1972年の夏⑦再びフランスに入りスイスへ

8月17日(木)ずーっと車中生活? 夕食40ペセタ(ビールとパン)
旅日記に挟まれていた列車の時刻検討が2案あったので紹介してみたいと
思います
<第一案>時刻表とにらめっこして いろいろ検討している中でグラナダ
バルセロナまで列車で13時間 8月17日 早朝8時頃到着した後で
バルセロナを夜まで観光後 19:36バルセロナ発ナルボンヌ着 翌日
1:26着~1:41発~リヨンに7時前に頃着

f:id:HATTYAN0234:20200609152808j:plain<第二案>
8月17日 8:05バルセロナ発ナルボンヌまで行きカルカッソンヌ
立ち寄る 地中海に面したナルボンヌ~内陸部のトゥールーズまで行き 
カルカッソンヌへ戻り観光したあと ナルボンヌ~リヨン行という時間
つぶしまでをも検討している
(当時の時刻表があればいいのだが 捨ててしまっているので検証不可で
す 参考としてブログを書いている現在だとどうか?で調べると グラナ
ダ~バルセロナは在来線で11時間半 バルセロナ~リヨンは在来線で8
時間の計19時間半です)

いずれにしても グラナダ~リヨンまで鈍行でも24時間で行けるのに 
実際には36時間も費やしている 12時間分をどう使ったか はたまた
各駅停車 かつ各駅での連結が異常に悪くて 列車内で余分の12時間を
耐え忍んだかは不明です 私もS君も全く思い出せずにいるのです 
当然 バルセロナカルカッソンヌの写真は1枚も残っていないのです 
8月17日の朝食 昼食の支払いメモさえありません 全て空白なのです!

8月18日(金)ようやくスペインからの長旅後 早朝フランス第二の都
会であるリヨン駅に降り立った そぼ降る雨の中 リヨンの公園を歩くと
落ち葉がやけに多い 秋がもうやって来たかなという感じだった フラン
スパンをかじりながらも パリよりフランスらしいリヨンの街並みを散策
ローヌ川を隔てた向こう岸には 古びた教会が1つ2つと見えるロマンチ
ックな朝焼けだった

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ジュネーブに着いた 明るい太陽とレマン湖の噴水 ただそれだけで素
通りです この日はベルンホテルGlookeに宿泊(このホテル名で
検索するとバックパッカーズホテルグロッケでトリップアドバーザーの
1位人気 当時と同一かどうかは不詳)

8月19日(土)ベルンの朝市観光後インターラーケン~ルツェルン
小雨と濃霧のためユングフラウヨッホ登山はあきらめ ルツェルンに行く

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 左:インターラーケン駅にはユングフラウ・ヨッホ山頂の様子がTV
   画面に出る
 右:ルツェルンでのカペル橋 やはり天気悪し スイス観光に雨は似合
   いません

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(幸運にも天気回復し)
車中からの景色は抜群!!左窓には山々に抱かれて湖が 右窓には広々と
した緑の牧場 牛の戯れ 可愛らしい煙突付きの小家 止まる駅といった
らこれまた可愛い 鮮やかな花が飾られていて一日中眺めていても決して
飽くことを知らぬスイス

当時のことで後日までずーっと記憶していた感覚 それは カメラを構え
たらどこでシャッターを押しても360度が絵葉書になるというものです 
それこそがスイスなのです

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スイスを舞台にした映画って何かあったかなあ? どうしても思い浮かば
ないので邦画から 1966年加山雄三主演「アルプスの若大将」でお茶
を濁しておきます
いや実は スイスに対する情報を あまりにも勉強不足だったので 実際
現地ではどこに行くべきか迷ったのでは? 訪問地を見ても スイスの
真髄をはずしているなあと思うからです 1974年になれば 高畑勲
の「アルプスの少女ハイジ」も始まり スイスの知識も少しは習得できた
かも?  

ちょっと脇道にそれて
ハイジのとてもやさしいおじいちゃんですが 眼光がいやに鋭いと思いま
せんか? 実は おじいちゃんは「スイス傭兵」出身なのです 「スイス
傭兵?」説明します
①「ヨーロッパ最強」と言われたスイスの傭兵(15世紀~18世紀に活
 躍した)始まりは14世紀 スイス原初同盟がハプスブルク家の軍隊を
 破って独立に成功し スイス人による軍隊の強さを広く知らしめた 
 そして1470年代 勇猛で知られたブルゴーニュ公国のシャルル突進
 公軍を破り スイス傭兵の強さの評価が固まる

②ヨーロッパ全体で引く手あまたの人気
 スイス傭兵は 州政府単位の契約で貸し出され そのためスイス兵同士
 の戦いも生まれ 他国からは非難も込めて「血の輸出」とも呼ばれたが
 小国と言えど「強い」という評判は定着 おいそれとスイスを侵略でき
 なくなった

③1792年 フランス革命時 テュルイリー宮殿に殺到する民衆約2万
 人に対し950人のスイス傭兵が 王家の防衛にあたり(フランス近衛
 兵は事前に解散済)全滅した この悲劇をルツェルンの「嘆きのライオ
 ン」が現在に伝えているのです 背中に折れた矢がささったライオンは
 スイス傭兵を ライオンがかばっている盾はルイ16世とその家族を表
 しています(下の写真参照)

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④ナポレオン軍がロシアの「冬将軍」に敗れ 敗走に敗走を重ね ドニエ
 プル川に差し掛かった時 スイス傭兵部隊は殿軍(しんがり)を命じら
 れてほとんど全滅 おかげでフランス軍の一部がフランスへ帰ることが
 できた・・・・

⑤今もバチカンを守るスイスの傭兵たち

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近代になり 各国で国民兵を使うようになり傭兵の需要は減って 
1874年には スイス憲法で傭兵の輸出を禁止した
その中で唯一 バチカン市国だけが1505年から500年以上雇い続け
ています ミケランジェロがデザインしたとも言われる青と黄 オレンジ
の縦じまの軍服です(超イケメンぞろいでカッコイイ! 目の前をウロウ
ロしても 微動だにしません) 

⑥今も「精強」とされるスイス軍
永世中立国」ではあるが 軍隊を保持しているスイス 軍は職業軍人
徴兵による民間人で構成されています なぜ徴兵制?理由の一つが 徴兵
制を止め 職業軍人だけになった場合 周辺の国から「NATO]への
加盟を迫られ NATO軍として海外派兵にも参加しなくてなならない 
それは絶対に阻止したいということで「対外戦争はしたくないので徴兵制
度を維持した(国民投票の実施結果)」のです
日本では「集団的自衛権」が多数の賛成で可決されました どうなる?

スイス連邦の国旗について
そもそもの国旗の成り立ちは 1200年 スイスを支配していた神聖
ローマ帝国が 赤い地に白い十字架で 皇帝の気高さと殉教したキリスト
教徒の血を表わした
1798年スイスに攻め込んだフランスが新しい三色旗(緑赤黄の横縞)
を作った 
1840年 スイスの軍人たちが赤い地に白い十字架の旗に戻した

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元に戻して

スイスの街路では 夜になると各店のウィンドウに灯がともり 通りを歩
く恋人達(非常に羨ましかった~)は店内を覗きこんで楽しんでいます 
店のシャッターは朝まで閉まらないのです
バスに乗る場合 乗車券を自動販売機で購入してから乗る 下車するとき
調べるかと思っていたが調べない 日本のワンマンカーとは違う 人間を
信用しているの?
いや違います ある日突然検札官が乗りこみ 所持していないと高額の罰
金を科す

この日はルツェルンの「LE MAZOC」というホテルに宿泊
(現在不明)

f:id:HATTYAN0234:20200501150231j:plain8月20日(日)8:30起床 晴 ルツェルンでは勾配世界一ピラトス
山に登る 往路はケーブルカーで 雪割草が綺麗だった 頂上は全面雪で
視界はゼロでした(下の写真は奇跡的に視界良好であった日の写真引用)

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スカッと晴れるのは何年に1回だとか よってアルプスは全然見えません

山を下りる復路ではゴンドラ・リフトでゆっくりと 教会のミサの鐘が心
地よい 次いでチューリッヒに行く チューリッヒ湖では国旗を背にして
湖上遊覧を楽しむ

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4時半だというのに店は全部閉まっていた 日曜日ではあるものの 駅前
ぐらいは開けていてくれればいいのに 今晩もまた食事抜きで ローマ行
き夜行に乗車する チューリッヒからだと 相当な距離ですが 時刻表と
ニラメッコして「夜に出て朝到着できるのはどこ?」で決めます 
ミラノ~ボローニャフィレンツェ経由です

追記:相棒S君のスイスについての印象
スイスではどこに行こうか決めていなかった?との問いに「記憶が定かで
はない」と スイスの印象は宿泊したホテルが清潔で感じが良かったこと
ピラトス山に登るケーブルカーからの車窓が「アルプスの少女ハイジ」だ
ったこと 山の上が雪で寒かったこと チューリッヒ湖での湖上遊覧 
スイスは清潔な国だと強く感じたと

毎日の使ったお金(スイスフラン)について記しておく 
1CHF=79.46円
・8/18 7:00起床 パン1.9F 荷預け0.6F アイス0.5F 
    ビスケット1.5F パイ缶1.25F バター0.6F 
    地図1.3F(S君0.5F) パン0.5F 宿紹介料0.5F 
    宿代22F 市電0.4F
    (さすが物価高のスイス ホテル素泊まり1,750円は高い)
・8/19 8:30起床 市電04F 荷預け0.6F ビスケット1.4F
    コーヒー1.8F スーパー2.95F(ハム パン ジャム 
    バナナ オレンジ)宿紹介料1.25F 夕食9.9F
・8/20 8:30起床 宿代16F 荷預け0.6F バス1F 
    ピラトス山22F コーヒー1.5F (チョンボ0.5F) 
    パン0.5F タバコ1.7F

ここでも兼高かおるさんの名言を紹介します
若い人は安い旅をしてはいけない
 若い時に使う時間というのは 自分を育てるための時間
 自分を高めるための旅をしたいものです
  学生でこの時代海外旅行を実現できたことで 自分を高め得たと思う
 なるべく多く周遊しようと食事を抜いたり車中泊の連続で無理した?

旅に出ると細胞が活性化する
 行って 見て 出会って 感じたい
 まるでドラキュラのように 見るもの 聞くもの すべてから吸い取っ
 て
細胞を活性化させたい
 旅行中 できるだけ多くの人と接触する機会を作り できるだけ会話し
 できるだけ見聞きしたつもりですが・・・若い女の子に限っていない?
 

 

 

 

 

 

 


   

 

 

 

 

 

 

1972年の夏⑥ユーレイルパスdeスペイン

8月11日(金)パリからマドリッドへの夜行出発で ユーレイルパスを
使用開始
  注:ユーレイルパスの裏面にはバルセロナ駅の8月11日の消印が!
    ということは パリからの経路では バルセロナ駅を経由して
    マドリッドに向かったということです

早速車内泊です カナダからの二人の中国人の女の子と話し合うチャンス
が持てた トランプでナポレオン(中国語でユークーと言うそう)をした
が 結果コテンパンに負けた さすがに相手二人は英語がうま過ぎた
(こちらが下手過ぎたのです)車中のパン代2.2F ジュース1瓶1.1F
(・・・・これが夕食?)

