事記の神話の島 イザナギの命(みこと)とイザナミ
の命が三番目に産んだ島が隠岐(参考 一番目から淡路島 四国 隠岐
九州 壱岐 対馬 佐渡 ラストが本州)更に神話世界では 大黒様が
助けた因幡の白兎は 隠岐の島から鰐の背中を渡ってきたのです

高速船で 島後の西郷港経由 西ノ島別府港着13:55 2時間の船旅

お弁当が配られます 美味しかった
というか献立表がすごいのです 砂丘長芋 米子白ネギ 境港サーモン
大山豚 大山ブロッコリー 大山鶏 星空舞 鳥取県産すいかのゼリー
これでもか これでもかの 産地名の宣伝オンパレードでした

船は全く揺れず快適でしたが 展望デッキが無く外に出られません 
カメラ撮影は分厚い窓越しになります

(妻のスマホで撮影)私のボロカメラよりもキレイ

別府港到着 背後に見えるのは 見附島 監視と警護を兼ねています
そうです 島流しにあった後醍醐天皇の 脱出防止が主目的なのです

観光タクシーには 我々モニター6人 添乗員1名 会社から2名の
計9名 港からすぐの「黒木神社」後醍醐天皇の行在所阯からスタート

付近の案内図で説明後 資料館の「碧風館」に入ります

黒木御所の黒木とは 木の皮を削っていない木材のこと
「黒木御所の歌」これを読めば 後醍醐天皇脱出劇の概略が分かります?


   館内ガイドが 後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を図った意図を説明
嵯峨天皇の後継天皇を 第三皇子にせず弟の第四皇子にしたために
兄弟間の争いに発展 最終鎌倉幕府が仲介し「両党迭立(てつりつ)」
という異例の天皇交代制(持明院統大覚寺統)が始まったのですと

私流に説明すると 御嵯峨は兄の後深草より弟の亀山を好んだため最初
譲位した兄から弟へ譲位させ そして亀山の子2歳の後宇多へ継がせた
最終 御嵯峨は 自分の嫡流を二人の息子のどちらにするか明言せずに
あとは鎌倉幕府宜しくという感じで死去 これではもめること必至です

後に 後醍醐天皇が即位したあと やはり自分の子息に譲位し 自分は
上皇になるのが筋 鎌倉幕府には次の天皇決定権限は無いと主張します 
倒幕計画を練り 最終的に失敗し(死刑の次に重い)島流しになります

ここで疑問が・・・どうして隠岐の島なのか?
月刊誌「島へ●」の隠岐の島特集号で判明 京都・奈良から見て北西の
方角が吉兆だから(反対に北東は鬼門)と天皇に対する敬意からです

右は 出雲市別所町の鰐淵寺(がくえんじ)根本中堂 南北朝時代には 
当寺の北院と南院で それぞれが北朝 南朝を支持して対立していた
後醍醐天皇隠岐に配流を知り 南院の頼源大師が御所に伺候し 宸筆の
願文(倒幕の所願を遂げたら 薬師堂を造営するというもの)を賜った
この願文は現存し 重要文化財に指定されている(碧風館の物は複製)
頼源は 後醍醐天皇隠岐脱出を助け 南朝に忠誠を尽くした人物です

10数年後 北院と南院は和解し それぞれの千手観音菩薩薬師如来
両方をご本尊として祀ったそうです 

後醍醐天皇は 配流後 各方面に手紙を出し続け 脱出計画を進める
親書の伝達は専ら 島の焼火(たくひ)神社で修行中の山伏だったと

現在も続いている地元別府の「でやんな祭り」は春と秋に実施される
酒造り神事 神事の開始前に「でやんなよう(出逢うな出るな)」と
告げられ 神事の間は関係者以外は外出禁止となる 家の戸を閉ざし
明かりが外に漏れないようにして家の中で物忌みをする・・・

これが後醍醐天皇の脱出日に実施され 暗闇の中必死の山越えが実現
(地元民は知らないことと言えます) 帆掛け船で本土に向かいます
その日が1333年閏2月24日 旧暦の2月は現在の3月に相当し
3月の初巳と10月28日に「でやんな祭り」が行われるのです 

