2023年 台風にもめげず佐賀・長崎3日間

定期観光バスで長崎グラバー邸へ 西九州新幹線「かもめ」は3回乗車

<一日目 9月1日(金)小雨>東京から伊万里
今回は 息子の結婚・両家顔合わせのため九州へ 旅行はおまけです
とはいえ 顔合わせが9月3日であり 直前の台風9・11・12号が
心配で 毎日台風進路予想を見ていました
(結果は 太平洋高気圧が本州から九州まで覆っており 珍しく中国や
韓国に上陸したようで万々歳!結婚の前途に明るい兆しか?)

スターフライヤー福岡空港 そして地下鉄で博多駅
スターフライヤーの機内限定で「JR西九州フリーきっぷ3日間」が
購入できて 西九州新幹線指定席2回乗車可能 博多~長崎間を都度
購入するより(我々のように2日間利用でも)少しお得です

乗り鉄の妻が喜ぶ列車が次々と・・・

JR特急みどり15号佐世保行で有田 そして松浦鉄道伊万里

松浦鉄道 各駅には 地元小学校児童の書いた絵が・・・
列車の窓越しに 小雨交じりの山々が水墨画のように見えます

伊万里駅前 森永製菓のふるさとです

大川内山へ行く合間にイオンでパンを購入
さすが焼き物の町 大きな焼物が 堂々と飾られています
右はバスの車内から見つけた「古伊万里美人像」 こんなに大きいの!

西肥バスの終点 大川内山ではガイドさんが出迎えてくれました
ガイドについては伊万里市観光協会に事前申し込み(1,500円)

ボランティアガイドさんに聞きました「焼き物の像は壊されない?」
先ず 設置前に金銭面での猛反対とやはり破損懸念が 周りを檻で
囲いましょうかと 結果はどうか 全く被害はありませんと・・・

大川内山の「鍋島藩窯公園」を巡ります 関所から窯元奥深くへ

左は「めおとしの塔」人が通過すると鳴るらしいのですが・・・
   かつての陶工が焼物を叩いて音色で選別しためおとしの技を再現
右は「唐臼小屋」漆器の材料を砕くための工夫(鹿威しと同じ原理) 

散らばっていた無名陶工の遺骨を地元民が集めて山のように積み上げた

関所からは 自由に出入りさせず 鍋島焼の秘伝を守った秘窯が続く
(鍋島の殿様が有田焼の名工をえりすぐって囲ったのです)

それにしても 小雨交じりが良かった 通りの背景がケブっています

当店は 鍋島藩御用達なりと 大見栄を張る店も
ガイドさん曰く「関所の中の店は 全部御用達です」

この店のご子息の結婚式には 安倍晋三さんも出席されたとか
奥様(昭恵さん)の母方の出身地です 選挙用だと思われます
昨日までは「風鈴祭り」で各店が店前に飾り販売したようです

眼を引いた二品です 自分勝手に「色鍋島!」と撮影

それにしても 通りを人が歩いていません こんなに静か!
外国人(特に欧米人)に人気ですと 日本人にもっと来てもらいたい
佐賀県伊万里市も広報下手なんです 魅力を発信できずにいるので
我々も歯がゆい限りですと・・・
  有明海産の板海苔 生産量日本一
  ハウスみかんの収穫量も日本一
  呼子イカは日本一おいしい
  佐賀牛はアジアでの人気抜群
  小城羊羹で有名 1世帯当たりの購入金額が全国の2倍強です
  江崎グリコ 森永製菓の創業者は佐賀県出身
  でもでも佐賀県 福岡県と長崎県の間で地味な存在なのです
佐賀県人の特徴は 自分に厳しく 真面目でコツコツ 口数が少ない
世の中にアピールするなんて とんでもないことでございます・・・

葉隠れ(鍋島論語)精神「武士道というは 死ぬことと見つけたり

左はガイドさんが 名品ですと紹介した磁器
右は何と 骨壺なんです 絵模様は「結び」縁起のいい結び方で
ビックリ! 故人への思いを込めて つがいの蝶が花のまわりを
舞う世界へいざないますと(鍋島焼)