<スペインでの行動足跡>
 8月12日  マドリッド市内~トレド旧市街
        駅で中国人二人にサヨナラの挨拶せずで少し心残り
        アルバイト先のS・Hさんのお兄さんが市内にいる
        というのでTELするも不在でした 残念でした~

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 8月13日  マドリッド市内~プラド美術館~闘牛見物
 8月14日  コルドバのメスキータ
 8月15日  地中海マラガで水泳
 8月16日  グラナダアルハンブラ宮殿 そして夜行列車に乗車

 8月17日  18日早朝にかけフランスのリヨンに着くまで車内生活
        旅行中一番の空白がこの車内での記憶 相棒S君に質問
        してみたが「列車から見た風景が結構殺風景で 昼夜の
        寒暖の差が大きく長く列車に乗っていた「移動時間」と

 以下 各観光名所の寸評が日記に残されている(パリ市内と同形式で)
・壊れかけた街が大好き(当時はそういう風に表現していたんだなあ)で
 も暑い!トレドには歴史がそのまま残存している エル・グレコの面影
 がフッと漂う街角に スペインの匂いをかぎ取ることができたと
 (何を気取っているのでしょう) 

参考:8世紀のトレド イベリア半島は約600年のローマ帝国支配の中
   道路網が完備され どんな山奥にも橋がかけられ またキリスト教
   も浸透していった
   その後ローマは衰退し 西ゴート王国支配下となり最初の発展期
   を迎えることに
   8世紀の初期にはイスラム教徒によって支配権を奪われるが 当時
   はキリスト教 ユダヤ教 イスラム教は共存していた
   キリスト教による軍事力 イスラム教徒の農耕・灌漑・建築・工芸
   ユダヤ教徒の科学・医学・国際的な金融感覚が一体となったトレド
   の文化水準は 当時の欧州でもずば抜けていた
f:id:HATTYAN0234:20200430132500j:plain 先ずは セルバンテスの像の前に建つドン・キホーテと従者サンチョ・
パンサ像 スペイン広場での有名な待ち合わせ場所になっているとのこと

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アルバムを見ていて分かったのは トレドで「サント・トメ教会」に入場
していたんだあということ(37年後に再訪したとき入場できなかったと
悔やんだが・・)

f:id:HATTYAN0234:20200525162942j:plainエル・グレコの傑作「オルガス伯爵の埋葬」壁にはめ込まれた大きな絵で
上下二部構成 天界(魂の昇天)と地上(肉体の埋葬)を描いている 
撮影禁止で大塚国際美術館の陶板画からの転写 エル・グレコ自身と彼の
息子がこちらを見つめている

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 METRO アトーチャ駅 「世界の名駅」の一つです 落葉の押し花は 
意味不明です

プラド美術館にはゴヤの名作「裸のマヤ」の原画がある・・・・・・・
 まあすごい 世界三大美術館にある絵を原画と表現することにビックリ

プラド美術館で会った大垣から来ていたご夫婦に 車に乗せていただき
 闘牛場へ 闘牛は少し残酷だ この日だけで 7頭もの牛が殺された 
 けれども闘牛士は恰好いい マタドールは やはりものすごい人気で 
 場内の拍手が鳴りやまなかった
 ハンカチが振られ 座布団が投げられる スペイン人の血のたぎりなの
 でしょう 同じ国技でいえば 日本の大相撲で横綱が負けて座布団が飛
 ぶのとは違うかな?

f:id:HATTYAN0234:20200601115244j:plainはるか上の方からの見物でした 日本人も多数いるなか下方に ルーブル
で一緒だった女の子がいた 何かの縁がと声をかけたかったが 出口近く
で はぐれてしまい残念!

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マタドールとは「牛に止めを刺す主役の闘牛士」のこと
肩甲骨の間わずか5㎝の急所に剣を突き刺す このとき剣の位置がズレて
牛が吐血したり 何度も突き刺すことは「闘牛美学」に反します 牛を苦
しめず一瞬に止めを刺すことが見事とされ拍手喝采となるのです「真実の
瞬間」と言われています

スペインを舞台にした映画と言うと ヘミングウェイ原作の1943年版
(日本では戦後1952年)「誰がために鐘は鳴る」ですが 主演のイン
グリッド・ヴァーグマンにうっとりしている間にエンドマークが 中身は
残念の一言です この後に回るコルドバグラナダこそは「ムーア人から
の国土回復運動(レコンキスタ)」と呼ばれる歴史上の大事件の表舞台で
あり 舞台に関しての歴史映画はあったかな?
それで思い出される映画こそ1961年「エルシド」です ベン・ハー
次いでのチャールトン・ヘストンの独壇場 超スペクタクル大作なのです 
祖国の大英雄シッドは「死して馬上の人となり ここから伝説が始まるの
です」と締めてエンドマーク 体に震えが起きます 感動です 

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エルシド(本名ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール)のサイン 

余談ですが 後日スペイン再訪時に ツアーのガイドさんに頼んでおいて 
ようやくエルシドの銅像に巡り合えました 残念ながらツアーの他の皆さ
んエルシド?誰?

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セビリアの道路中央分離帯に建つエルシド像です

コルドバでは 何と言ってもメスキータ イスラム教とキリスト教の合
 作建物でとても特異な雰囲気だった(当時写した写真が見つからずイン
 ターネット転写)

f:id:HATTYAN0234:20210205173044j:plainアーチの数約850本 まるで合わせ鏡のように 同じ形が奥へ続きます

見事! 実は キリスト教の大聖堂に増改修する際に 一部のアーチが取
り除かれたのです 本来もっともっと アーチの森は深かったのだとか 
(参考:現在一部分を復元中だとか)

f:id:HATTYAN0234:20210205173213j:plain次にイスラム・キリスト融合の礼拝堂を 両者は向き合っているのです

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左がイスラム教徒の祈りの場「ミフラーブ」メッカの方向に向けて祭壇が
右はキリスト教徒のマヨール礼拝堂 明るいイメージです
注:メスキータとはスペイン語でモスクの意 下はコルドバの市内

f:id:HATTYAN0234:20200430133221j:plain・マラガは避暑地なので宿泊するところが無く困っていたところ 親切な
 米国人が自分らの部屋を貸してくれた それで彼らは?というと 屋上
 で寝ているのです 翌日はこの米国人たちと海岸でいろんな話をした 
 なりは大きくても心根はすごく優しい 卒業後は教師になるそうです
  
 フランスのシャルトルといい 今回の男女4人といい アメリカ人は男
 女2組で海外旅行する 羨ましい! 今回はキャンディス・バーゲン
 の美女がいた
 
 地中海の水は井戸水のように冷たく 無理して入るも5分ともたない

f:id:HATTYAN0234:20200430131534j:plain 左から私 相棒S君 ハワイ島ヒロ出身マーロン・ライスさん 明治大
学の2人 明大の二人とはコルドバ~マラガ~グラナダと丸二日間同行し
たが全く印象残らず

アルハンブラ宮殿 どこからか ♪アルハンブラの思い出♪ が聞こえて
 来そうと言いたいが 少々イメージダウン 皆ワンダフルと言うが 
 私はワンダフル以上を期待していたのだ 私をスペインへと導いたこの
 宮殿の魅力をこの日実感できなかった 「世界の旅」で兼高さんがあま
 りにも魅力的に紹介し過ぎたせいか?

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 ここで兼高さんの名言:世界の旅を長年にわたって多くの方たちが楽し
んで観て
くださったのは本当に嬉しいことです でもテレビの旅番組は 
あくまでもプロ
ローグ その先の物語をつくるのは自分自身なのです

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上の3枚は「コマレスの塔と天人花の中庭」
水 光 花は無味乾燥な砂漠の生活に やすらぎを与える三要素であり 
それらをふんだんに保つために 中庭はアラブ建築に必須の存在であった

参考:歴史上の舞台として重要と既述しました 11世紀からのレコンキ
   スタ運動 実は最後は1492年のアルハンブラ宮殿陥落で終了し
   たのです 陥落までに数年要しましたが それだけ守備に強い難攻
   不落のお城でもあったわけです
   グラナダの征服者イサベル女王は と同時にコロンブスを援助して
   新大陸発見から スペインによる世界制覇の大航海時代の幕を開け
   ました
   イスラム教徒を追放したあと モスクは接収され教会となるが 
   アラブ様式は破壊されることなく キリスト教文化に接ぎ木された
   これはイスラム教徒が首都と定め大繁栄したコルドバのメスキータ
   を見ても十分理解できるのではないでしょうか

有名なライオンさんと綺麗な庭園
12のライオンが噴水となっている中庭は「ハーレム」で王様の快楽生活
の営み場 噴水は水時計 1時には1頭が 2時には2頭が 12時には
一斉に水を吐き出す ネバタ山脈と中庭の標高差により サイフォンの原
理を応用し雪解け水を運びます

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参考:ハーレムに付き物の浴場(バーニョ)は アラビア人にとり深い意
   味を持つ「精神を浄化する聖なる場所」と考え 入浴前には口 手
   足の順に丹念に浄めた 口は良からぬことを話し 手は良からぬこ
   とを行い 足は人を罪を犯す場所へ導く この浄めの儀式こそは
   コーランの格言に忠実を尽くすイスラム教徒の務めである

最後に湯蒸気で身体を浄めたアラブ王は もはや厳しい戒律から解放され
全裸の美女たちと 2階では目をつぶされ 宦官にされた楽士達が音楽を
奏でる

アルハンブラで スペインの美しいセニョリータ2人と知り合うが 
 あまりの美しさに上気し言葉が出て来ない 第二外国語スペイン語
 2年間(優)の成績を取ったのは何だったんだろう(女王と同じの)
 イサベルという名の美女だった

参考:スペイン語ってあるの?と言われると 厳密に言うと存在しない
   スペインはEU域内の多くの国と同じ多言語国家である 使われて
   いるのはカスティーリャ語 カタルーニャ語 バレンシア語 バス
   ク語他などである
   現行憲法では「カスティーリャ語は国家の公用スペイン語である 
   全ての国民は この言語を知る義務と 使う権利を有する その他
   のスペイン諸語も 自治州内で 自治憲章の規定で公用語となる」
   どうしてカスティーリャ語? それは既述のレコンキスタ運動の過
   程の中で カスティーリャ王国が中心となりグラナダでの勝利から
   統一を実現したため

スペイン王国の国旗について
国章はスペインの4つの古い王国 カスティーリャ レオン アラゴン 
ナバラの紋章からできている(ここにカタルーニャは入っていません)
北東部のカタルーニャ州バルセロナ中心)は独立心旺盛で 長い間自分
達の国をつくる運動をしている 人々は「アスタラーダ(星付きの旗)」
を窓からつるし 運動の成功を願っている