(2019年8月に英国を訪問 その際知った物語があります)
我々夫婦 これを聞いてすぐに連想するのは 11世紀イングランド
ゴダイヴァ夫人 夫で領主の悪政に反対するも聞き入れられず 夫から
コヴェントリーの町を 裸で馬に乗り通せば聞いてやると言われ では
ということで 長い髪を下ろし できるだけ目立たぬように行進します

町人たちは 夫人に恩義を感じ 窓を閉め覗き見するのを控えたのです
結果 悪政は取り消された 後日この夫人が領主になったとのことです
現在のゴディバチョコレートの由来となり ゴディバの商標になります

黒木神社へ参ります

「黒木御所阯」と 小泉八雲の手記 

黒木御所阯には 大正天皇以降 代々の天皇・皇室の方々が参拝されて
います すごいなあと思ったのに 実は海士町後鳥羽天皇御火葬塚や
行在所跡に参拝されたあと ついで(の意味が大きい)に こちらもと
いうことで来られるとのガイドさんの説明 なあんだという気持ちです
なにしろ 現在の皇室は後鳥羽天皇北朝持明院統) 後醍醐天皇
もうすでに途絶えている南朝大覚寺統)だからなのでしょうか?

参考(地球の歩き方から)
天皇家の紋章が菊とされているのは有名です その起源は後鳥羽上皇
菊の花をよく好み  自ら造った刀にも菊を記していたことから始まった

昔は この石の所までが波打ち際で ここで船待ちのあいだ腰掛ていた
伝承では ここから小舟で脱出スタート(知夫村から帆掛け船)したと

ガイドさんお勧め由良比女神社 平安時代隠岐国一宮に定められた古社
本土にまで宮大工修行に出て習得した地元の大工さんの見事な腕を見てと
時間が無いことを残念がっていました(WEBより転載しておきます)

タクシーは山の上に到着 3島で「島前カルデラ」を形成
西ノ島の焼火山を中心に その外輪山が3つの島々となっています

海に浮かぶカルデラは世界的にも珍しく 外輪山が島でカルデラが海
なのは世界で2つ ギリシャサントリーニ島とここだけだそうです
この内海は非常に穏やかで 本土側からのフェリーや豪華客船も寄港
「島前カルデラ」は 世界の方が知名度高く 外国人の訪問も多いと

いったん山を下り「赤尾展望所」に向かいます
馬が道路をふさぎます 牛もです 馬は戦時中軍用馬に徴用され絶滅
内地や外国から島に 牛は小さいうちに競りにかけられ本土に送られ
神戸牛や松阪牛になるそうです

今日は天気が最高 雲の形がいいとガイドさん 次は「摩天崖」と
皆さん先ほどの馬に見とれて 反対側の通天橋には目が行きません

「摩天崖」こんな急坂を馬は難なく下りて行きます

添乗員さん撮影

私の後ろの赤シャツが 運転手兼ガイドの鏡谷さんです
ここからは竹島も近い 島根県の管轄です

この辺は 馬のウンチや牛のウンチで 足の踏み場がありません
ウンチは草食のためと 虫がバクテリアを分解し臭いはしません
陽が落ちて来ました ガイドさんがあせります

次は最後の観音岩 許可を得たからとゲートの錠前を・・・

ガイドさんが先頭に立って走ります 皆も後を追いかけます
岩と岩の間に陽が吸い込まれる寸前です まさに「天上界」です
追いかけると ガイドするのも忘れ この景観に浸っていました

観音岩を背にして 間近になった通天橋でも写真を一枚

その間に陽が沈み 夕焼けが広がります
こんな景観が見られるのは 私でも年に2~3回ですと ガイドさん
相当に興奮(岩の先端に夕日が重なり 後光が差す春夏の時期が最高)
山を下りながら 上ってくる車に何台も出逢いましたが 残念でした!

