隠岐・鳥取 太平記旅行モニターツアー3日間 後半

  
           後醍醐天皇の道(碧風館に掲示されていたもの)

隠岐を脱出しますが 追っ手の佐々木清高隠岐守護)が追います
何とか追っ手をかわしたが ただ帆掛け船では進路が定まりません
当初 隠岐から直下の島根半島を目指したものの 風にあおられて
大きく東に逸れ 鳥取県の名和湊(上陸地点伝説複数あり)に上陸


   「太平記」の舞台・潮風のみちコース(名和エリア)散策マップ
   スタートの御来屋(みくりや)伊勢神宮の御厨から拝借した名前

(前半に続いて)
太平記」は 後醍醐天皇が倒幕運動を開始した正中の変(1324)
 から足利義満の将軍職就任・南北朝統一(1367)まで約40年間
平家物語」と並ぶ日本を代表する軍記物 いささか北朝びいきです
太平記読みの太平記知らず」と言いますが ゴタゴタしていて どう
解釈すべきか難解 「後醍醐天皇は徳を欠いた人」とも書かれています

上のマップ①~⑫をガイドさん二名と共に歩きます

②お腰掛けの岩 脱出に成功してひとまずホッ 横に歌碑があります
 「忘れめや よるべも波のあら磯を御船の上に とめし心を」
 30年ほど前までは海中にありましたが 漁港の改修により海面が
 下がったため 現在では陸の上ですとガイドさんが説明をスタート

                  大山町(旧名和町)のマンホール
                  中心に名和氏の家紋帆掛け船あり
③元弘帝御着船所の碑 名和湊(現在の御来屋)に上陸時 しばらくの間
 天皇をかくまった家(塒ねぐらという姓を賜る)に対し 後に鳥取藩が
 賞してこの碑を建立(以前の碑は先が丸く 今は帆掛けを意識した形)

 歩いていて車以外誰にも会いません 以前 ある番組の撮影のロケでも
 人と会うシーンが撮れずに苦労したらしい・・・と二人目のガイドさん
 窓から顔を出した人を頼りに紹介してもらい 辿り着いたのが「塒家」 
 名字から名前の由来を聞き出しビックリ! 

住吉神社 摂津の国の官幣住吉大社の分霊を祀る 奉幣したらしい

 山陰本線 名和駅 背中に建つのが駅隣接の居酒屋 ごく稀に営業と
 当駅の乗降人数は 一日平均80人

⑤名和公園 桜の名所 日本海の向こうに隠岐の島が見えると皆さん
 近隣で生産の 真子瓦(しんじがわら)で統一された屋根が美しい


      ⑥名和神社鳥取県で最大の神社) 

 「別格官幣社名和神社」これは東郷平八郎 扁額は三条実美が揮毫した
 1876年 鳥取県名和長年の功績は 楠木氏に比肩するから県社を
 国幣社格にと申請 多くの推薦もあり3年後湊川神社の次順位に定めた
(参考:別格と付くのは 国家に功績のあった人をまつるの意味がある)

 明治16年参道に400本の桜が植えられ「桜のトンネル」として有名
 現在の社殿は 伊藤忠太指導 角南(すなみ)隆により昭和10年完成

 神社本殿の社紋は 名和氏家紋の帆掛け船(後醍醐天皇より下賜) 

 右は長谷川等伯筆の名和長年肖像画 長年の直垂に帆掛け船あり

   「太平記」の時代の大ファンである私の長年の疑問点 それは
   どうして南朝側の武将は 足利尊氏に次から次と敗れたのか?
   楠木正成新田義貞名和長年親子も 北畠顕家も・・・・・
   武将の人数差が大きかったのか 戦術の差か はたまた何が?
   ガイドさんにぶつけるも分からないそうで 本当に残念でした

 昼食はジビエ料理でした コロッケの肉はイノシシでした

①御来屋みくりや駅 添乗員さんに依頼して 予定外の当駅訪問が実現
 昭和35年に鳥取県で初めて鉄道が開通します この時の開通区間
 物資陸揚げの境港から 陸軍軍馬補充部が近い御来屋駅間でした 