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左が国旗 右はカタルーニャ州の旗
f:id:HATTYAN0234:20200531174128j:plain毎日の使ったお金(西ペセタ)について記しておく 1ESP=4.75円
・8/12 ホテル代100P 手数料12.5P TEL代2P タクシー代
    25P 果実26P 昼食36P(ビールとホットドッグ)サン
    トトメ教会
5P グレコの家25P 壁飾り100P ズタ袋
    180P 地下鉄4P コーラ2本15P シャワー代23P 
    夕食125P   マドリッド1泊
・8/13 地下鉄2回10P 荷預け10P プラド美術館50P パンフ
    10P アイス3個12P 昼食50P 帽子60P 闘牛40
    P パン18P タバコ13P 牛乳1リットル18P 
    ジュース25P コーヒー8P

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・8/14 荷預け10P×2 マッチ入れ45P 昼15P(コーヒーと
    パン) 皮水筒300P 果実20P マッチ箱10P 
    体重計1P(55㎏) ルマワイン9P  バス代12P×2と
    6P 夕食代40P マラガ1泊
・8/15 宿泊代100P 朝食25P 昼80P バス25P ジュース
    7P アイス12P 宿代50P 夕食12P   グラナダ1泊
    (この日宿泊代が2回あるのは どちらか米国人に渡したから)
・8/16 荷預け10P 大伽藍15P 絵葉書4P アルハンブラ宮殿
    50P 土産200P 朝食20P パン13P 牛乳23P 
    果実12P 
・8/17 夕食40P(ビールとパン)                    車中泊2日
    「車中泊2日」これが不気味 空白の2日間なのです 旅日記に
    「お尻が痛くなるし退屈だし おなかは空くし 汽車は遅いし 
    駅には長く止まるしイライラし通し」と(16日夜グラナダを発
    ち 18日早朝リヨンに着くまで) 謎です

f:id:HATTYAN0234:20200702154925j:plain参考までにスペイン鉄道路線地図を出しておきます(2019年のもの)
地中海沿岸に沿ってバルセロナまで行ったのかと思い込んでいましたが 
線路を結ベません マドリッド~サラゴザ~バルセロナと大回りしたので
しょうか・・・・

高峰秀子の旅日記「ヨーロッパ二人三脚」新潮社
1958年 彼女が34歳のとき ベネチア映画祭出席のあと 夫の松山
善三と二人で7か月欧州を旅した際のもの 彼女の死後に日記が発見され
発刊された
パリ~マドリッド~イタリアそしてドイツと自由気ままな旅で 内容は本
音満載 ここにマドリッド編から抜粋してみます  

パリから夜行列車でマドリッドへ 起きるとあたりの風景は ガラリと変
わっていて 見渡す限りの青々とした土地に なだらかな起伏があり 
ポツンポツンと白壁の背の高い家が建っている 日がカッと強く照ってい
て 壁が光って美しい

・人々はほとんど髪も眼も黒く 何となく親しみがある
 スペインは朝10時から昼が朝食 2時~4時昼食 夜食は10時から
 だそうでフランスに輪をかけた遅さである

プラド美術館に行く グレコが沢山あり 初めて良さを知った
 有名なゴヤの二人美女「裸のマハ」と「着衣のマハ」も見る

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっと脇道にそれて
マドリッドは今やヨーロッパ有数の「美女の産地」 そしてスペイン美女
の代名詞ともなったペネロペ・クルスの功績は大きい おそらくスペイン
史上初めてハリウッドでも抜きんでた評価を得るトップ女優となった人だ
ろう エキゾチックとはまさにこの人 一度見たら忘れられない個性的な
彫の深さ 黒々とした大きな瞳 豊満な肉体 彼女こそが「裸のマハ」を
思わせる マハとは 特定の女性を指すのではなく スペイン語で「小粋
な女」という意味で ペネロペ・クルスは典型的なマハであろう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元に戻って
・ナイトクラブで本物のフラメンコを見る アラエッサッサの安来節のよ
 うだ 女も男も実にエネルギッシュな踊りで 汗まみれになり髪を振り
 乱して踊る 男のは闘牛の形を取り入れたものだそうで 女も裾の長い
 服で踊る時は足さばきやキマリの見えが実に日本風である しかし 
 日本の地唄舞いの難しさにはとても及ばない 矢張りある程度肉もつき
 年もとった女の方が感じを出すものである

・(再び夜行列車でフランスへ移動した際の感想)
 ジェラルミンのような汽車で揺れること 揺れること
 (国境越えでフランスに踏み入れ)
 全てが寛大で (税関も)ユーモアがあり面白い フランスの方が汽車
 も良いし揺れないのでぐっすり寝た 洗面器にオシッコ(大女優がこん
 なことする?)  
 (まあこんなことをメモに残すのも自分だけの旅日記だからでしょう)

 

 

 

 

 

 

 

1972年の夏⑤パリ市内・郊外5泊6日

8月6日(日)エールフランス航空でパリに到着 快晴で旅の前途は有望
エッフェル塔の見えるホテルを確保 バス6フラン 夕食5.65フラン

f:id:HATTYAN0234:20200429183736j:plainSte Hotel ALMA 32 Rue  de IExposition メトロ エコール・ミリテール  

<パリでの行動足跡> 毎朝8:20~9時までには起床していたと記載
8月7日  エッフェル塔~シェルリー宮~凱旋門シャンゼリゼ大通り
      ~コンコルド広場~マドレーヌ寺院~オペラ座 ~ルーブル
      美術館 
8月8日  モンパルナス墓地~リュクサンブール公園カルチェラタン
      ~ソルボンヌ大学に 小雨 出会った日本人女性と少し会話
8月9日  郊外へ遠出 シャルトル大聖堂ヴェルサイユ宮殿及び庭園
8月10日 サンジェルマンデプレ教会~ソルボンヌ大学ノートルダム
      大聖堂~最高裁判所ルーブル美術館~モンマルトルの丘~
      夜のエッフェル塔上からの眺めは抜群(写真が無い!)
8月11日 イエナ近代美術館 Very Goodと(午後マドリッド行き)

以下 各観光名所の寸評が日記に残されている
凱旋門の上からの眺め抜群 とそこへ同じ大学でF銀行内定のY君が現
 われた 東京にいたら絶対に会うことなどないのに まさか異国のそれ
 もここで会うとはと 両者ビックリ仰天でした
 (因みに このY君とは銀行員時代 一度も顔を合わさず)

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シャンゼリゼ通りは やはり昼間より夜間が似合う 日本人がうようよ
 いるのを夜の闇が覆いつくしてくれるようだ

f:id:HATTYAN0234:20200429193002j:plainルーブル美術館の広大さには ただただ驚いたの一言 モナリザや 
 ミレーの晩鐘 落穂拾いetc. ミケランジェロダヴィンチの作品も
 ルーブル美術館にあってこそ一層光るんだろうなあ・・・・
追記:相棒S君から ルーブルは「一回では足りないので二回行ったと
   思う」と

f:id:HATTYAN0234:20200429184746j:plainルーブルではフランス語を勉強しに来ている女の子と出会ったー名前は聞
けず 実はフランス語を話すことができるので 館内を案内してもらった
一回目に巡ったときに見逃したモナリザや ミレー作品も彼女の案内で見
ることができた
(彼女とはマドリッドで再会? 同じ闘牛見物に来ていた 何かの縁?)
(注:オルセーは1986年設立でミレー作品はその時オルセーへ移管)

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オペラ座前で そしてルーブル美術館 下駄を手に持っていますが・・・
この日は下駄をはき 9:30~18時まで市内見物「疲れたよ~」

ヴェルサイユ宮殿自体はつまらぬが 庭園の広さや素晴らしさに感服
 
f:id:HATTYAN0234:20200603162506j:plain参考:当時の「憂鬱な結婚生活」
   結婚は家柄を守るためのもので 正妻が産んだ子にしか家を継がせ
   ない そこで貴族や金持ちの娘は 処女性守護の為 思春期には修
   道院に入れられて14~5歳になるとしかるべき相当年上の相手へ
   嫁いだ 彼女の最大の仕事が男児を産むことであった かくして夫
   婦の間に愛が存在する確率は恐ろしく低くなり終いには 妻をある
   いは夫を真剣に愛する者は無粋だと笑われた

   フランスにおいて恋愛という歓びは 後継ぎを産んで責任を果たし
   た後 別の相手と得るものとのコンセンサスができたこと これは
   他の国々と違った
   男の浮気が許されるのは万国共通として フランスでは女の浮気も
   見て見ぬふりをされた 夫として嫉妬などしては 野暮の極みとい
   うことになる

   という訳で ヴェルサイユの女主人公マリー・アントワネットも 
   宮殿から離れたプチ・トリアノンを建て たとえ王様でも彼女の許
   可なくは入れぬ塀を作り スウェーデンの貴公子とプライベートな
   時間を楽しんだようです 
    f:id:HATTYAN0234:20200429185540j:plain上の写真 宮殿から見て一番奥 大トリアノン近くの大水路
(全長1670m)では7月~8月にはボートに乗ることが
できるし 冬場にはスケートリンクになります

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シャルトル大聖堂では アメリカ人4人組と出会う 一人可愛い女の子
 がいて 当時流行っていた映画 1970年「いちご白書」に出ている
 米女優のキム・ダービーに似ていると言ったら とても喜んでいた
 (のかどうか?)