店に入るといい香り お茶を使った和のアロマテラピー 茶香炉
気に入った妻が購入しました 色鍋島の手描きです 1万数千円
おまけに風鈴がついたそうです(店名:小笠原藤右衛門)

ガイドさんが駅まで自家用車で送ってくれました ラッキー!
バスだと150円で済むもタクシーだと1,800円なのです
ガイドをお願いする以上最低限の知識だけは習得しておこうと
歴史から勉強しました 沢山質問を投げてより詳しいガイドに
ガイドさんも大張り切り 時間の許す限りのワクワクタイムに

そもそもは秀吉の朝鮮出兵時 韓国の名工を連れて戻り 有田でも
泉山陶石が発見された 釉薬をかけ1,300度の高温で17時間
以上焼き上げて作られた それが「磁器」です
(陶器の瀬戸物とは全く違うと ことさら強調されていました)
1650年 オランダの東インド会社が初めて有田焼を買い付けて
伊万里港からアジア・ヨーロッパへ輸出 背景として明の景徳鎮が
清朝との交代期で輸出停止になり 有田焼(伊万里焼)が人気に!

ただし 2000年頃「産地偽装問題」が出て生産地表記の厳格化
これで従来 同じ有田焼だった波佐見は有田焼の名称が使用不能
なり「波佐見焼」をスタートさせる これが大衆に受け 有田焼が
下降線をたどることになった

参考です 福岡空港から伊万里駅までバス(いまり号)が出ている
JR特急と松浦鉄道利用での時間と変わらず 費用は半分ですみます

ガイドさんが車中 勧めた「シトー会伊万里の聖母トラピスチヌ修道院
函館市があんなに有名なのに こちらは全くといって知名度がありません
そして昨年も引き上げられた「元寇の役」の時代の船のいかり 長崎県
報じているが 沈んだ4千隻は博多湾全体に及んでおり 佐賀県でも手を
上げるべき 両方とも観光の目玉になるのに 県も市も全く動きません!
観光ボランティアであれば よけいにイライラされていることでしょう

参考までに 私が佐賀県で一番行きたいのは「祐徳稲荷神社
武雄温泉駅から祐徳バスで南下して1時間 次回は有田と合わせて!!

さすが伊万里 焼き物で作られています

武雄温泉からは 西九州新幹線かもめ号です

天井のデザインは かもめが飛んでいる姿

今日明日と連泊です

行きたかった吉宗(よっそう)へTELするも 当日の予約不可と
駅ビルの「蘇州林」へ入り ちゃんぽんと皿うどんと餃子・焼売と
フルコース お腹いっぱい 細めんの皿うどんが一番でした

10階の部屋から長崎駅がすぐ眼下に

<二日目 9月2日(土)晴れ>長崎市内観光と夜景見物

朝食です 窓際の席が埋まっていて 妻が不満顔
すかさず係員 エグゼクティブ会員用の席に案内してくれ
「まだ早いので 会員の方がお見えでない どうぞ」

美味しかったです

長崎駅の東口は 駅前から突貫工事中(南北をつなぐようです)

西口は 真ん前がヒルトンで駅と連結しています
ホテル一階に観光バスが2台 すぐに1台が出発

 JR九州のデザイン顧問水戸岡鋭治さんによる 長崎県営バス

10:10から5時間 長崎定期観光バスです
先ずは原爆資料館 
螺旋階段から下りて入口まで「連鶴」なんと150m 紙一枚で製作と
オランダ人の芸術家マナ・オリさん 過去27年間折り紙を折り続ける
紙にはこだわりを持ち 手作りの高級和紙を使用している