  当時の駅舎がそのまま残る山陰最古の駅 
 (平成14年山陰鉄道100周年を記念して旧駅舎を改修しました)

 駅事務室の有効活用で農産物直売所に ただし農家の高齢化で
 置く人も減り赤字化 9月末で閉店 乗降客一日平均180人

 隣のホームまでひとっ走り 跨線橋を必死に往復したのに小さな写真
 しかも綺麗に写っていないと 妻のブツブツが聞こえます

 ポストも現役 一日一回の回収だそうです
 問題は 右の「みくりや」の看板です ここはなのに・・・

     WEBを検索していて判明 市場の市だったのです
     一週間 分からなかったのです スッキリしました!

⑦名和公屋敷跡 名和氏二代の屋敷跡 昼食後再スタートしました

⑧長綱寺 名和一族の菩提寺 後醍醐天皇 名和一族の位牌が祀ってある
 約680年前 長年の父行高の60歳を祝って建てた隠居所が始まりと

⑨名和公一族郎党の墓 200基ほどの一石彫の五輪塔
 長年が船上山で鎌倉幕府軍と戦った際の戦死者一族や
 館に残った女性や子供たちの墓とも言われている

 名和長年 室町時代には「足利氏に弓引いた一族」江戸時代になると
 地元の民によって こっそり祀られ 明治時代になると「勤王の英雄」
 「鳥取の英雄」に 明治19年正三位 昭和10年従一位に列せられる
 これは 家康・慶喜東郷平八郎と同格で あの乃木将軍より上である

⑩的石 弓の名手であった長年が 弓矢の稽古で的にした石

⑪氏殿(うじどの)神社 名和神社の旧社殿 ジャングルの中にあった
 江戸時代 初代鳥取藩主池田光仲公の命令で「氏殿権現」として祀る
 名和長年の顕彰文を見つけ 石碑にするよう命じたまま170年経過
 石鳥居は嘉永7年(1854年)
 当時の鳥取藩 藩主は池田慶徳慶喜の実兄)初代藩主が手をつけた
 石碑を(明治の廃藩置県で)最後となった藩主が完成させたのです

⑫三人五輪 五輪塔は5基 左から長年 長男 三男の首が埋められる
 周囲の畑には えぐみの少ない「大山ブロッコリー」が植わっていた

ここで終了 バスで大山寺門前の「ホテル大山しろがね」へ向かいます
本日のホテル客室は 添乗員さんのご配慮で洋室にしていただけました

時間は まだ15:30です 余裕があるので大山寺奥宮に行くことに
妻は疲れた様で寝て待っていますと

ルート上 奥宮まで15分と書いてあります これは楽勝と思いました
写真左は「和合の石」と言うそう 杉の木と石がしっかり和合している

大山寺本堂は 明日行くであろうからと 最初は奥宮から攻めることに
入ったはいいが砂利道が続きます 綺麗に削られた石段ならいざ知らず
自然石がころがっているのです(翌日添乗員さんから日本一長い砂利道
ですと伝えられました 事前に知っていたらチャレンジしなかった?)

途中ですれ違う人に聞きます「あとどのくらい?」「まだまだです」と
「暗くなるから気を付けて下さい」そう言われても どうしようもない

ようやく石段前に来ました 石段の方がはるかに歩きやすいのです
「後ろ向き門」という立て札がありますが何のことやら・・・(後述)

ビフォーアフターです 眼の前には 覆いをかぶった神社社殿が・・・
令和4年から7年までの修復工事に入っていました

真っ暗の中 拝殿に入りパチリ(奥の奥に撮影禁止とありましたが)

社殿を回り込んで お仮殿に出くわしますが社務所らしきものなし

工事中の社殿を見て回り 階段を下ります 見えるのが表門?
少しづつ暗くなってきて 急ぎます 石ころの砂利道でころばぬように
下ばかり見ながら下山です 砂利というより 石を並べただけ?