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シャルトル大聖堂にて(お気に入りは左から二人目)
旅日記から:ここに来る列車の同じコンパートメントで乗り合わせました

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ノートルダム大聖堂内のステンドグラスは シャルトル大聖堂と並ぶ立
 派さ! ♪パリの空の下セーヌは流れる♪ ノートルダムでは屋上まで
 上りました  

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・モンマルトルの丘はパリの代表格 芸術の街 画家の卵らが大勢集まっ
 ていて そのエネルギーが燃え盛る一画と言えよう カリカチュアやら
 中国人の墨絵やら 切り抜き 似顔絵など多様であった 丘の上からは
 パリ中心部がほぼ見渡せた

・イエナの近代美術館には 私の一番大好きな画家 モディリアーニの絵
 がある モディリアーニを好きになったのは 1958年公開の映画
 「モンパルナスの灯」がきっかけで 主演のジェラール・フィリップ
 公開翌年に36歳で死亡 奇しくも 演じたモディリアーニ本人が亡く
 なった年齢と同じであったのです


パリを舞台にした映画は数多くあるが 私自身 パリに思いを寄せるきっ
かけの作品は1933年「巴里祭」や 1942年「カサブランカ」あた
りでしょうか
オードリー・ヘプバーンもパリに縁が深くて 1954年「麗しのサブリ
ナ」や 1963年「シャレード」が好きです シャレードでの山場の 
パリ切手市は今も続いている 本当にシャンゼリゼが似合う女優でした 
ジバンシーの服や高級なパリを観客に紹介しています 映画界の「パリ観
光大使」と言っていいくらいですね 
F・トリフォーのロマンチックな作品 1971年「恋のエチュード」は
忘れません
史実の映画化では 1957年「翼よ!あれが巴里の灯だ」と1966年
パリは燃えているか」でしょう 1964年「大列車作戦」もいい
..........................................................................................................................
ちょっと旅日記の時代から脇道にそれて
現在まで広げて パリの魅力を紹介している映画と言えば ①2011年
ミッドナイト・イン・パリ」に尽きます <パリ・マジック>の真髄を
見せてくれます 1920年代ベル・エポック(古き良き時代)のパリへ
タイムトリップしてくれます ラストシーンのアレクサンドル三世橋夜景
には パリが大好きなアメリカ人の恋心が反映されています そうです!
真夜中のパリには 魔法がかかる」のですーウッディ・アレン監督作品
②2001年「アメリ」ですね モンマルトルを舞台にパリジャンの日常
を描いた現在のパリのおとぎ話 ラストは何か「ローマの休日」のように
バイクで恋人二人パリを駆け抜けます モンマルトルのカフェ 果実店前
ではガイドさんが必ず「ここです!」と言って映画のロケ地を紹介します
③1992年「ポンヌフの恋人」大好きなジュリエット・ビノシュが出て
いるだけでいい 主演者側に次々災難が発生 ポンヌフ橋を再現してまで
夜の花火シーンを仕上げた 製作裏話に感動させられる大好きな映画です
...........................................................................................................................
元に戻して
5泊も宿泊したホテルは朝食付きで 出していただいたクロワッサンや
バゲットが もうこれ以上考えられないほどおいしくて大感激であった
最後にはママさんにお願いして記念写真をとった パリ最大の思い出の
一つですね

f:id:HATTYAN0234:20200429191436j:plain結局はどこのパン屋さんで買ってもおいしかった しかも日本円換算で
40円です パリでは食材等の大部分をスーパーでの買い出しで済ませた
でも白ワインだけは まるでリンゴ酒のように酸っぱくて それゆえ以降
長い間白ワイン拒否症になった

毎日の使ったお金(仏フラン)につき記しておく 1FRF=60.25円
・8/7  凱旋門屋上3F 絵葉書2F ビール2F スーパー11F
    (ワイン6F レモンJ パン ジャム コンビーフ ポテトチ
    ップ ハム 鮭缶 ソーセージ 計11Fをスーパーで購入) 
    ルーブル美術館3F 絵葉書2F
・8/8  地下鉄5回分4.5F ビール2.3F フィルム7.6F 
    中華1.6F 紅茶2.3F レモンJ2.35F 果実3.4F 
    切手9.2F   

f:id:HATTYAN0234:20200429193650j:plain
・8/9  切符(モンパルナス~シャルトル間)13F 絵葉書1.8F
    レース編み6F ローソク2F コップ2個8F エメラルド
    2F 切符(シャルトル~ヴェルサイユ間)11F ボート3F
    切符(ヴェルサイユ~パリ間)2F パン0.65F りんご
    2.9F(復路のパリまでの切符代が2Fというのは 何故?
    キセルしたのか?)
・8/10 バッジ4.5F ノートルダム屋上3F 絵4枚16F 絵葉書
    2F ルーブル美術館3F 時刻表15F バッジ6F パン
    0.65F(クック社の時刻表「オリンピック特集号」購入 
    S君から4.85F)
・8/11 5泊分ホテル代84.75F 近代美術館3F
 
注:パリでの5泊6日の間 最初にスーパーに入り11フラン分買い出し
  をしてから あとはパンを買い足しただけで昼食と夕食はおしまい?
  「美食の街パリ」でレストランらしき場所に入らず何していたの?

羽田を出発して約2週間経過 バンコク~カイロ~ロンドン~パリと宿泊
して来て 各国ホテルの代金がどのくらいだったのか検証します ここま
では 以降多用する車中泊は無く 学生旅行としては超破格の ベッドで
の睡眠がとれていたのです!
  7/29~7/31  3泊 バンコク1泊素泊まり料金 1,500円
  8/1    1泊 バンコク1泊素泊まり料金 1,200円
  8/2    1泊 機内
  8/3    1泊 カイロホテルは無料
  8/4~8/5   2泊 ロンドン1泊朝食付料金 1,200円
  8/6~8/10 5泊 パリ  1泊朝食付料金 1,020円

圧倒的に満足度が高いのはパリ泊で 
高過ぎる?と思われるのがバンコク泊となる

パリでは 毎夜ホテル(一番上の階)に帰ってから 知人宛に絵葉書を書
いていた
相棒のS君は 同じ大学の彼女あてに せっせと出していた 相当に真剣
だった? こちらは 特定の彼女がいないため 九州一周の際高千穂峡
知り合った女性4人に順次違う国から絵葉書を出していた
特筆事項としては S君はこの彼女と 私はパリから出し帰国後旅日記を
も送った女性と結婚したことです 何か運命的なものを感じますね

フランス共和国の国旗について
15世紀 イギリスと戦ったオルレアンの少女ジャンヌ・ダルクは 小さ
な金色のユリが描かれた白い国旗を使っていた ユリの紋章は「フルール
・ド・リス」と呼ばれ 白と金色はフランスの王家を表わすようになった
1700年代後半 王家はJ・ダルクの軍旗のデザインを簡単にした国旗
を使った

f:id:HATTYAN0234:20200627180931j:plain次に 現在の三色旗に移行するのですが・・・・・・・・・・・・
パリの街のシンボルと仏革命のシンボルの合体まで時間が必要であった

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f:id:HATTYAN0234:20200626175102j:plain参考:大好きな女優ー高峰秀子の旅日記より
   一つは彼女が34歳のときの「ヨーロッパ二人三脚」 
   新婚時代のメモ帖から出版されたもの
   もう一つは 彼女が60歳を過ぎての「旅は道づれ 雪月花」 
   夫婦共作 での出版
   メモで夫の松山善三に対し「善三又はZ」と記載していたが 
   さすが結婚生活30年ともなると「夫・ドッコイ」との表現 
   何と味のあるほほえましい呼称だなあ思う センスありです

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彼女の本音は 二人でいることが一番大事で 別に観光地や美術・絵画に
は興味を示さない よってパリに長期滞在中も 買い物とかおいしい食事
の描写に終始している(34歳の新婚時代)
(女優業の全盛期に一度来て 二度目となる)パリに関する表現を選んで
みると「相変わらず美しく相変わらず適当に冷たく適当に親切なパリ
松山もすっかり気に入ったようでと 夫君が気に入ってくれたことを喜ん
でいる 「こうしてパリでぼんやりしている事の何とすばらしい事か 
帰りたくない
」 決して高級ホテルには宿泊していない でもおいしい食
事には目がない様子です

「亭主を家につなぎとめておくには エサより他にはない」という結論を
出して 涙ぐましくも台所に 頑張って夫好みの料理のレパートリーを増
やすことに刻苦勉励した 日本人は働くために食べ フランス人は食べる
為に働く・・・・・・
彼女の料理上手は特に有名である 夫の為であるのは明白である 
60歳にもなると 多分夫の影響もあったのだろうが 小道具・古美術に
興味を示し 東京丸の内で古道具屋を4年間開業している 仕入れ値以下
で売って損を出しながらも生き生きと商売(相手に頭を下げること)を楽
しんでいたようです
彼女の凄絶な半生を考えると 幸せな結婚生活で良かったとファンとして
嬉しい 彼女の代表作の「二十四の瞳」「浮雲」は邦画史上で永遠の名作
だと思っている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おまけ 「高峰秀子 旅の流儀」より
1 宿に余計なものはいらない
  ホテルに泊まるのに「由緒ある」とか「最古」とかいう肩書は不要
  寝心地のよいベッドと清潔なシーツとタオル 洗面所にお湯が出て
  エアコンが完全ならば 他のものは一切必要ない
2 その土地 そこに暮らす人々に敬意を払う
3 どこへ行っても 人間を見るのが好き
4 絶景?名所?それがどうした
  私は夕日を見たって「フン 赤いや」と思うだけだし 海がありゃ
  「海ああ青いね」と思うだけ
  観光嫌い 風景オンチの高峰さん 何故 世界各国を飛び回り旅を愛
  したの?御主人が行きたいと言うところに 一緒に行くことこそが彼
  女の喜びなのです

実は 彼女が27歳 大女優として人気絶頂のとき パリ学生街の古いア
パートに半年間逃亡した 5歳から映画人生一筋 20年女優を続けて疲
れ切っていたのだ
人生の総てにシラケていた結果が 旅に対する回答で 松山善三はまだい
なかった パリの生活は全くの孤独 言葉もできず 何も興味がわかない
観光なんて・・・
ただ 彼女の心を救ったのは教会だった サン・シャペル教会 ノートル
ダム大聖堂 サクレクール寺院を何度も訪れていた

f:id:HATTYAN0234:20210213180555j:plain我々二人は 知らないことこは言え 同じ敷地内の最高裁判所に行って
ここには立ち寄らなかったのでした 

f:id:HATTYAN0234:20210213180810j:plain

サクレクール寺院は何度行っても素晴らしい

結婚してから 二人で海外に行くとき(ご主人が行きたいと言えば 絶対
に彼女のスケジュールをやりくりさせ)必ず飛行機のファーストクラスを
予約して出かけた
当然シートは寝やすいようにフラットになるはずだ それでも二人とも
寝なかった 仮にも自宅でない場所 それも他人様の目につく公共の乗り
物の中で寝る 寝顔を晒すというのは 本来どう考えても 美しい様では
ない 高峰は迂闊な人ではない いつどこにいても 最高の「同じ」を保
ち続けた人だった・・・・・・・・・・・

f:id:HATTYAN0234:20200608172709j:plain
f:id:HATTYAN0234:20200608172732j:plain

おまけ もう一冊「高峰秀子のレシピ」
高峰秀子が 愛する夫のために作り続けた 57のレシピをビジュアル化
した本で 料理自体も相当だけれども 私が感心したのは その料理を盛
り付ける器の見事さ さすが銀座で古美術商を営んだだけあって 単純な
入れ物がとてもセンスを感じさせる一品なのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1972年の夏④ロンドン市内見物2泊3日

8月5日(土)何時に起きた?「朝食タイム」に間に合わず朝食抜き!
(宿泊代に朝食含む 翌朝は食べたがコメントも無く 極めて印象薄い)
ロンドン市内は 観光案内所で入手の 市内地図を見ながら周遊している
 