資料館 先ずは 原爆投下11:02分で止まった時計

ボランティアガイドさんの説明に聞き入る妻
右の写真の左下方が原爆投下された場所とか
長崎は山に囲まれており 被害が周囲に拡大せず 爆弾の威力は
広島より大きいのに 死者数は広島比5万人少なかったそうです

在りし日の浦上天主堂 「長崎の鐘」の舞台です
「アンジェラスの鐘」その2つのうちの1つは 奇跡的に地中から
掘り出され 同年のクリスマスに 永井博士がその1つの鐘を鳴らし
たそうです 天主堂復元とともに 堂内に納められています


原爆投下の瞬間 礼拝堂で告解(犯した罪を司祭を通して神に告白し
許しを請うこと)のため集まっていた神父二名と信徒数十人は 倒壊
した天主堂の下敷きとなって全員死亡した・・・

原爆は「ファットマン」実物大模型 妻が演技しています
周りの火薬でプルトニウムを内側に爆縮して核分裂を起こした

「板壁に残った はしごと監視兵の影」 熱線の直射を受け 光が
当った部分は塗料のコールタールが剥げ 影の部分だけが黒く残った
バスの車窓から見えた山王神社の一本鳥居と楠木


  長崎医科大学助教授 永井隆博士 手に持たれたロザリオ・・・
  自らも重い傷を負ったその直後から 負傷者の救護や原爆障害の
  研究に献身的に取り組んだ

「焼き場に立つ少年」説明文を読みながら涙する妻です
右隅に「撮影禁止」が掲示されていました・・・スイマセン

長崎に来られたローマ教皇フランシスコ 再度の少年写真
1945年 米国のカメラマン ジョー・オダネル氏撮影
(後にNHK調査で長崎本線道ノ尾駅近くの踏切と 裏焼きされている)
同氏が翌年米国に持ち帰り フィルムをトランクにしまい込み封印したと
1989年 米国内で反核運動が広がり 43年振りにトランクを開けて
2007年 長崎県美術館に特別展示 そして長崎県に寄贈した
2017年 ローマ教皇フランシスコが この写真を印刷したカードを
      署名と「戦争がもたらすもの」という言葉を添えて世界の
      教会に配布するよう指示を出された
      「千の言葉よりも多くを語る」
      核兵器に対するメッセージを最初に出された法皇
      「核兵器は安全保障の危機から人を守らない」と発言

原爆投下中心地は下方

本当は水色だけど 好きではないので脱色編集の平和祈念像

原爆に会った子供達 水が欲しかった 川の水は油まみれ
それでも飲んだんです・・・

平和公園を後にして 出島に向かいます
その間20分 昼食としてパン(ホテルからの持ち込み)を食べます

バスの車内でガイドさんが朗読を始めます
永井博士の「この子を残して」です 4分弱を完全に暗記されています
博士は原爆で妻を亡くし 自らも重い白血病で死が近い 疎開させていた
子供は幼い 父親の顔に頬を寄せて臭いをかぐのを見てどんなやるせない
気持ちでいたか・・・
次いで長崎の鐘です
♬ 召されて妻は天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ
  かたみに残るロザリオの 鎖に白き わが涙
  なぐさみ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る ♬
サトウハチロウ作詞 古関裕而作曲 歌は藤山一郎

バスの車窓から 永井博士の生活された『如己堂」「浦上天主堂」 
「一本柱鳥居」 おくんちで有名な「諏訪神社」と見学です

出島に到着
出島をつくった理由:ポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止する
ため徳川幕府は岬の突端に人口の島を築き そこにポルトガル人を収容
(一番初めは長崎市内そして諫早から平戸に 最後に出島となった)

出島に女ガリバー出現!

