2020年 京都の夏 鷹峯2泊3日③

<第三日目> 6:00起床 大浴場 7:00朝食

f:id:HATTYAN0234:20200821034236j:plainホテルの入り口にも置いてあるこの彫刻石 大浴場への通路の外にも設置

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本日の朝食は「和の紙屋川」ですが 私はパンもガッチリいただきました
和洋とも食べ放題 食器はコロナ対応で 一つ一つラップしてありました

「あっ! すぐきのお漬物があるわ 嬉しいなあ」と妻は喜んでいました
我々夫婦は一番乗りで一番に出ました 朝からスケジュール満載なのです

f:id:HATTYAN0234:20200910163048j:plain8:00過ぎ ホテルから15分ほど歩いて 今宮神社参拝からスタート

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まだ人出は少ない 社務所は9:00からというので 南隣りの大徳寺
(失敗です 拝殿横の神占舎にある「阿呆賢(あほかし)さん」と呼ばれ
る石これが必見だったのです 手の平で三回叩いて持ち上げると重くなり
その後願いを込めて三回撫でて持ち上げる 軽くなれば願い事が叶うと)

f:id:HATTYAN0234:20200821034615j:plain大徳寺境内に入りました 妻は元気でスタコラサッサ 私は昨日の御苑内
一日散策で 足が余計に痛く シップを2枚貼って 必死に追いかけます
そういえば 万歩計で1日目は1万8千歩 2日目は2万4千歩でした~

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大徳寺のお目当ての塔頭は ここ「高桐院」まだ9:00前ですが前まで
来て「本日はコロナのため入れませんよ」と先客の方に言われ ガッカリ
ここの参道は S・スピルバーグ監督が絶賛しているのです お抹茶付き
で スリッパに履き替え庭に下りられる 庭には有名な燈籠があり かつ
細川忠興ガラシャ夫人のお墓もあるそうなのです

悔しいので雑誌からハイシーズンの参道を転写 

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右は現在 入口のバーをまたいで ちょこっとだけ参道を写せば良かった

大徳寺の境内図 左上の今宮神社を南下して 高桐院~龍源院~大仙院へ

f:id:HATTYAN0234:20200826115515j:plainこれじゃあ大徳寺塔頭はコロナで全滅か? 取り敢えずは「大仙院」へ
入場OK ただし9:00からですと まだ時間があり境内を散策します

f:id:HATTYAN0234:20200821035243j:plain枯山水の石庭で有名な「龍源院」も参拝OKとのこと 撮影も可能ですと

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①書院の軒下の「こだ底」は「阿吽の石庭」とも呼ばれ 聚楽第から移築
された基礎石が配置される ②方丈の南側にある「一枝坦」大海を表わす
白砂に楕円の苔島(亀島)を配し大胆な設計 右に鶴島 奥に蓬莱山 脇
に一枝坦の板石が置かれている(注:鶴島は妻に隠れている)

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③方丈北側にある「龍吟庭」は 室町時代の相阿弥作の枯山水庭園 全面
が杉苔に覆われ 三尊石組みを持ち 苔が大海を 石組が陸を表している
④日本最小と言われるのが「東滴壺(とうてきこ)」 方丈と庫裏の間に
あり 「四坪の宇宙」と形容される幅約2m 奥行約7,5mの石庭です
(少し下に 反対側からプロが写した同一の石庭を添付 見比べて下さい
板石と小さく丸い波紋で 一滴の水が滴り落ち 大海へとつながる様子を
表現 拝観順路の最後にあたり「何気ないこと つまり日常の中にも悟り
の世界はある」という教えが この小さな庭に込められているそうです)

担いだリュックのため 汗ビッショリでしたが 4つの石庭を巡り 特別
に心が癒され想定外の喜びでした 参拝の最後にご朱印をいただきました

f:id:HATTYAN0234:20200821040604j:plain今はコロナ対応で ご朱印の紙を一枚別途いただき 後でご朱印帖に自分
で貼るということになっていて ご朱印帖でのやりとりはしておりません

大徳寺名物の「三門」は入れませんでした

f:id:HATTYAN0234:20200821035809j:plain初層のみであったが千利休が上層を完成させた 釈迦三尊像他と共に雪駄
履きの千利休木像が安置されているが 門をくぐった秀吉が 利休が自分
の頭を踏みつけたとイチャモンをつけて 自決を命じたという因縁の三門
 利休像は寺社側が感謝の印として設置したものなのに・・・・・・・
 利休が大徳寺で主君信長の葬儀をと提案し 秀吉が大々的に実施 自分
 が後継者であると天下に示した この頃の両者は 蜜月関係にあったが
 急激に勢力を伸ばす利休を 怖くなった秀吉の嫉妬のなせる結果でした