本日は 地下鉄5回分55ペンス 歩き回って喉が渇いたせいか アイス
2回で20P パンフ2冊購入で30P 1GBPポンド=100ペンス
=738円

本日の観光コースは バッキンガム宮殿の衛兵交代見物~トラファルガー
広場~ナショナルギャラリー~ウェストミンスター寺院~国会議事堂~
ロンドン塔巡り(20P)及びジュエル・ハウス(10P)~ベーカー・
ストリート(注)散策
注:ベーカー街のあるマリルボン駅は 宿泊のパディントン駅の次の駅近
  にある ベーカー・ストリートの221b番地は名探偵シャーロック
  ・ホームズが親友ワトソン博士と共に拠点とした場所である これ 
  小説の中の住所であって実際には85番地までしかなかった でも
  この住所に今でもファンが手紙を出すそうで どう処理されている?

f:id:HATTYAN0234:20200701131822j:plainロンドンの住所は 番地とストリートから出来ており 宿泊ホテルの位置
を探しました 32CRAVANHILL GARDENSは 上の→で
示しています

ロンドンを舞台にした映画と言えば 007シリーズが有名で一番好きな
作品は何と言っても1964年「ロシアより愛をこめて」で ダニエラ・
ビアンキの色気が最高 古くは一番好きな女優の一人ヴィヴィアン・リー
が主演の1940年(日本公開は戦後の1949年)「哀愁」ですね 
1953年邦画の「君の名は」はこの翻案 ウォータールー橋を数寄屋橋
にして大ヒットしました

1971年の「小さな恋のメロディ」や 近未来のロンドンを描いた同年
作品の「時計仕掛けのオレンジ」でも市内が写り込んでいるが 1952
年「マイフェア・レディ」のコヴェント・ガーデンでの花売り娘シーン 
この映画出演料が何と100万ドル クレオパトラのE・テーラーと並ん
だ大女優ヘップバーンでした

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確か衛兵交代式の様子は 門にしがみつき一番前列で見た?記憶がある
毎回11:30に到着して 40分間の交代式(Changing of the Guard)
では 衛兵の制服姿が超カッコイイ 黒いモコモコのベアスキンの長帽子
に真っ赤な制服(夏でも涼しいロンドンならではの制服)で 一流モデル
さんのようですね

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f:id:HATTYAN0234:20200622105010j:plain

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考:後日になりますが ローマのクイリナーレ宮の広場でも衛兵交代式
   を見ました 一言で言うと「スーパーマリオ」がゲームでジャンプ
   する姿に見えました まるで漫画で威厳というものが感じられない
   衛兵が子供のような身長で 周囲で見守る観光客の皆さんも 思わ
   ず苦笑の連続であった印象が残っています それからデンマーク
   コペンハーゲンで 遭遇したアマリエンボー城での衛兵交代風景も
   質素で寂しいものでした
そうですね イケメン度で言うと バチカンそれとチェコプラハ城にい
る衛兵が甲乙つけがたいのではないでしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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上の写真は「ホース・ガーズ(Horse Guards)」 近衛騎兵隊の司令部
てっぺんに房飾りがついた古風な金色ヘルメットに真っ赤な制服姿で馬に
またがった門衛は これぞイギリス!といういでたち 騎兵隊は この赤
い軍服のライフ・ガーズと青い軍服のブルース&ロイヤルの2種類からな
り 40人を超えるという 近衛兵の交代式もあるが 人垣も鉄柵もなく
間近に見学できる
(BEWARE  HORSES MAY KICK OR BITE  THANK YOUの注意書き)

分かりますか 写真撮影は8月初旬です 寒いのでセーターを着こんでい
ます ロンドンの緯度は樺太北部と同じなんです さすがに下駄ははいて
いませんね

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ロンドン塔です 当時はスンナリと入場できましたが 昨年ロンドンに
再訪した際の情報では 先ず道が混んでいて駐車場も見つからない 見学
に要する時間が3~4時間となる観光名所で どのツアー(ロンドンを
1日で回る場合)でも立ち寄らない(立ち寄れない)とのことでした 
学生時代に入っておいてよかった
ジュエルハウスは王家の宝石がすごい? けれども記憶に残っていません

ロンドン塔といえばヘンリー8世で 1970年の映画「1000日の
アン」で見た後訪れており アン・ブーリンに扮したジュヌヴィエーヴ・
ビュジョルドの強く美しい姿は50年経った現在でも ありありと瞼に浮
かびます アンの娘のエリザベスもここに幽閉されのちに異母姉メアリー
(ブラディー・メアリー)そしてスコットランドのメアリー・スチュア
ートと壮絶な争いを引き起こします 
何と言ってもリチャード・バートンの演じるヘンリー8世がピッタリで
ビックリ 英国史で一番劇的な舞台がロンドン塔で 入った瞬間歴史の
重みで身震いします

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上は国会議事堂(正式名称はウェストミンスター宮殿ビッグ・ベン

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左はウエストミンスター寺院から見た国会議事堂(議事堂の周囲を歩いた
様です)右は国会議事堂の上院側に立つイギリス国王リチャード1世像 
と言っても良く分からぬ方も「リチャード獅子心王」と言えば聞いたこと
があるはず 12世紀第三回十字軍の英雄で「中世騎士道の鑑」と称され
た人物でした(かく言う私もこの像が誰かを調べるのに 相当時間を使い
「ロンドン市内に立つ銅像」から多数の写真を検索し ようやく辿り着く

トラファルガー広場と ナショナルギャラリーにも行ったとの記載があり
ますが確かにネルソン提督像は写していました 一方ナショナルギャラリ
ーについては全く写真無し 大学生当時絵画については ほとんど興味が
なかったのか それとも館内撮影禁止だった?
トラファルガー広場とネルソンと並ぶと 1941年「美女ありき」が思
い浮かびます ネルソン提督とハミルトン婦人の不倫の恋ですが 演じた
ローレンス・オリヴィエヴィヴィアン・リー両人も不倫の恋で結婚した
映画=現実なのでした
ヴィヴィアン・リーの眼力はすごく 彼女にかかれば男性は一発でダウン

おまけですが 「英国感動紀行10日間」という私自身のブログに詳しく
掲載してありますので 絵画鑑賞は そちらをご参照ください

f:id:HATTYAN0234:20200429153507j:plain夜は 大学の先輩の女性と中華料理を食べに出かけました パブにも少し
入って英国独特の雰囲気を味わえました 中華75P アイスミルク?
10P 大学の先輩って 何の目的でここに滞在しているのか?記録が無
いので不明です
何歳上なのかも不詳ですが とても知的で魅力的な女性I・Hさんでした
追記:相棒S君から連絡 彼女は文学部英文学専攻で英語研修で来ている

8月6日(日)ロンドンの学生ハウスでは バルセロナからのスペイン人
の二人組と同室(4人部屋)でした 何故か住所・氏名をもらいましたが
興味無しです
この日も地下鉄を利用して 3回分で35P(10P×2 15P)
「The City」を見物とあるが この日は日曜 イギリス紳士もお休みです

f:id:HATTYAN0234:20200702152455j:plainこの写真がどこか? 写り込んでいる騎馬像の下部にウェリントンと読め
たのでシティ・オブ・ロンドンの旧王立取引所の前だと探し当てました 
ウェリントン公爵は ワーテルローの戦いでナポレオンに勝利した軍人で
あり且つ政治家です

セントポールズ大聖堂の写真がありました ここはW.チャーチル元首相
の葬儀やチャールズ皇太子と元ダイアナ皇妃の結婚式 サッチャー首相の
葬儀でも有名

f:id:HATTYAN0234:20200622110140j:plain
ハイドパーク内でアイスクリーム25P「高すぎる!」と旅日記で怒り 

f:id:HATTYAN0234:20200624171904j:plain
f:id:HATTYAN0234:20200624171925j:plain

左 ハイドパークを散歩 ここは ロンドンに8つ存在する王立公園の一
つです ヘンリー8世が1536年に ウエストミンスター寺院から買い
上げた土地です 1851年 世界初の万博がここで開催されました
右 地下鉄(Tube)の駅のプラットホームです
ロンドン1863年1月 世界最初の地下鉄がパディントン駅からスター
トした ただし石炭燃料で走る蒸気機関車だったため 車内や駅はすすけ
放題 不評だった
駅構内の感じ 丸いですね これはトンネルを掘りぬく面積を最小限にお
さえようと試みた結果 土を円形にくり抜くことになった 電車の顔も丸
い タイヤの中のチューブのようにどこで切っても丸い そこでTubeと
呼ばれるようになる 注:米語だとSubway そのSubwayを英語では地下
道(米語ではUnderground)
 
教会の日曜ミサにも参列し その荘厳さに感嘆とありますが 歴史の重み
ですね ロンドンは大好きな都市だ 2泊3日じゃあダメだ 最低1週間
ぐらいは この 静寂の中に浸ってみたいと記載あり(何をそんなに気に
入ったかが分からない)

もしかしたら この当時 日本人は「エコノミック・アニマル」と呼ばれ
働き蜂のようにせわしなく動き回っていたため その対比からの実感かも
知れませんね

イギリスのユニオン・ジャック

f:id:HATTYAN0234:20200626180533j:plain一見裏返しても同じデザインに見えますが 実は裏表があるのです 
専門用語で言うと左下(ロウワー・ホイスト)の白地部分の幅の違いです

f:id:HATTYAN0234:20200627174443j:plain1606年 イングランドスコットランドを統一したジェームズ1世は
2枚の旗を組み合わせて「ユニオン・フラッグ(連合の旗)」と名付けま
した「聖パトリックのX型十字」はアイルランドの古い旗 1801年
アイルランドがイギリスの一部になると ユニオン・フラッグに赤いX型
十字が加えられた
(注:ウェールズの旗はユニオン・フラッグに取り入れられていません)

次は花の都パリ ちゃんとスケジュールは組まれているのです
身支度をしていざ出発! その途端に 空港行きバスが今出たばかりと
判明する 仕方がなくタクシーを利用 その支払いの際ポンドの持ち合わ
せでは不足 ドルでも払うが 倍額ふんだくられる・・・と日記にはあり
請求は「3ポンド50P」で支払は「2ポンドと5ドルと10P」随分と
高い? 円換算で言うと 請求額が2,583円で支払額が3,055円
止むを得ずです 当時あったかは不明ですが チップ15%をオンすれば
支払額は妥当でしょう
参考:実は イギリスは1971年(訪問前年)十進法通貨制を導入した
   ばかり それまでは十二進法と二十進法を使用 例示しますと・・
   1ポンド=20シリング 1シリング=12ペンス 何か中途半端
   ですね 1972年当時は 1ポンド=100ペンス スッキリ!