                    イス・テーブルで床は畳敷き

オランダ商館長であるカピタン(英語でのキャプテン)邸
カピタンは1年交代 着任すると先ず「江戸参府」往復と滞在で3ヶ月
あとはヒマ まるで「国立監獄」のような生活だったとか その中では
「酒・女・歌」が楽しみ 平戸時代とは違って夫人同伴は許されず唯一
出島への出入りを許されたのが「オランダ行き」と称する遊女でした

あとは「オランダ正月」や「オランダ冬至」で 出入りの日本人役人を
招いての豪華な祝宴 ただし役人は肉など食べられず持ち帰ったとか

出島に関して有名人がドイツ人のシーボルト
1826年 カピタンの江戸参府に同行して 往復の途中での国内見物
動植物の採集にも熱心で 帰国後1835年「日本植物誌」を刊行した
オランダのライデン植物園に今でもアジサイをはじめ咲き誇っていると

シーボルトは 動植物以外にも日本地図とか持ち出し国外追放となった
シーボルト事件や遊女?タキとのロマンスなど話題の多い人物ではある

出島を出発し 新地中華街を通過 オランダ坂を一瞬見て
孔子廟見学です 本日何と変面ショーが見られるとのことラッキー


ショーの主人公『京介」の弟子?

中国華南・華北の建築様式合体の廟宇と72賢人石像・孔子

博物館には国宝級の文化財が展示されていますが
今日ばかりは変面ショーがお目当てです

いよいよ13時からショー開始

私自身 学生時代に 中国映画「変面 この櫂に手をそえて」で
四川省の川劇にこんな素晴らしいものがあることを知り この
ショーを見ることができる海外ツアーを候補に入れていました

いよいよグラバー園大浦天主堂です 90分で両方だそうで
グラバー園は頂上まで行き すぐに天主堂へ行くと決めました

プッチーニ三浦環 壁の石は♬だそうです
50年前に来たグラバー園 この像だけは鮮明に覚えていました


急いで坂を下ります

<国宝 大浦天主堂
プティジャン司教の指導をもとに 1865年2月19日に献堂式が
行なわれました 現存する日本最古の教会 
1597年2月5日 西坂の丘(長崎駅前)で殉教した日本二十六聖人
捧げられた教会で 殉教地の方向に向けて建てられました

シドツティ神父とは イタリア人のカトリック司祭
江戸時代の中期(月代さかやきをして武士の恰好で)日本に潜入し
土地の言葉までは習得できずで 怪しまれ捕えられた その死まで
江戸で幽閉された
幕府の実力者 新井白石は彼との対話をもとに「西洋紀聞」を著した


日本二十六聖人の殉教
1596年 フィリピンからメキシコに向かっていたスペイン船の
サン・フェリペ号の船員が「スペインは世界の強国で 宣教師を派遣
して現地人を改宗させ 占領する」旨を話したため 激怒した秀吉が
宣教師らを処刑するよう命じた

「信徒発見と信教の自由」
1865年3月17日の昼下がり 宗教史上の奇跡「信徒発見」が
起こる 天主堂門前に男女子供 約15名の一団がいて聖堂に案内
して祈ると 中年の女性が「私どもは 全部あなたさまと同じ心で
ございます・・・」「サンタ・マリアの御像はどこ?」祭壇に案内
すると喜びのあまり 皆が口々に「本当にサンタ・マリアさまだ!
御子イエスさまを抱いていらっしゃる」 (プティジャン神父)

このことはすぐ浦上に広まり 翌日から大勢が天主堂にやって来た
遠く五島列島からも訪れた
但しキリスト教は禁教下にあり 摘発や迫害・遠方への流配が続く 
最終 欧米歴訪中の岩倉具視使節団が 信教の自由を強く求められ
帰国し1873年 禁教令が259年振りに「禁教の高札撤去」!

2018年 大浦天主堂を含む「長崎・天草地方の潜伏キリシタン
関連遺産」がユネスコ世界文化遺産に登録されました

実は 登録の1年半前「消えたカトリック教会の献金3億円」事件が
文芸春秋によって暴露 教会を私物化する聖職者たちと副題が付いた
事件はウヤムヤにされ それに呼応するように 登録による観光客増
を見越し 300円の拝観料が 2015年に600円 2018年
以降1,000円と 3年で3,3倍にもなった

ガイドさんお勧めのプリンソフト600円 半分こしました

ホテルに戻り 今朝がた昼食用に購入した 大村寿司を食べました
稲佐山の夜景見学まで小休止です

観光バス(一人2千円)で頂上まで

すぐに真っ暗です

見えません 真っ黒なので3回編集機能で漂白しました


バスのガイドさんが 自分のスマホの光を妻のスマホに当て
それで撮影すると とてもきれいに撮れるんですね スゴイ!

