2019/9/23「英国トーマス・クック社倒産」とのニュースが流れて
大変ビックリすると共に 「1972年の ヨーロッパ周遊の旅」が思い
出され この旅の記憶を記録するために ブログに落とし込んでみようと
決心しました 一体どこまで思い出すことが可能か 古いアルバムの写真
をいったんデジカメに転写し ここに掲載となると ボケボケになるかも
知れませんが・・・・・・・・・・・・・
私のように1970年代に 個人でヨーロッパに行こうと考える人たちに
とっては「トーマス・クックのタイムテーブル」は 世界最古の旅行会社
兼航空会社が発行する時刻表として旅行に必携のものでした バイブルと
言っても良いくらいでした
参考:タイムテーブルは 1873年創刊 2013年廃刊 クック社に
ついては中国企業「復星集団」が「トーマス・クック」のブランド
名を15億円で取得した
なにしろ 現在のように「地球の歩き方」のようなガイドブックは全くな
かった(因みに同誌創刊は1979年)し 世界遺産という目玉も無かっ
たため いったいどこが観光名所かが漠然としていました 日本交通公社
が何かしら本を出していたかも?
参考:世界遺産は1972年11月のユネスコ総会で採択されました
1978年以降登録先が順次発表されました 世界遺産(アブシン
ベル神殿)の誕生のキッカケともなったエジプトのヌビア遺跡群は
第二回の1979年に登録されました
当時 海外諸国の事情を知るには 映画からの情報も大きいもので 私も
中学時代から「ニッサンテレビ名画座」というTVで1930~50年代
のフランス映画を追っていて 後に1960年製作ルイマル監督「地下鉄
のザジ」で 少女ザジがパリ中を駆け回る姿を見 その背景に強い憧れを
抱いたものでした・・・・・・・・・
このブログでは 旅行出発以前に公開され私自身が気に入っている映画も
紹介することにします 何しろ大学時代に一年間365本見るんだと決め
大学から京橋のフィルムセンターまで 定期券を購入して鑑賞(70円)
したほどの映画青年でしたから・・・
大学最後の夏休み 突然ヨーロッパ旅行が現実のものとなりました・・・
私の学生時代一人で日本国内旅行をスタート 周遊券を買い その期限内
に帰京後も付き合える彼女を探そうと 日本中のユース・ホステルを泊ま
り歩いたものです ユースHの会員証はスタンプ頁が増え まるでアコー
ディオンのようになりました
大学3年の春休みに九州を一周し 沖縄県を残し全国都道府県を踏破して
あとは?と考えると海外旅行しかない そうだ中学生時代からTV「兼高
かおる世界の旅」で憧れたスペインのアルハンブラ宮殿に行こう・・・・
夢はふくらんでいきました
(注:沖縄返還は 1972年5月15日 それまでは外国でした)
兼高かおる世界の旅 1959年12月~1990年9月まで
30年10ヵ月続く
<兼高かおる 本名 兼高ローズさん>
1958年 スカンジナビア航空主催の「世界早回り大会」で 73時間
9分35秒の新記録を作った(直近の世界記録を16時間余も短縮した)
この記録はプロペラ機による最速記録で 現在でも破られていないのです
なぜならその後 世の中はジェット機時代に突入したから・・・・・・
出発は東京~マニラ~バンコク~カラチ~ローマ~チューリッヒ~デュセ
ルドルフを経由し乍ら コペンハーゲンそしてアンカレッジ経由東京へと
戻ってくるものでした
この時の紀行文が 週刊誌に連載され人気を博し そして上記番組に抜擢
されました
1959年 初の取材地ローマへ 日本の輸出促進のために絹の着物や
真珠など身につけ トランジスターラジオも持参 まるで生きた見本市
の様な兼高さんでした
ナレーター兼ディレクター兼プロデューサーで世界150ヶ国 地球を
180周する距離を飛んだ兼高さん 芥川隆行さんとの絶妙なトークは
秀逸で 日曜朝の楽しみでした 当時から憧れの女性だったと言えます
番組終了まで生活の99%を「世界の旅」に捧げた結果生涯独身でした
本心は(下記著書の行間で)結婚してみたかったようです
第100回ハイライトの記念番組で 芥川さんと乾杯を
軽妙洒脱な芥川さんの突っ込みに対し テーブルの下で
蹴っていたこともあったと 可愛らしいエピソードです
彼女はインド人を父に持つハーフで エキゾチックな気品ある超美人で
おてんばさん 飛行機は常にファーストクラス ホテルは超一流で統一
これが信頼につながり 世界中の要人への取材申込もスムースだったと
なにしろ 日本の首相より早くケネディ大統領に面会できたのですから
ジャーナリスト兼放送作家で 菊池寛賞も受賞されています
1962年10月 ホワイトハウスでケネディ大統領と面会