次は大仙院に戻ります

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入母屋造の本堂は 龍源院と並び 最古の禅宗方丈建築の一つ
書院の庭園は約66㎡の狭い空間に 大小の石や樹木を配し 深山幽谷
描いた見事な物 東北隅に枯滝組を設け 白砂で表わした流れの途中には
鶴・亀・宝船を模した石を伏せている

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上の写真は 建物内撮影禁止で 玄関に写真が立てかけられていたものを
転写したものです
ガイドさんの質問に「船のようです」「蓬莱山ですか?」と即答する妻に
感激したのか ガイドさんの説明がより丁寧より詳しくなった気がします
書院の角を曲がるたびに 川の流れは穏やかになり最後は石庭になります

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この石庭と 右の龍源院の坪庭(東滴壺)が大徳寺塔頭群の代表として
「そうだ 京都、行こう。」の2020年度早春「石庭編」に選出された
その直後から 観光客が激増したそうです(当然コロナ拡大前の話です)

ガイドさんの話は終わりそうもありません 本堂に入りそこにある掛け軸
の説明です また妻が発見「和敬清寂」に夫の名前がと 私も免許証を出
和敬を見せます あとで掛け軸1万円どうですかとセールスされました
注:和敬静寂とは千利休の茶道の心得を示す標語 意味は 主人と賓客が
  お互いの心を和らげて謹み敬い 茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄に
  すること
  もう一枚有名なのが「気心腹人己」気は長く心は丸く 腹を立てずに
  人は大きく 己は小さく これとは反対?の妻にこの言葉を贈ります

f:id:HATTYAN0234:20200821125335j:plain今年88歳の和尚様が出て来られて 妻のパンフレットに直筆でサラサラ
と書いていただけました いかにも話好きな和尚さん お話いつ終わる?
(和尚さん マスクしてないじゃん どうして?)

最後に「三福茶」を小さなお菓子と一緒にいただきました 300円です
「一服飲むと 三回良いことがある」そうで さてどんな良いことが??

大徳寺の各塔頭に見られる立派な庭って 宗教上必要なの?それとも・・
その答えにようやく辿り着けました <井上章一著「京都ぎらい」>から

本能寺の変自体は歴史で学びますが では信長はどうして本能寺なんぞを
京都の常宿にしていたのか 一度は自分の手で京都屋敷を設けたが 結局
そこを人手に渡しています それほど本能寺の宿泊に満足していたのです
南北朝の争乱期あたりから 京都の寺は今でいう ホテル業を営みだした
僧侶たちの接遇ぶり「おもてなし」の場になっていて 評判を高めていた

京都の寺院はみな美しい庭を持っている 人目を喜ばす庭が 寺で営まれ
武将らの接待・慰安という新しいつとめが 庭の美化を推し進めたのです
明日は殺戮へ及ぶかも知れない男たちが ほんの一時でも目を休められる
ようにとの 「庭園美学」が禅宗の僧によって形成されていったのでした

神秘めかし ありがたく見せるために あとからいかにも禅ぶった物言い
で庭づくりを論じだした(あとづけの屁理屈)可能性はある 
しかし美しい庭の本質が禅にあるとは思えない(現在 各ガイドブックに
見られる石庭の説明文 私も既述しましたが屁理屈なのかも知れません)


それでは 今宮神社に戻りましょう 目的はご朱印とお守りです

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疫病除けで知られているので 当然 コロナ早期収束をと願うべきですが
もう一方の御利益である「玉の輿に乗る」に 力点を置いてしまいました
当地生まれの八百屋の娘 玉が入内し 徳川綱吉の生母桂昌院になった事
それ(玉の輿)にあやかろうというもの 一つ800円で 娘二人の良縁
をと二つ購入しました 宜しくお願いします

ホテルへの帰路は 坂道が急でシニアには酷 バスを乗り継ぎ戻りました
そうそうホテルの心配りを紹介しておきます 時節柄マスクケースでした

f:id:HATTYAN0234:20200910163516j:plain次回の京都観光も このホテルに宿泊できたらいいなあ
2泊朝食込み 税込みで29,960円 正規料金ではとてもとてもです

f:id:HATTYAN0234:20200821040118j:plain12:00京都駅に戻り JR京都伊勢丹デパート11Fで昼食です
「こけこっこ」に入りました JCBギフトカードが使えるのでラッキー

f:id:HATTYAN0234:20200909125806j:plain窓からは8月16日「五山の送り火」の「大」の山腹が見えますが・・・
以前「大文字焼き」と言っていた記憶がありますが 盂蘭盆の締めの行事
送り火」であることから 大文字焼きとは言わない様になったようです
今年はコロナで 大の字の一部だけ点火 切り絵で我慢しておきましょう
食事を終えたらラストスパートです 三十三間堂と養源院が待っています
 