まあこのバスガイドさんの話の面白いこと
どうも福山雅治の大ファンらしくて ジャパネット球場建設に反対だった
市民が 福山が広告塔になった途端 シーン やれ福山が被爆二世だとか
坂の途中でバスを止め この道を入ると福山雅治の実家があって 駅から
タクシーでここまで来て 玄関の前で写真を撮って帰るのが観光コースに
なっている云々・・・

<三日目 9月3日(日)晴れ>本日 大村の「実り」で両家顔合わせ
台風も来ず 晴れて良かった!


大村駅まで西九州新幹線

大村駅までバスで向かいます

大村は 妻のCA時代に 長崎空港からここまで宿泊・食事に来ていた
そうで 大村中央商店街が懐かしいと そこまで歩かされました
現在 商店街は ほとんどシャッターが下り 喫茶店を探すのさえ苦労

そうそう 大村の商店街から実りの店まで 妻がスマホで先導しました
何と 初めて目的地まで極めてスムースに行き着けました 驚きです!
あとはカット! 無事顔合わせができ 東京まで戻りました おしまい

おまけ 9月8日 TV「らんまん」を見ていた大阪の妻からのTEL
    寿恵子が渋谷に来て 鍋島の屋敷があったこと 書かないの?
    ボランティアガイドさんが大学時代 松濤に寮が有って 今も
    上京するたび松濤公園に行っています・・・と思い出しました

先ずは鍋島直正(第10代佐賀藩藩主)ずば抜けた先進性を持った名君
     江戸の佐賀藩邸に生まれた直正は 17歳で藩主になると逼迫した
  藩財政立て直しのため 粗衣粗食令を出し 自らも率先 藩役人の
  大幅なリストラ 借金の整理(8割を放棄させ残りを50年賦との
  踏み倒しにも近い力業) 磁器・茶・石炭などの産業育成を通して
  財政改革を行った

  教育にも力を入れ 藩校「弘道館」の拡充 洋学寮設置し 子息の
  成績によって父親の禄を決定する「文武課業法」を制定 医学寮を
  設置し 世襲制が当たり前だった医者の免許制度を 日本で初めて
  取り入れ 当時不治の病であった天然痘の根絶の為 種痘を自らの
  長男で試すことで その信頼性を世に示した
  (勉学なら佐賀藩と 岩倉具視は二人の子供を佐賀へ留学させた)

  長崎への外国船渡来を見て 国防の必要性を感じ 鉄製の大砲鋳造
  のための反射炉を築いたり 国産初の蒸気機関の開発など 幕末期
  佐賀藩の技術力は日本の最先端を走っていた

                 右は隈研吾さん製作の公園内トイレ
渋谷の鍋島松濤公園について
  江戸時代には紀州徳川家下屋敷があった地域 明治9年鍋島家に
  払い下げ(新政府側の圧力?)11代最後の佐賀藩主 鍋島直大
  広大な土地に狭山茶を移植し茶園を開き 士族授産(失業対策)の
  武士に運営を依頼し「松濤園」と命名した 茶の銘柄も「松濤」と
  され 東海道線開通で静岡茶が入るまで高級茶として人気があった

  関東大震災を契機に分譲し現在にいたる高級住宅地になっていった
  昭和7年に茶園廃止後 湧水地を中心に児童公園として整備された 
  同年東京市に寄贈され 昭和25年渋谷区に管轄が移った
  現公園は松濤2丁目で 東大駒場キャンパスの道路の反対側になる