<彼女の口癖>
「日本だけにいたんじゃつまらないでしょう」
「なるべく人間は多く見た方がいいんです」
「笑顔は 世の中どこでも通じる共通言語」
これらは彼女の著書「わたくしが旅から学んだことー80過ぎても世界の
旅は継続中ですのよ!」から引用しています 最後の「ですのよ」という
口調が特徴的です
そこに水があれば入ってしまうぐらい泳ぐのは大好きで 海外の海の中も
紹介したくて たびたび潜ったようです(なかなかグラマーですね)
1989年に 番組開始30周年を記念して 気温マイナス30°Cの
北極点に立つ これで南極から北極までの取材達成 となった訳です
余談ですが 私が彼女を見た最後は 2014年9月27日 東京ビッグ
サイトでの「ツーリズムEXPOジャパン」の各賞表彰式で舞台の中央に
立つ姿 懐かしかった
何かの拍子に 実はヨーロッパに行こうと考えているんだと話した相手は
大学で同じサークルに属し アルバイトも同じところで働いていたS君で
「一緒に行こう」と確か 即決だったと記憶している ただし今就活中で
N新聞社に内定したらという条件付きだった 私の方は 当時ものすごい
「青田買い」で大学3年の12月にはF銀行に内定していました
最終S君もN新聞社の内定をゲットし いよいよ「1972年の夏」が
スタートです
7月初旬 日本交通公社虎の門営業所に出向いた ここにはS君の学部
先輩の女性が勤務していて「一番安くヨーロッパを周遊するにはどうす
ればいいか」の希望を伝え その回答を参考にして作られたものが次の
①~③です
①飛行機はエジプト航空で南回り バンコク カイロ ロンドン経由で
パリに入る
②ユーレイルパス21日間でヨーロッパ各国を回り ソ連経由の船便で
帰国の途へ
③ソ連国内での旅程は インツーリスト(ソ連国営旅行会社)で全てが
決められるが これはやむを得ず
ユーレイルパスは21日間通用(39,500円 125ドル)
~1・2・3ヶ月通用までの4種類あります
参考:ヨーロッパへの航路
1930年代 南回りヨーロッパ路線は 東南アジアの植民地から
ヨーロッパの宗主国へと向かう航空路線として開設
1950年代 スカンジナビア航空が北極圏経由の北回りヨーロッ
パ線を開設して飛行時間を大幅短縮した(兼高さん
はこの経路で世界記録を樹立)
1990年代 ソ連崩壊によりシベリア上空の航空経路が全面開放
されシベリア上空経由路線に変更となる
南回り欧州路線は1960年代~80年代後半のもの 小型機種のために
各地で給油しながらの飛行 北回りに比し 運賃が割安だった(東京から
乗ると バンコクで降り 次便が来るまで2~3泊待機になる点が特徴)
昭和40年代 金の無い若者たちがヨーロッパ旅行するとなれば 横浜ー
ナホトカを船便 そして列車でハバロフスクへ そこからモスクワまでは
国営アエロフロートに乗って 最後に列車でフィンランドに向かうという
のが一番安く人気のコースであった
これは「週刊平凡パンチ」に連載の 五木寛之「青年は荒野をめざす」で
紹介され 同氏が実践したコースなのだそうです
我々の旅程も 往路は南回り航空便で 復路はアエロフロートとシベリア
鉄道そして船便での帰国という最割安なコースで作られたというわけです
さあ ヨーロッパが我々を待っています 45日間の長丁場 いざ出発!
追記:相棒のS君から(当方から質問を投げて 各回①~⑫で回答あり)
S君自身も卒業前に海外旅行したかったので すぐOKした様です
ただしスペインに行きアルハンブラ宮殿を見たいという当方に対し
当時プーシキンやトルストイなどロシア文学を愛好していたS君は
モスクワやレニングラードの雰囲気を感じたかったようでロシアが
良いと ここで意見が割れましたが・・・・・・・・・・・
それじゃあ両方行こうということになり ユーレイルパスを使い
ヨーロッパを旅行することになり 一緒に日本橋丸善に時刻表を
買いに行ったのを覚えている様です(でも買えなかったらしい)
ガイドブックについては 当時はなかったので JTBのガイド
ブックを参考にしたと(さすが新聞社出身 旅日記も無しで良く
覚えているなあ~と感心した次第)
当然にパスポートも申請 取得しました
当時のパスポートは二種類で 一次旅券か数次旅券(5年間)でした
学生で これから社会人ともなれば自由に海外など行けません 当然
一次旅券です 紺色のパスポートで 残念乍ら現在所有していません
効力というページがあって ①この旅券は旅行の日から帰国するまで
有効である ②この旅券は所持人が発行の日から6か月以内に出国し
ないときは失効する・・・・・・との記載が見られました