神社入口の像がライトアップされています
すぐ横に 志賀直哉「暗夜行路ゆかりの地」という文学碑があるはずで
往路では覚えていました 復路では疲れていて見落としてしまいました
小説の神様と言われた名文家 ですが好みではありません 暗過ぎます

大山寺本堂もライトアップされている?と期待しつつ 上ります

こちらは石段だけなので そう苦痛は感じませんでした
時間は17時過ぎ まだまだ真っ暗になりませんように

やはり本堂はしまっていました そうそう証拠写真が必要でしたね

周囲を見渡すと 奥宮に通じる道の標識があるではありませんか! 
そうなんです この本堂から近道が有り それで15分なのです!

鐘撞きは禁止の様です 
急いで下山 もう真っ暗になりました まだ17:30です


私が採ったコースは①から③⑥⑦⑧ ③へ戻り② そして③①
効率的なのは ①から③②④⑥⑦⑧ ③へ戻り①へだと思います
15:30に走れば本堂が閉まる16:00に間に合ったかも?

これ御幸参道本通りです ③から①へ坂道で足が疲れます
どうしてこんなにも 両方上るなんて無理したのでしょう
大山が平成28年4月に日本遺産認定 その2年後の平成30年には
「大山開山1,300年祭」が開かれた 是非挑戦をと思ったのです
大山の大本営(旧大山寺本社は奥宮)だからです

夕食です お造りは 境港の銀鮭と山陰沖の白烏賊 甘えび
焼き物は 大山豚の陶板焼き 御飯は 鳥取県産米「星空舞」
・・・お米は昨晩の方が断然美味しかった
今日のお酒は 日本酒吞み比べ三種セットにしました

<三日目 11月1日(水)晴れ>大山と琴浦町

レストランというか食堂 朝食は普通

大山寺には 昨日行っているのでホテルで待とうかと思いましたが
妻のことがチョッピリ心配 そしてご朱印をもらえたらと再出発!

大山寺は「地蔵信仰が育んだ日本最大の牛馬市」で有名と
明治時代には 年間一万頭以上の取引となりました 昭和初期の鉄道
発達で幕を閉じますが 地蔵信仰自体は日々の営みの中生きていると
右の写真は 昭和6年の市の様子と

いざ大山寺へという場所 左が昨日歩いた大神山神社奥宮への道
右が大山寺本堂への石段 ここでは神仏習合のように見えますが 
よく神仏分離廃仏毀釈)の歴史を生きながらえた?

前を見ても石段 後ろを振り返っても石段

本堂に到達しましたが またも閉まっています 9時からとのこと

ご朱印は 途中の社務所に置いてあるものを 300円の賽銭で入手済

鐘をつくふりをして終了 
牛の頭を撫でて認知症にならない様お願い 「宝牛」と呼ばれています

何の花か不明です 本堂の舞台は懸造り? いやコンクリートです

ホテルを9時前に出発し 後醍醐天皇決戦の地 船上山に向かいます

ここ 船上山を仰ぎ見る「船上山ダム」です 天気快晴雲一つ無し
船上山は 平安時代初期から山岳仏教が栄え 大山・三徳山と共に
伯耆三嶺」と呼ばれる修験道霊場であった

船上山 近づけば柱状節理がすごい 山頂は平坦で 守る側には有利
後醍醐天皇・名和一族連合軍側はわずか150人 大山寺の僧兵も応援
(大山寺別当であった信濃坊源盛は僧兵700余騎を従え 兄名和長年
の義挙を助けたと 大山寺記録にあり 源盛の墓が牛霊碑横にあった)

追っ手の佐々木清高はじめ幕府軍は2~3千人 圧倒的不利の中 山頂
から大きな石を落とします 住民たちがかき集めて献上した旗竿が大勢
いるように攪乱させます 地勢的に圧倒的に不利な幕府軍は敗退します
結局80日間守り通したと(準備に食料も担ぎ上げた 一斗六升です)