相手はロンドンタクシーです 「ブラックキャブ」といえば超難関合格の
運転手です 相手が観光客の日本人だからと言ってだますようなことは考
えられません

f:id:HATTYAN0234:20200701132852j:plain上のオースチン・FX4は 1960~80年代にロンドン・タクシーの
代名詞的存在であった

ロンドンでは終日雨か曇りが続いたが さすがに霧は見られませんでした
霧の都」と言われるのは 二つの海流がドーバー海峡で正面衝突のため
グレートブリテン島の西側を 暖流のメキシコ湾流が一年中北上している 
一方で北東からは寒流の北極海流が流れ込んでいる ぶつかり合った結果
暖かく湿った空気は冷たい寒流に冷やされて 大量の霧へと変化していく

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1972年の夏③バンコクーカイロ~ロンドン

8月2日(水)22:20 エジプト航空でカイロへ
機内の隣席に西独 の「桜の女王」が座る いろいろ話ができて光栄の至り
彼女は日本のことを良くご存じで 日本中を旅行されていました

8月3日(木)01:10ボンベイ着で1時間乗り継ぎ休憩(コーラ20
セント)隣席にはボンベイから乗ってきたインドのご婦人が座るが これ
が大変な災難・・・体臭か香水か分からないが 眼から鼻から涙が出ます 
まるで玉ねぎみたいな感じ エチケットで我慢できる限界を超えています 
露骨に嫌な顔をして 毛布を頭からかぶって横を向いていたら どこかの
違う席に移動した様子 入れ替わりにドイツのご婦人が座る エレガント
な女性でうっとり 深夜なので話は控え目に ではお休みなさい

05:15 カイロに到着 タラップを降りると機関銃がこっちを狙って
いる さすがエジプトだあ というか最近 中東・アフリカはパレスチナ
ゲリラに神経質になっている(これが後刻9月5日のオリンピック事件に
突き進む予兆でした)
参考:カイロ空港 エジプト航空ハブ空港(別途カイロ地図参照)
   カイロ市街地中心部から北東に15kmタクシーで20分の距離 

ホテルへ行く途中景色を見ていると 1963年「アラビアのロレンス
が頭をよぎる 広大な砂漠が続き何とも素晴らしいが さすがに34°C
は暑いねえ!
ところで 砂漠と言えば「サハラ砂漠」 大きさはアメリカ合衆国とほぼ
同じ面積 アフリカ大陸の3分の1を占め 年々南下拡大中(5千年前比
千キロ南下した) タクシー代は50ピアストル レモンジュース10P

エジプトが舞台の映画と言えば ロレンスや1963年「クレオパトラ
が有名ですが 旅行との関係から言えば1956年「80日間世界一周」
でしょうね トーマス・クック社が1872年に世界初の「世界一周団体
旅行」を敢行した
経路はリバプールから船でニューヨーク~鉄道でサンフランシスコ~船で
横浜へ 東京を観光後 船で大阪・長崎・上海へ そしてシンガポール
マドラスカルカッタ 上陸後鉄道でボンベイへ 船で紅海~スエズ運河
~地中海 最後 鉄道でリバプールに戻るもので 計222日間を要した 
実はこの旅行期間中に 作家ジュール・ベルヌが「80日間世界一周」を
出版し それを基にし映画化された

気球・鉄道・蒸気船を利用し 80日間で一周できるか?という内容で大
ヒット 映画音楽 ♪Around the World♪も有名 「兼高かおる世界の旅
のテーマ音楽に採用され ここにトーマス・クックと兼高かおるが結びつ
くことになりました 

ホテルはコンチネンタル(これって今のインターコンチネンタル?) 
エジプト航空の関係から1泊分は航空料金に含まれている様子で 我々が
手配したホテルではない というかエアコン無しで暑かった記憶しかない
エジプトへ入国するには 必ずビザが必要だが 「24時間以内のトラン
ジット」であれば不要 そのため短い滞在時間からスケジュールはタイト
になってしまった
f:id:HATTYAN0234:20200428174348j:plainチェックイン後 ホテルガイドにギゼーのピラミッドとスフィンクス見物
を依頼 タクシー代は1.5ポンド(1EGPポンド=100ピアストル
=693.1円)

f:id:HATTYAN0234:20200630171229j:plain砂漠の真ん中にあると思っていたが ホテル並びの街路から一本道で案外 
楽に行ける場所にあり 拍子抜けでガッカリ ピラミッド入場料は50P
(注:現在調べるとピラミッドまで市の中心部から車で45~60分と)

f:id:HATTYAN0234:20200429125516j:plainラクダにまたがって これが25P ヨッタンコヨッタンコと揺れ乍ら進
みます 写真を見ると また下駄をはいている 下駄でピラミッドに入っ
たのは私ぐらいだろう カランコロンと歩きながら いやあ本心では登り
にくいなあ~と疲れた

f:id:HATTYAN0234:20200428174502j:plainさらにもう2枚あったので追加で掲載しておきます
人面獣身で有名なスフィンクスは アラビア語で「畏怖の父」といい 
ファラオや神を守護する聖獣とされている でも鼻を削られ イギリスに
長い立派な髭を持って行かれ(大英博物館に保管)愛嬌のあるブルドッグ
に見えると思うのは私だけか 

f:id:HATTYAN0234:20200428174638j:plain
f:id:HATTYAN0234:20200428174706j:plain

カイロの町は何だか物騒だ 人々の目つきが鋭くて いざ町中に入ると
昼間でも心臓がバクバクする感じだ 異国情緒と言えば聞こえはいいが
さっさとホテルへ

f:id:HATTYAN0234:20200601114624j:plain
昼食でオマールワイン70P チップ7P(きつい味でまずい) ビール
30P ホテル内の様子や食事内容について 一切記載なく不明 記憶も
全くありません
追記:相棒S君からカイロの印象は?との質問に回答 
   印象はあまりない 無料のホテルはそれなりでしたが 部屋も暑く
   何か治安が悪い感じ 博物館に行こうとしたが休館で行けなかった
   ホテル内でも 食事の印象が全く残っていないのが不思議と・・・

参考:1980年代~1990年にかけ 日本のJICAが エジプトの
   農業を大々的に支援 従来からの米をジャポニカ米を基に品種改良
   して その後「ギザヒカリ」に育て上げた 今や日本の技術援助に
   よる灌漑水利で整備された田園風景(田植えも見られる)が広がっ
   ているそう かつては食料輸入国だったエジプトですが 現在では
   米の輸出国となっているので きっと親日国になっているでしょう

エジプト・アラブ共和国の国旗について
1952年 共和制を目指すエジプトの革命家たちが王政を倒しイギリス
の支配を終わらせた その際掲げられた赤白黒の三色旗が 「アラブ解放の
旗」として知られるようになった 共和制を理想とする他アラブの国々も
国旗に三色を取り入れた
エジプト国旗の中央にある国章は「サラディンの鷲」と呼ばれ カイロの
城壁に刻まれていた鷲の絵が元 1950年代アラブらしさの印として使
われるようになる

f:id:HATTYAN0234:20200627171800j:plain・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 エジプトを離れるに際し どうしても世界遺産アブシンベル神殿について
書き留めておきたいー
世界遺産運動のきっかけは エジプト政府が 「アスワン・ハイダム」の
建設計画を発表した1952年にさかのぼる 灌漑施設によって食糧生産
をアップ 電力を10倍にアップさせることができるが ナイル河岸に建
古代エジプト文明遺跡「アブシンベル神殿」がダムの底に沈んでしまう

f:id:HATTYAN0234:20210211164137j:plain

移動前の神殿

エジプト政府は国際社会に対して<経済発展のためのダム建設と古代遺跡
の救済>両方を願い出た しかも当時 エジプト政府は ダム建設の支援
ソ連に求め アメリカと関係悪化 スエズ運河の国有化宣言で 利権を
巡ってフランスと軍事衝突まで起こしていた

ここで二人の関係者が立ち上がる 一人はルーブル美術館のエジプト研究
科の女性 時の大統領ドゴールに直談判 一人はエジプトの初代文化大臣
で 世界中でツタンカーメン展をひっさげキャンペーンを展開し 後日米
国のケネディが支援表明した 最終世界46ヶ国からの援助を取り付けた

f:id:HATTYAN0234:20210211164319j:plain
アスワンハイダムを上空から撮影したもの

f:id:HATTYAN0234:20210211164425j:plain

何とも無残 顔面の前半分がはがされてしまった

一枚岩の神殿を切断解体して移築 電動カッターやチェンソーは使えない
刃の薄いのこぎりで何人もが並んでノコを挽く それにラムセス像の頭は
50t クレーンで持ち上げられる限界が30t 苦渋の思いで顔の前面
を切り取った・・・・・・
1968年に 4年間の救済工事が完了した そして2月22日を迎える
神殿の奥のラムセス2世像に朝日が差し込んだ 文化が政治に勝ち世界遺
産条約に結びついた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

8月4日(金)予定では8時 UAA(ユナイテッドアラブエアライン)
でロンドンまで出発 途中ローマそしてジュネーブで休憩タイムがあるも
14:15着のはずが・・・・・・
遅れないようホテル早朝出発 タクシー50ピアストル(到着時と同額)
しかし空港で出国手続きに手間取り(出航税1ポンド)何と出発まであと
1分だ!大慌てで飛行機に乗ろうとするが どこへ行けばいいかさっぱり
分からずに あちこちで聞いてもはっきりしない もうダメかと思ったら
「飛行機は3時間ほど遅延」の案内 助かった~と息をつく 我々の横を
関西弁丸出しの団体が通り過ぎます こんなときは団体ツアーが羨ましい
苦労が無いもんね~
注:相棒S君から情報 空港のエジプト航空カウンター(窓口)が直前
  までオープンしていなくて焦った そうか それで右往左往させられ
  たのかと今さら合点する コーラ16ピアストル 絵葉書1ドル購入

機内では横か後ろかどちらかに居合わせた8歳の英国の女の子に折り鶴を
折ってプレゼント 「もっともっと」の声に結局14羽も折ってあげた 
彼女の名前はコリーン 可愛いんだあ~ 覗き込むスチュワーデスさんに
も1羽折ってあげました

お名前は?と尋ねたら 小さな紙に自分の名前を書き恥じらい乍ら渡して
くれた 大事に持ち帰ったのです(下のサインを参照) お土産以上に
記念になりました
えっ スチュワーデスさんではないですよ コリーンちゃんのサインです
お母さんとお兄さんと三人で旅行のようです

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f:id:HATTYAN0234:20200429125924j:plain

上の搭乗切符のUAAって? エジプトとシリアの連合航空「ユナイテッ
ド・アラブ航空」のこと 1961年にシリアと分裂後 1971年には
エジプト航空」に改称されたのにまだ使われているのは? おおらかさ
か?何なのでしょうか? 

f:id:HATTYAN0234:20200428182508j:plain機内から見えるアルプス連峰(スイスとオーストリアの国境あたりか?)