三十三間堂の仏像26年ぶりに修復なり1001体揃い踏み 国宝の森!
「会いたい人に似た像が必ずある」仏像は全部表情が異なるとの評判です

f:id:HATTYAN0234:20200909130337j:plain入場料600円は高い しかも冷房無しで滅茶苦茶暑い! 観光客も多い
途中に扇風機があり そこが密状態に 仏像より扇風機の風を目指します
仏像より・・・・・・ 
見たいのは正月に行われる大的大会 全国から晴れ着の新成人(初段者)
が1,500人集まります ハレの日の大一番 構えが様になっています

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世界にユーチューブで広まり 日本の弓道が大反響・大人気になりました
それで世界大会が開催され 第一回はフランスの勝利 柔道に次ぎ日本の
お家芸が持って行かれた・・・・・(第二回は仏開催でやっと日本優勝)

f:id:HATTYAN0234:20200910163820j:plain弓を射た直後の綺麗なフォームに 思わずうっとり(ユーチューブから)

ちょっとした疑問: 京都では寺院は入場料というか拝観料が必要ですが
外国からの観光客の皆さん 教会は原則無料で 違和感ないでしょうか?
<以下「京都ぎらい」井上章一著から> 
拝観料は「非課税のお布施」? 1950年代寺院が順次取るようになり
京都市の財務当局も課税徴収に出た 初めは課税を甘んじて受けた寺院も
拝観料増加ー課税増加で我慢できず 拝観停止(1986年には10ヵ月
京都市と意地の張り合いになった)で対抗・・・・・・・ 

「頼むから お寺さんを怒らさんといてほしい お寺さんが門を閉じてし
もたら 我々は商売がやれんようになる 古都税のことは 引っ込めても
らへんやろか」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
観光業者を事実上の人質とした寺院側の作戦に 最後音を上げた京都市
1988年古都税を廃止した 仏寺の社会的勢力 つまりは軍門に下った

f:id:HATTYAN0234:20200821040757j:plain平清盛が1164年に創建 1249年の大火で焼失 1266年本堂
のみ再興し現在に至る ということは「応仁の乱」では戦禍に巻きこま
れなかったということです 応仁の乱で無事だったのは 東寺とここら
七条あたりぐらいかもしれません 

「前(さき)の戦争では大変な目におうたんです」京都の人がこう話す
とき 戦争とは応仁の乱を指す 二条より北はまる焼け 公家は京都を
捨て 将軍足利義政は 自らの趣味に没頭し 住人は見捨てられたので
悔しいのです 
応仁の乱で焼失」・・・・京都の寺社の歴史を紐解いていくと どれ
ほどこの言葉に行き当たるだろう 1467年からの11年間で 焼け
野原と化した 平安初期から育んできた伝統文化が ことごとく灰燼に
帰してしまったのです 悔しい! 応仁の乱なかりせばという後悔です

たかだか数十年の歴史しか持たない店までが「老舗」と呼ぶのは困った
傾向です 応仁の乱をくぐり抜けて来た店のことを 正真正銘の老舗と
呼ぶのが 京都人の習わしだそうです

応仁の乱 蛤御門の変を経た現在 京都の観光名所の多くは復元景観と
言える つまり千年の都とは言うけれど しのばせる景観は 少ない!
金閣寺は戦後の火災から 平安神宮は かつての大極殿を場所を移して
サイズを小さくし復元したもの・・・・・・・・・・・・

できうるならば 羅城門 藤原道長東三条殿や法成寺 室町花の御所 
相国寺の七重塔 聚楽第 方向寺大仏殿など時間をかけ復元してほしい

 いよいよ最後は養源院 ここは見所満載です

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ここも撮影禁止です
豊臣秀吉の命により自害を命じられた浅井長政 その供養のため 長政の
長女だった淀君が秀吉に願って建てた供養寺 養源院は長政の院号である