ここにはガイドさんのほか 琴浦町の観光局の方が複数見えていて
このモニターツアーでもって 会社が正式に ツアー取組み開始を
進めるよう 必死に願っているのが良く分かります

新歌舞伎「名和長年」なる 鳥取県のトリニュースが回覧されて
フムフムとその場では見ていました 幸田露伴原作そうなんだ~
くらいに見ていましたが このブログ作成にあたり 私が撮影を
しておいた記事の欄外に 演出石川耕士とあるではないですか!
学生時代に 同じ映画研究会に在籍していた後輩 歌舞伎界では
今話題の 有罪判決を受けた人物の付け人から始まり 現在では
超売れっ子脚本家として名を馳せているのが石川耕士君なのです
平成21年という相当前の新聞記事 奇遇だなと感じ入りました

この新歌舞伎 地歌舞伎(素人歌舞伎)の伝統があり 現在も
引き継がれていると 郷土の英雄「名和長年」が44年振りに
新・朝日座に堂々の復活と 当時は大賑わいであったようです

船上山ダムでは わずか10分程度のガイドに終わりましたが
私にとっては 大変収穫のある記憶に残る訪問地となりました

日本交通のジャンボタクシーが 道幅ギリギリに走り 琴浦町
海岸に作られた「波しぐれ三度笠」の石像が出迎えてくれました

9人乗りジャンボが 琴浦町の「塩谷定好記念写真館」に到着です
特別 期待していませんでしたが とても良い思い出が作れました

今年8月 倉敷市下津井の回船問屋(平成29年日本遺産認定)に
立寄り 北前船の話をじっくりと聞かせていただいたばかりであり
比較しながら お孫さんの話に夢中になった 今回隠岐の西ノ島で
知った北前船と焼火神社の話も 帰京後調べ直し感心したばかりで
今年は 北前船の当たり年 日本遺産もイイ クラブツーリズム
北前船寄港地旅行」なんていう企画は出来ないものでしょうか?

左:海水浴場小景 中:ホタルブクロ草 右:三徳山
写真はそれほど興味が湧きません

愛用のカメラと 塩谷氏の写真を紹介する雑誌
TV「ぶらぶら美術館」でよくゲストに来られる山下さんの本です

天井を反射板のように白く塗ったギャラリーで写真をどうぞ

固い椅子と坪庭のセンスがとても素敵です

入口から入った瞬間の吹き抜け天井の雰囲気に思わず引き込まれます
次いで 回船問屋だった生家の 登録有形文化財の数々を拝見します

 最初から 床の間が二つある部屋に驚かされます

何だか圧倒される贅沢の極みです 螺鈿を施した違い棚は必見です
左端の木「鉄刀木(たがやさんの木)」という銘木で作られている

お庭もトイレのマジョルカタイルもイイ 本当に築120年?

回船問屋時代の品を集めた部屋 北前船は「蛭子丸」という船名
そうそう お孫さんというのは写真の方 小さな子供ではないです

司馬遼太郎菜の花の沖」の主人公 高田屋嘉兵衛はここで修業を
積んで大出世したと 今年テレビで再放送 竹中直人が適役でした
出来得るならば ここでもう1時間ほど滞在したかった

神﨑神社 欧米人向け日本の観光地ガイドMに紹介されていました
(ここに来る前の塩谷定好写真記念館も同様紹介されていました) 
地元では荒神さんの愛称で親しまれる 水産海運・牛馬の守護神
本殿は鳥取藩のお抱え宮大工 小倉園三郎 拝殿は孫の平次郎作

拝殿には 天井に大きな龍が彫られ 3本の爪で幸せの玉(宝珠)を
つかんでいる姿が見られます 爪3本かあ・・・少々残念

宝珠の真下で一つだけ願い事を祈りましょう

本殿の彫刻を一周して見ましたが 全部彫っただけで 東照宮
参考にしたのでしたら 一部だけでも彩色作品にしてほしかった

彫刻作品としては 拝殿担当のお孫さんの作品に軍配!
左から神功皇后 亀に乗った浦島太郎 拝殿懸魚の「波と兎」等

昼食は 道の駅「ポート赤碕」すぐ横の「魚料理 海」
もさエビと海鮮のコラボ「鳴り石丼」食べてもたべても御飯に
到達しない こんな贅沢ができるなんて 近隣の人が羨ましい