ロンドンに到着 苦労なのがホテル探し 案内所で紹介を受けていざ出発
参考:ヒースロー空港からホテルまでどう行ったかの推理
   当日の支払いメモを見て (バス50P タクシー21P)判明し
   たのが市内近郊のパディントン駅まで ①空港バス「ヒースロー・
   エクスプレス」で15分(直行) ②「ヒースロー・コネクト」で
   25分(各駅停車)と2通りあり 終点からタクシー利用でホテル
   へというコースではないか? ようやくバス代50タクシー代21
   って何でバスの方が高い 料金逆転?の謎が解明できた

ケント3箱1ドル バス50ペンス 宿紹介料20ペンス タクシー21
ペンス そしてホテル代2泊分3ポンド25ペンス(当時のポンド為替レ
ート738円)
明日はロンドン市内見物だあ!

f:id:HATTYAN0234:20200428182545j:plainホテル位置 地下鉄はパディントン駅 ハイドパーク近い(下地図赤丸)

f:id:HATTYAN0234:20200429130214j:plain英国ヒースロー空港で両替実施
当時クレジットカードなど無く 日本からは独マルクのトラベラーズチェ
ックを持って来た これは盗難・紛失時に再発行してもらえるので安心な
ツールでした 両替表を見ると ドイツ100マルクが スターリングポ
ンド12.82であった
参考:当時は「外貨の持出し制限」があって3,000ドルであった

ここで出発の「1972年8月時点での訪問各国の為替レート」を掲載
       (アメリカドル      1ドル    301.4円)
       タイバーツ      1バーツ   14.5円
       エジプトポンド    1ポンド  693.1円
       英国ポンド      1ポンド  738.0円
       フランスフラン    1フラン  60.25円
       スペインペセタ    1ペセタ   4.75円
       イタリアリラ     1リラ    0.52円
       オーストリアシリング 1シリング 13.06円
       スイスフラン     1フラン  79.46円
       ドイツマルク     1マルク  94.25円
       オランダギルダー   1ギルダー 93.38円
       デンマーククローネ  1クローネ 43.66円
       スウェーデンクローナ 1クローナ 63.65円
         フィンランド マルカ    1マルカ     72.82円
       旧ソ連ルーブル    1ルーブル 125.8円

 

 

 

 

 

 

1972年の夏②羽田発バンコク4泊5日

1972/7/29(土)15:20エジプト航空MS865便で出発

当日は 大学のクラブ仲間が4人も見送りに来てくれた 現在では考えら
れないが 当時は海外旅行は とても珍しい事件だったのだろう 千円を
お茶代として渡注:大学時代のクラブ「シネマ研究会」今でも後輩たちが頑張って継続中
参考:海外渡航者数の推移(渡航自由化は1964年4月1日)
   1964年   128千人 1965年  159千人
   1966年   212千人 1967年  268千人
   1968年   344千人 1969年  494千人
   1970年   663千人 1971年  961千人
   1972年  1392千人 1973年 2289千人
   2019年 20080千人

f:id:HATTYAN0234:20200427184304j:plain空港免税店ではタバコを1カートン400円 フィルム2本1,160円
で購入した タバコが安いなあ~
(記事は 外国滞在中の金銭支払メモ 帰国後に友人あてに書いた旅日記
を基に記していく 記憶違い 記録ミスはご容赦いただきたい)

日記には 出発時の感想として 寂しいそして不安と期待が・・・とある
乗継の香港空港でトイレ(チップ10円 )  バンコック到着は現地時間で
21:30

<1日目の失敗>とある バンコクの税関に 当方のブロークン・イング
リッシュが通じずあせる 今晩宿泊するホテルが未定ということで さん
ざん嫌味を言われたらしい(複数の税関担当者が 早口でまくしたて良く
理解できず)結局は1日一人5ドルのホテルを紹介してもらう リムジン
代1ドル あせっていた相棒S君が ホテル玄関でボーイに1ドル手渡す 
部屋に着き「豪華だなあ~風呂付きである」とビックリしている 従妹の
服部たかちゃん(後にはJALのCAとして世界を飛び回り活躍)に貰っ
たウィスキーで一息つく 機内で食事が2回出ており おなかは空いてい
なかった 風呂に入り24:30 男二人がベッドを並べて寝ました 
ヒーヒーの1日目であった 
 参考:バンコックの空港は「ドンムアン空港」市内から北に約20km
    の距離でタクシーで30分 (現在はLCC用空港で 主空港は
    別に存在する)

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7月30日(日)8:30起床 朝風呂に入り9時に朝食16.5バーツ
雨が降ってきた バンコク市内の寺院見物するつもりが 日曜日は仏陀
休養日とかで近隣は閉まっておりダメ 蒸し暑い市内を歩いていたら偶然 
学校の教師という人に会い いろいろ案内してもらう この日の旅日記に
は 大理石寺院からサンデーマーケット~水上ハイヤーでワット・アルン
~エメラルド寺院~尼寺との記載あり
どこに入場できたのかダメだったのか どちらにしてもほとんど記憶無し
旧バンコックの生活を見て回る とても汚いメナム川で子供が泳いでいた
裏町を見学できたことは良かった
(注:帝国書院の地図で昭和49年までメナム川 今はチャオプラヤ川
帰り際この自称教師から ボート代として4ドル余(85バーツ)請求あ
り ああ観光案内人だったんだ~と仕方なく払う
追記:最新の「地球の歩き方」で 旅行者をだます連中のパターン分析が
   出ている 相手の方から声をかけてくる奴は信用するな!が最初に
   出てきます 日曜は仏陀の休養日で寺院は閉鎖というのもおかしい
   ですね 年中無休のはずですから・・・・でも一人4ドルで済んで
   よかった 変な店に連れて行かれてぼったくられなかったのだから

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ホテルに戻りプールに入り休息 一日中歩いたせいか足に豆ができ痛い!
ディナータイムになり 我々スーツにネクタイをしめて 颯爽とディナー
ルームに出かけるが 他に客がおらずしらける 2ドル余で充分満足した 
日記には吐き気のするほど食べたとの記載あり(PS タイでは米ドル強
く 1ドル約333.3円)
参考:旅行出発時点の タイバーツTHB為替レートは14.5円 ドルは
   301円 ドルは1971年8月のニクソン・ショックで360円
   の固定相場制が変動相場制に移行となり 順次円高に推移していく
   考えると1年間で360円→301円の円高になったのでラッキー

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明日の王宮ツアー(80バーツ)を予約する プールで250m泳いだと

7月31日(月)7:30起床し 朝食後9:30から「王宮ツアー」に
参加した R・Sホテルのバスで 1.5時間回る ハワイ出身日系二世の
女子と一緒であった 当日の写真を見ると 暑いのにワイシャツにネクタ
イをしている ネクタイ着用指定であった
このツアーの感想 王宮や仏像がキンキラキンで好きになれないとの記載

バンコクというかタイを舞台にした映画と言えば1956年「王様と私
原題がアンナとシャム王 デボラ・カーとユル・ブリンナー主演で王様役
ユル・ブリンナーの 剃り上げた頭の神々しさ 精悍さが強烈な印象と
して残っています
もう一本が1957年「戦場にかける橋」さすがのデビッド・リーン監督
作品です このブログには 後に「旅情」「アラビアのロレンス」そして
ドクトル・ジバゴ」と同監督作品が出てきます 世界中をロケで回れて
羨ましい 後日談ですが岸恵子さんが書いた「私の履歴書」には リーン
監督自ら「戦場にかける橋」への出演依頼があったという 日本映画界を
捨てパリで結婚という決意後であり断った 残念でした

帰国後になりますが バンコクの裏通りを撮影したシーンを見ることがで
きるのが1974年の「エマニュエル夫人」で 我々が歩いたときの様子
が思い出されます

f:id:HATTYAN0234:20210205170702j:plainなかなかの建物です インターネットからの転写です

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(同じ向きの写真を探すのが苦労でしたが いかがですか?)
王宮ツアーですが 何枚も写真は残っている ただしどこなのかが全く
不明でいろいろな観光名所の写真を見比べついに「これだろう」と発見し
たのが上と右下の写真の場所「ドゥシット・マハー・プラーサート宮殿」
王宮内で最古の建物で歴代王の戴冠式に使われて来た 極彩色の屋根を載
せた壮麗な姿を見せていますね

f:id:HATTYAN0234:20200502162650j:plainもう1つ 王宮敷地内にあるのが「ワット・プラケオ」です インター
ネット上で私の写真と同じものを逆引きして探しました それが上の左
の写真と下の写真

f:id:HATTYAN0234:20200618124024j:plain

「ワット・プラケオ」は王族専用の寺院で 翡翠でできた仏像が祀られて
いて 別名エメラルド寺院といわれる所以です 仏像の衣装は年三回国王
自ら取り換えます

f:id:HATTYAN0234:20210205170839j:plainついでに仏像と王宮の敷地地図も

f:id:HATTYAN0234:20210205172239j:plain

f:id:HATTYAN0234:20200618124047j:plain日本料理店のEVERGREENで 天ぷら定食と日本酒(計2ドル余
45バーツ)味はまあまあとの記載あり(この店名を検索すると今でも
存在しているようです)

そのあと「泰文堂書店」という本屋に入りタイの穴場探し ここには日本
語を話すタイ人女性がいた 下駄をはいていたので ジロジロと見られた
ちょっぴり恥ずかしい

ホテルでゴーゴークラブを紹介され出かける ビール2本が50バーツ 
ついた女性にチップ20バーツ 後から考えると少々高いかも? 
(お酒が入ると換算は無理)
昨日と本日のホテルでの朝食は コンチネンタル・ブレックファースト
(コーヒー ジュース トースト バター ジャム)16.5バーツ也と
比べてみれば分かります

クラブで知り合った女性に このホテルは高い 私達が紹介すると明日の
1泊分宿泊ホテルを変えることになった (翌日METRO HOTEL
に移動することに)


8月1日(火)ホテル精算3泊分355バーツ タクシー15Bでホテル
を移動し ついでに泳ぎに行きましょうというので 僕らと女の子二人計
4人でパタヤビーチに行く バンコクから160キロ 相当時間を要して
少々不安なドライブではあった

参考:パタヤビーチ 1960年代以前は小さな村に過ぎなかった 大き
   な変化はベトナム戦争で アメリカ軍がこの辺りに空軍基地を作り
   米軍人用保養地になった(ベトナム戦争は 1955年11月~
   1975年4月で 我々の旅行当時も戦争中だったのです)

人はあまり泳いでおらず 水上スキーヤーが多かった 今はタイの雨期で 
空が低く 太陽が見られない 女の子がいろいろなタイ料理を食べさせて
くれた もち米が多くて正直美味しくなかったが「おいしい おいしい」
と食べたとの記載が残る
ビーチでもなぜか 下駄が注目の的であり 女性たちもほしがった・・・
本日の車代5ドル 昼食10バーツ シャワー代3バーツ 夕食代1ドル
であった 最後に 名前を聞いてみた MALEE PUNDEE19歳
1児の母とのこと(ご主人は米の軍人で どうも行方不明のよう まるで
ミス・サイゴンのよう?)

f:id:HATTYAN0234:20200427185348j:plain8月2日(水)6時起床 朝食12.5バーツ 
11時チェックアウト ホテル代4ドル こちらのホテルの方がなじ
み深い
タクシー5バーツでタイ大丸へ New Japanで 握り寿司とビール
(37バーツ)フランスパン5バーツ購入 
President Hotelで コーヒー注文5バーツ まずい!