岩ガキ こんなに大きいのビックリです しかも超美味しい! 
岩ガキの養殖は 1992年に全国で初めて 西ノ島町で成功
現在はそのノウハウを基に 隠岐諸島全域で生産されています

箸置きの裏に書かれていた「隠岐しげさ節」の歌詞から
隠岐は絵の島花の島 磯にゃ浪の花咲く 里にゃ人情の花が咲く

本日ガイド兼運転手さんと一緒に回り 種々勉強になりました
江戸時代には 北前船が下関から隠岐経由能登まで運行しての
中継港だったし 北海道から帰りの船が 日本海が荒れるころ
までに瀬戸内海に入れない時は 無理をせずに隠岐で冬を越す
これを囲い船と呼んだそう 寄港地で一番栄えたのは 島後の
西郷港で 次は知夫里島が風待ち港として 西ノ島が続いたと

残る中ノ島の海士町(あまちょう)は 今空前のIターン人気
一年間のお試し期間を経て ずーっと住んでみたいという人が
とても多くて キャンセル待ちだそう 海士町の中ノ島は島の
北半分は島前最大の平地で住み易い 住民の2割がIターンと

<二日目 10月31日(火)晴れ>隠岐の島から鳥取県

ホテル「国賀荘」(浦郷湾の高台に位置する)の部屋の窓から
カルデラの内海のせいか 全く波が見えません 湖のようです

朝食は 昨晩の夕食に比べ 少なめですが お米が美味しい
当地のお米ではなく 鳥取・島根から運ばれます

ホテルの部屋が和室 我々夫婦 私は肩を痛めており 妻は膝の具合が 
良くなくて 朝起き上がるのに苦労しました シニアには洋室が・・・

フェリー乗り場とは少し離れた場所に切符売り場及び観光案内所が
あります そこに(ガイドさん曰く)広重・北斎隠岐の絵があり
それを一目見たかった


初代歌川広重「六十余州名所図会」隠岐焚火の社(1853~1856)


          葛飾北斎が描いた「焚火の社」北斎漫画七編より
          この二枚は残念ながら見逃したのでWEBから拝借
          
当寺 西回り廻船(北前船)の船人が尊崇した焼火権現は 船乗り達の
信仰厚く その神徳は東国まで轟き 広重・北斎は現地には行かずとも
聞き伝えで書いたのです 実際の焼火神社は海抜300mの高さにあり
上の絵の様に海岸から見えるものではない(とガイドさん)

神社のかがり火が 灯台の役目を果たし 船の航行の安全を守ったと
その焼火神社 今では日本人の99%が一生行かない初詣スポットと
(今回行けなかったけれど 参考の為掲載です)

船が別府港を離れます 帰路は中ノ島の菱浦港から 島後の西郷港
経由で境港に 7:40発 9:58着の予定です
いつかまた「隠岐へ ござらっしゃい」

10分後には菱浦港に到着

8:25西郷港に到着 鬼太郎丸が接岸していました

大型船が出港しています 外国船も寄港するそうです

境港に到着です 目の前の山頂には自衛隊の美保レーダー基地
上空には飛行機の往来が何度も見られました

境港駅自動販売

駅の待合室

駅舎は こんなに小さいのです(右写真)

バスの添乗員さん(勤続16年だそうです)
境港には いろんな大型船が寄港します 飛鳥 にっぽん丸
ジャパネットクルーズのMSC ホーランドウエステルダム

大山が見えて来ての民話紹介です 昔 韓国の神様 韓山と大山
どちらが高いかを比べるため 大きな船で 韓山をここに運んで
背比べしたそうで 結果大山が少し高かった 怒った韓国の神様
置いていったのが写真の左側の山 現在高麗山と呼ばれています

さてさて 我々は無事隠岐の島を脱出出来ましたが 歴史上での
後醍醐天皇脱出ツアーはどうなるのでしょうか 後半に続きます

簡単な人物関係
鎌倉幕府末期 第14代執権北条高時(高慢・病弱・虚無感の人物)
 正中の変で後醍醐側近の日野資朝佐渡へ配流 元弘の乱で俊基を
 処刑 後醍醐を隠岐へ配流 後醍醐船上山で挙兵では御家人筆頭の
 足利高氏を京都へ派遣・失敗 新田義貞が鎌倉へ そして高時自刃
 (テレビ「太平記」では片岡鶴太郎が怪演 まさに適役であった)