いよいよ最後の訪問地 琴浦町「光の鏝絵(みつのこてえ)」
ANAの機内雑誌「翼の王国」546号でも紹介されました
そして 欧米人向け日本の観光地ガイドMでは☆一つ獲得です

鏝絵は全国で見ることができますが 一か所に集まっている密度では
琴浦が日本一 なまこ壁の蔵が密集する風景も珍しいですが 随所に
見られる縁起モチーフがユニーク 昭和30年頃から光地区に鏝絵が
作られ 現在は約30戸に見ることができます
上のマップに沿い 地元在住者のガイドさんに案内してもらえました

①吉田貞一 亀・波・・・波は火事除けのシンボル
②吉田勝重 巾着
③吉田貞一 鯉・波

④野口原貞雄 鯉・波・・・鯉の苦労の末の龍 立身出世の象徴
⑤野口原貞雄 巾着・・・・福をためる 災いから身を隠す
⑥野口原貞雄 打出の小槌

⑦吉田貞一 巾着・菊
⑧調査中  亀・波
⑨調査中  鶴・松

⑩吉田貞一 家紋
⑪調査中  木目
⑫吉田貞一 稲妻

⑬吉田貞一 亀・波・・・不老長寿の地としての蓬莱山の使い
⑭吉田貞一 座り蕪・・・株が上がるにかけて 評判が良くなる
⑮野口原貞雄 飛翔鶴 波・亀・巾着・小槌
         ・・・古来「鶴は千年」長寿を象徴する吉祥の鳥

⑯吉田勝重 巾着
⑰野口原貞雄 鶴・亀・波

この6枚は 12歳から左官職人に弟子入りをし多くの鏝絵を残した
吉田貞一の家 生家と分かるように色彩豊かな鏝絵を残してあります
鏝絵は「蔵飾り」とも呼ばれています 職人が創り上げた芸術品です

最後におまけです 家々の門の入口に一時停止のマークがありました
ガラス細工の装飾も綺麗でした 瓶を割って張り合わせたようです

この地域 昔は「三津」だったと「光(みつ)」と覚えてもらうまで
時間がかかります 地域的には漁業の町 港も近く三津が似合います

道路に出ました この道の奥に船上山がありますと
後醍醐天皇は馬に乗り 最後は おぶられ山に登られたそうです

米子空港には 鬼太郎とぬりかべが待っていました
復路は 米子空港17:40発ANA 羽田空港19:05着です

帰京後おさらいです
1,大山の「後ろ向き門」って何だろう?
  明治維新政府での薩長の下級階級の狂気の仕業 それが廃仏毀釈
  神仏分離令のもと 神道を国教とし仏教はそもそも外来の物だと
  決めつけ あらんかぎりの狼藉を働いた 日本の恥の歴史である

  ここ大山も1875年「大山寺号廃絶」となり 大山寺の本社は
  大神山神社の所有となって 本尊などは大日堂へ移されたのです
  奥宮には 新たに大国主命が祀られて 仏像は全て取り除かれた

   
                 本坊西楽院(さいらくいん)跡 
  問題の「後ろ向き門」は 元は大山寺の本坊・西楽院の表門です
  廃寺で奥宮へ神門として移築する際 表と裏をミス「逆門」とも
  呼ばれています 残念なのは この天下の悪法も1876年には
  下火に もう少し頑張ってほしかった

2,(添乗員さんの一言 大山寺本堂から見える弓ヶ浜 これは何と
  たたら製鉄からの排砂からできている エッ!です 調べました)
  米子から境港まで続く20kmの海岸 弓ヶ浜半島の成り立ちです

         日本最大の砂洲 半島は砂のみで形成されている どこから供給?
  砂の量も広さも鳥取砂丘を遥かに凌ぐ それ 本当なのだろうか?