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(写真 泰文堂の日本語話す女店員)
参考:タイ大丸1964年開店 タイ初の日系デパートで 日本の雑貨・
   ファッションを取り扱う タイ初エスカレーター設置の最新デパー
   トだったが 1998年日本のバブル崩壊バンコクの大型ショッピ
   ングセンター開業で過当競争となり撤退した

f:id:HATTYAN0234:20210206101251j:plain訪問国の国旗もこの際覚えておきましょう
先ず最初はタイ王国です 20世紀初め 欧州の国々と親交を結ぶと国旗
を現代風に変えた 赤白青はアメリカ イギリス フランスと仲良くする
ことを意味します

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市内を16時に離れ空港へ 16:30空港到着 カイロへの便は
22:20です(空港で6時間って? こんな時間の無駄遣い 無計画の
極みですね・・・・・でも不勉強でどこへ行けばいいのか分かりません)
バンコクを後にしてカイロへ向かいます 羽田を土曜に出発すると 次に
バンコクを発つ便が月曜か水曜なのです 月曜では観光が正味1日だけで
それで水曜にしバンコクで4泊費やすスケジュールとしたのです

f:id:HATTYAN0234:20200502162842j:plain 追記:バンコク市で別途28ドルの支払いあり(相棒S君と共有事項)

 

 

1972年の夏①出発するまでの経緯から

2019/9/23「英国トーマス・クック社倒産」とのニュースが流れて
大変ビックリすると共に 「1972年の ヨーロッパ周遊の旅」が思い
出され この旅の記憶を記録するために ブログに落とし込んでみようと
決心しました 一体どこまで思い出すことが可能か 古いアルバムの写真
をいったんデジカメに転写し ここに掲載となると ボケボケになるかも
知れませんが・・・・・・・・・・・・・

私のように1970年代に 個人でヨーロッパに行こうと考える人たちに
とっては「トーマス・クックのタイムテーブル」は 世界最古の旅行会社
兼航空会社が発行する時刻表として旅行に必携のものでした バイブルと
言っても良いくらいでした
参考:タイムテーブルは 1873年創刊 2013年廃刊 クック社に
   ついては中国企業復星集団」が「トーマス・クック」のブランド
   名を15億円で取得した

なにしろ 現在のように「地球の歩き方」のようなガイドブックは全くな
かった(因みに同誌創刊は1979年)し 世界遺産という目玉も無かっ
たため いったいどこが観光名所かが漠然としていました 日本交通公社
が何かしら本を出していたかも?

参考:世界遺産は1972年11月のユネスコ総会で採択されました 
   1978年以降登録先が順次発表されました 世界遺産(アブシン
   ベル神殿)の誕生のキッカケともなったエジプトのヌビア遺跡群は 
   第二回の1979年に登録されました

当時 海外諸国の事情を知るには 映画からの情報も大きいもので 私も
中学時代から「ニッサンテレビ名画座」というTVで1930~50年代
のフランス映画を追っていて 後に1960年製作ルイマル監督「地下鉄
のザジ」で 少女ザジがパリ中を駆け回る姿を見 その背景に強い憧れを
抱いたものでした・・・・・・・・・

このブログでは 旅行出発以前に公開され私自身が気に入っている映画も
紹介することにします 何しろ大学時代に一年間365本見るんだと決め
大学から京橋のフィルムセンターまで 定期券を購入して鑑賞(70円)
したほどの映画青年でしたから・・・

大学最後の夏休み 突然ヨーロッパ旅行が現実のものとなりました・・・
私の学生時代一人で日本国内旅行をスタート 周遊券を買い その期限内
に帰京後も付き合える彼女を探そうと 日本中のユース・ホステルを泊ま
り歩いたものです ユースHの会員証はスタンプ頁が増え まるでアコー
ディオンのようになりました

大学3年の春休みに九州を一周し 沖縄県を残し全国都道府県を踏破して 
あとは?と考えると海外旅行しかない そうだ中学生時代からTV「兼高
かおる世界の旅」で憧れたスペインのアルハンブラ宮殿に行こう・・・・
夢はふくらんでいきました 
(注:沖縄返還は 1972年5月15日 それまでは外国でした)

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兼高かおる世界の旅 1959年12月~1990年9月まで
30年10ヵ月続く

兼高かおる 本名 兼高ローズさん>
1958年 スカンジナビア航空主催の「世界早回り大会」で   73時間
9分35秒の新記録を作った(直近の世界記録を16時間余も短縮した) 
この記録はプロペラ機による最速記録で 現在でも破られていないのです 
なぜならその後 世の中はジェット機時代に突入したから・・・・・・
出発は東京~マニラ~バンコク~カラチ~ローマ~チューリッヒ~デュセ
ルドルフを経由し乍ら コペンハーゲンそしてアンカレッジ経由東京へと
戻ってくるものでした
この時の紀行文が 週刊誌に連載され人気を博し そして上記番組に抜擢
されました

f:id:HATTYAN0234:20200429130900j:plain1959年 初の取材地ローマへ 日本の輸出促進のために絹の着物や
真珠など身につけ トランジスターラジオも持参 まるで生きた見本市
の様な兼高さんでした

ナレーター兼ディレクター兼プロデューサーで世界150ヶ国 地球を
180周する距離を飛んだ兼高さん 芥川隆行さんとの絶妙なトーク
秀逸で 日曜朝の楽しみでした 当時から憧れの女性だったと言えます 
番組終了まで生活の99%を「世界の旅」に捧げた結果生涯独身でした 
本心は(下記著書の行間で)結婚してみたかったようです

f:id:HATTYAN0234:20200429131343j:plain第100回ハイライトの記念番組で 芥川さんと乾杯を
軽妙洒脱な芥川さんの突っ込みに対し テーブルの下で
蹴っていたこともあったと 可愛らしいエピソードです

彼女はインド人を父に持つハーフで エキゾチックな気品ある超美人で 
おてんばさん 飛行機は常にファーストクラス ホテルは超一流で統一 
これが信頼につながり 世界中の要人への取材申込もスムースだったと 
なにしろ 日本の首相より早くケネディ大統領に面会できたのですから 
ジャーナリスト兼放送作家で 菊池寛賞も受賞されています

f:id:HATTYAN0234:20200429132113j:plain1962年10月 ホワイトハウスケネディ大統領と面会
     <彼女の口癖>
     「日本だけにいたんじゃつまらないでしょう
     「なるべく人間は多く見た方がいいんです」
     「笑顔は 世の中どこでも通じる共通言語」
これらは彼女の著書「わたくしが旅から学んだことー80過ぎても世界の
旅は継続中ですのよ!」から引用しています 最後の「ですのよ」という
口調が特徴的です

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そこに水があれば入ってしまうぐらい泳ぐのは大好きで 海外の海の中も
紹介したくて たびたび潜ったようです(なかなかグラマーですね)
1989年に 番組開始30周年を記念して 気温マイナス30°Cの
北極点に立つ これで南極から北極までの取材達成 となった訳です

余談ですが 私が彼女を見た最後は 2014年9月27日 東京ビッグ
サイトでの「ツーリズムEXPOジャパン」の各賞表彰式で舞台の中央に
立つ姿 懐かしかった 

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何かの拍子に 実はヨーロッパに行こうと考えているんだと話した相手は 
大学で同じサークルに属し アルバイトも同じところで働いていたS君で 
「一緒に行こう」と確か 即決だったと記憶している ただし今就活中で
N新聞社に内定したらという条件付きだった 私の方は 当時ものすごい
「青田買い」で大学3年の12月にはF銀行に内定していました


最終S君もN新聞社の内定をゲットし いよいよ「1972年の夏」が
スタートです
7月初旬 日本交通公社虎の門営業所に出向いた ここにはS君の学部
先輩の女性が勤務していて「一番安くヨーロッパを周遊するにはどうす
ればいいか」の希望を伝え その回答を参考にして作られたものが次の
①~③です
①飛行機はエジプト航空で南回り バンコク カイロ ロンドン経由で
 パリに入る
②ユーレイルパス21日間でヨーロッパ各国を回り ソ連経由の船便で
 帰国の途へ
ソ連国内での旅程は インツーリスト(ソ連国営旅行会社)で全てが
 決められるが これはやむを得ず 

f:id:HATTYAN0234:20200427105356j:plain  ユーレイルパスは21日間通用(39,500円 125ドル)
             ~1・2・3ヶ月通用までの4種類あります
参考:ヨーロッパへの航路
   1930年代 南回りヨーロッパ路線は 東南アジアの植民地から 
          ヨーロッパの宗主国へと向かう航空路線として開設
   1950年代 スカンジナビア航空が北極圏経由の北回りヨーロッ
          パ線を開設して飛行時間を大幅短縮した(兼高さん
          はこの経路で世界記録を樹立)
   1990年代 ソ連崩壊によりシベリア上空の航空経路が全面開放
          されシベリア上空経由路線に変更となる

南回り欧州路線は1960年代~80年代後半のもの 小型機種のために
各地で給油しながらの飛行 北回りに比し 運賃が割安だった(東京から
乗ると バンコクで降り 次便が来るまで2~3泊待機になる点が特徴)

昭和40年代 金の無い若者たちがヨーロッパ旅行するとなれば 横浜ー
ナホトカを船便 そして列車でハバロフスクへ そこからモスクワまでは
国営アエロフロートに乗って 最後に列車でフィンランドに向かうという
のが一番安く人気のコースであった

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これは「週刊平凡パンチ」に連載の 五木寛之「青年は荒野をめざす」で
紹介され 同氏が実践したコースなのだそうです

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我々の旅程も 往路は南回り航空便で 復路はアエロフロートとシベリア
鉄道そして船便での帰国という最割安なコースで作られたというわけです
さあ ヨーロッパが我々を待っています 45日間の長丁場 いざ出発!
 
追記:相棒のS君から(当方から質問を投げて 各回①~⑫で回答あり)
   S君自身も卒業前に海外旅行したかったので すぐOKした様です 
   ただしスペインに行きアルハンブラ宮殿を見たいという当方に対し
   当時プーシキントルストイなどロシア文学を愛好していたS君は
   モスクワやレニングラードの雰囲気を感じたかったようでロシアが
   良いと ここで意見が割れましたが・・・・・・・・・・・
   それじゃあ両方行こうということになり ユーレイルパスを使い
   ヨーロッパを旅行することになり 一緒に日本橋丸善に時刻表を
   買いに行ったのを覚えている様です(でも買えなかったらしい)
   ガイドブックについては 当時はなかったので JTBのガイド
   ブックを参考にしたと(さすが新聞社出身 旅日記も無しで良く
   覚えているなあ~と感心した次第)

当然にパスポートも申請 取得しました
当時のパスポートは二種類で 一次旅券か数次旅券(5年間)でした
学生で これから社会人ともなれば自由に海外など行けません 当然
一次旅券です 紺色のパスポートで 残念乍ら現在所有していません
効力というページがあって ①この旅券は旅行の日から帰国するまで
有効である ②この旅券は所持人が発行の日から6か月以内に出国し
ないときは失効する・・・・・・との記載が見られました