建武の新政時 後醍醐の皇子護良親王と後醍醐側室三位の局が対立  
 護良親王派は 赤松則村(幕府側六波羅探題家臣)・楠木正成
 三位の局派は 千種忠懸(この二人は隠岐に同行)・名和長年
 圧倒的に厚遇されたのは三位の局派で 護良親王の令旨を拝受後に
 反幕府として挙兵し 大活躍した赤松はその後 反後醍醐の尊氏に
 従った 公卿である千種・北畠顕家(親房の長男)は尊氏に敗れた

参考として「太平記」を取り巻く 南北朝時代を描く史論を紹介します
1,「増鏡」
  後鳥羽天皇即位から後醍醐天皇流罪・京都への復帰までを描いた
  百歳の尼に語らせた形式で 朝廷側に同情的な表現が多い 立場は
  南朝側の立場からで 南北朝時代に成立したようで作者不明である

2,「太平記
  全40巻+アルファ 作者は複数でしょう 成立時期不詳
  鎌倉幕府末期から足利義満までを 室町幕府との密接な関わりを
  持つ知識人を中心に編纂され 足利義満も修訂に関与したらしい
  初め南朝よりだった内容を「難太平記」で誤りを証明・訂正して
  北朝寄りに持って行った

3,「神皇正統記北畠親房著 1339年 1343年改訂
  日本建国の由来から 後醍醐天皇の皇子である後村上天皇即位まで
  約2千年の(天皇の代毎の)歴史をたどり 南朝の正統なることを
  論証した 国体論(血統的に一系の天皇をいただく日本国家体制の
  優秀性と永久性を強調する)や武道論を随所に交え 後世に大きな
  影響を与えた 1339年は後醍醐天皇が崩じ 後村上天皇となる
  年で この史論は後村上天皇への教育的要素をも含んでいる
    
4,「大日本史水戸光圀編纂と水戸学
  江戸時代 上の北畠親房の影響大で編纂された「大日本史」に端を
  発し 皇室の尊厳を説き 幕末の尊王攘夷運動に多大な影響を与え
  たのが 後世の皇国史観へと繋がる水戸学で 天皇親政を目指した
  後醍醐天皇こそ 正当な天皇であると主張 これは明治から昭和の
  初期に大ブームとなり 大日本帝国時代には 政府公認の歴史観
  された(「太平記」はどこかに置き去られた)

5,「私本太平記吉川英治著 戦後毎日新聞連載
  明治政府体制では 天皇に背いた大悪人とされた足利尊氏(高氏)
  南朝の大忠臣として美化されていた楠木正成等 イデオロギー的に
  語られた戦前では 一種のタブーであった日本の南北朝時代 逆に
  尊氏を主役に新解釈を加えて描く 
  楠木正成も温厚な苦悩の人として描かれ 戦前の忠臣のイメージを
  大きく変えている 1991年テレビ上映された「太平記」の原作
  真田広之足利尊氏を 武田鉄矢楠木正成を演じていました

個人的: 鎌倉幕府側から後醍醐天皇側に寝返り 最後に後醍醐天皇
     弓を引いた尊氏 理由の如何を問わず 絶対に許せません! 
     それと 父が軍人で 私が小さい頃に 銭湯で父から毎回の
     ように楠木正成公の赤坂城 千早城の戦いぶりを聞かされた
     これは団塊ジュニア世代の共通認識 南朝びいき当然ですね
     だからこそ 今回のツアーにも参加したのです

     皇居前には「大楠公」として立派な武者姿の銅像があります
     隠岐の島から戻られた後醍醐天皇を 兵庫の道筋で出迎えた
     ときの正成の勇姿 頭部は髙村高雲 他の部位を3名が担当
     肖像画は20枚以上あるが その全てが違う顔 多くの知見
     が集約され 製作に10年かかった力作なのです

     楠木正成は明治13年 正一位を追贈されています
     反対に足利尊氏は 一体どこでどうなっているのでしょう?