   2022年8月放送の旅番組 境港・米子編では ゲストが
   水木しげるロードを歩き 弓ヶ浜の砂洲の秘密も解き明かし
   最後は皆生温泉にも行っていた 添乗員さん見ていたんです

  膨大な砂の多くは 半島の付け根に河口のある日野川から運ばれる
  上流部の中国山地や大山から崩れた砂 いや大半は たたら製鉄
  砂鉄を採るため 山を崩して鉄穴流しをした際の排砂(砂鉄は少し
  だけ 残りは川に流す)なのです その量は1億㎥とも言われます
  古代より 中国山地は日本を代表する鉄生産地で 江戸幕末期から
  明治初めに至っては このエリアで 日本の鉄の8割以上を賄って
  いたことが背景にあります(参考:大山開山1、300年祭講演)

3,欧米人向け日本の観光地ガイドMで 紹介されている今回のツアー
  中に訪問した先で ☆を獲得した先は・・・
  水木しげるロード・・・☆
  隠岐諸島 国賀海岸と摩天崖・・・いずれも☆☆
  大山・・・☆
  光の鏝絵・・・☆

  この選定をした編集者の言葉が素敵です
  「隠岐の慈しみ深い自然の風景です 野生の植物や 人の手の
  入らない切り立った崖 その類まれな自然の楽園を 整備された
  歩道から楽しむ開放感 非日常的な冒険を求めるフランス人を
  大いに喜ばせるでしょう」

  代表取締役社長の言葉もあります
  「自然と文化 豊かな山陰の各地の観光地がフランス人の視点で
  まとめられています このサイトの公開によって 多くの外国人
  観光客が山陰エリアを訪れ 点から線 地域から広域へと 足を
  延ばし 山陰を驚嘆と共に周遊していただくことを願っています」  

  追加:Mと並んでフランスで有名な A社の格付け旅行ガイドでは
     隠岐の島が☆☆☆(日本全国では20余り)を獲得した

4,私の意見
  このツアーを成功させるためには
  ①鳥取砂丘出雲大社・松江・石見銀山そして米子・境港まで
   来ている あの人に是非 隠岐の島にも出向いてもらいたい
   隠岐の島の島前カルデラ 地質学が大好物な あの人です 
   絶対にOKされるはず・・・
  ②テレビでの「太平記 総集編」を是非リバイバル
   島根県鳥取県の両県で声を上げれば 実現するのでは?
   
  ③欧米人向け日本の観光地ガイドMを 広く見てもらうように
   クラブツーリズムの広宣担当に頑張ってもらう事も重要です 


   琴浦町快挙

   人口別に7グループ(1万人未満~20万人以上)に分けた
   その中で 人口1万人以上2万人未満のまち総合第一位です

   ・大山と日本海の両方に接し 山と海の多彩な魅力が楽しめる
   ・若い人たちがチャレンジしやすい環境があり 街の人も応援
   ・さまざまな分野のサークル活動が盛んで官民一体で移住者を
    支援
   因みに第二位は長野県飯山市 第三位は高知県四万十町でした

  ④費用面でいえば 15万9千円は 少々高過ぎる気がします
   他社催行の「島の恵みを味わう 隠岐諸島3日間」と比べて
   勝てる要素が少ない 対抗する琴浦町知名度が相当低い!
   と思っていたところ 上の雑誌記事発見 頑張れるかも??
   注:「鏝絵ってどう描くの?」と検索するとユーチューブで
     実演光景が流れます その動画を活用してPRするのも
     いいのでは?
  ⑤ガイドさんは 発声のしっかりした若い女性がイイ・・・
   何なら歴史好きのフェロースタッフさんを猛勉強させては?
   二日目と三日目のおじいさんベテランでしょうがノーグッド
   (私が元気でしたら 標準語で説明が可能ですが残念です) 

   あと 参考までに シニアには洋室を そして洋式トイレの
   有無も 各観光先で要注意です
                          終了です