落雷火事焼失を 徳川秀忠夫人で 浅井三姉妹の三女お江が再興 その際
伏見城の遺構の一部を移築 これが「血天井」(市内8か所にあり)です
1600年会津の上杉討伐に向かう家康は 伏見城鳥居元忠に守らせた
石田光成をおびき寄せる作戦のためであり 捨て駒役に元忠が抜擢された
彼は 今川家に人質に出された家康の側近で 言わば幼馴染 申し付けを
承諾したその日 家康と朝まで思い出を語り合ったとされる・・・・・・
元忠はたった1800名で 石田方4万人を迎えるが 最後自決 遺骸は
関ケ原が終わるまで夏の2か月間放置され そのおびただしい血痕や脂に
よって顔や鎧の跡が床板に染みつき いくら拭いても落ちなかったらしい
足で踏むのは忍びないと 彼らの魂を成仏させるため天井にこの板を使用

ガイドさんが棒で天井を指し示し ここが髷 顔 首 肘が伸び 片足は
あぐらをかいて曲がったまま・・・・」ありありと浮かんで見えてきます
「イケメンですねえ」と妻がまた 茶々を入れると ガイドさんニッコリ

俵屋宗達の杉戸絵8枚は 元忠たちの魂を少しでも安らかになるよう描か
れた動物たち(白象や唐獅子や麒麟)です 

f:id:HATTYAN0234:20200821040510j:plain私が見たかったのは ここでしか見られない「菊のご紋 三つ葉葵 桐」
その三つが どこにどのように並んでいるのか・・・・・・・・
本堂には秀忠とお江 兄の家光の位牌(将軍家3~14代までの位牌も)
が安置されています 秀忠・お江の位牌には 三つの紋が刻まれています
相容れない天皇家と徳川家 豊臣家のご紋が一緒に並ぶことは他には無い

これ お江が三つに関与しているのです お江は千姫を始め 二男五女を
産む その五女の和子(まさこ)は後水尾天皇との間に 次期天皇を産む
ここ養源院の再興では 徳川家に関係が無い!という周囲の不満を抑える
ために「伏見城からの血天井」を自ら提案して 再興を納得させたのです

徳川和子後水尾天皇への中宮入内後 「紫衣事件」が勃発 これにより
夫と兄の間に摩擦が生じた 母のお江同様 和子もまた時代に翻弄される
参考:紫衣(しえ)事件とは  
   江戸時代初期における 江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す
   朝幕間の対立事件のことで 後水尾天皇(1596~1680)は
   この事件をきっかけに 幕府に相談なく1629年譲位を決意した
   紫衣とは紫色の法衣や袈裟をいい 古くから宗派を問わず 高徳の
   僧・尼が朝廷から賜った 朝廷にとっては収入源の一つでもあった
   
   慶長20年(1615)には「禁中並に公家諸法度」を定め 朝廷
   がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた
   にも拘らず後水尾天皇は 従来通り勅許を与えたため 将軍家光は
   京都所司代に 違反の紫衣を取り上げるよう命じた これに対して
   朝廷は強く反対 また大徳寺住職沢庵ら大寺の高僧も抗弁書を提出
   した だが結果的に 沢庵らは出羽・陸奥の国へ流罪になりました
 
   これにより「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」ということを
   明示した 元は朝廷の官職の一つに過ぎなかった征夷大将軍とその
   幕府が 天皇より上に立ったことを意味している
   寛永9年(1632)大御所秀忠の死で大赦令が出され 事件連座
   した者は許された(後水尾天皇の譲位でチャラにしたとも言える)

 注:後水尾天皇補記
   江戸時代初期に知っておかねばならない人物として追加記載します
   ①父 後陽成天皇から譲位 これは家康の皇位継承介入によるもの
   ②家康の孫で秀忠の娘和子入内申し入れ 武家出身の中宮平清盛
    の娘 建礼門院徳子以来の異例事(当時天皇寵愛の女御と子共を
    幕府が追い出し一族もろとも配流)
   ③既述した紫衣事件春日局への不満(注)で譲位し院政を敷いた
   ④学問・芸術に関心が深く 自ら造営の修学院離宮は屈指の名園に
   ⑤昭和天皇までは 歴代の最長寿(天皇上皇法皇)なのでした

  注:春日局への不満「もう我慢がならぬ」
    春日局は家光の乳母 病弱な家光の病気平癒祈願で 伊勢神宮
    行ったついでに 宮中のご機嫌伺いで御所へ出向いたことがあり
    無位無冠の身分的に?の女が 拝謁を願い出るとは何事かと怒る
    というか これほど馬鹿にされるかという思いでキレたのでした

  注:琳派桂離宮
    当時の知識人の筆頭格であった上皇の下 本阿弥光悦俵屋宗達
    の琳派黄金コンビや 八条宮智(とし)忠親王も親しく集まった
    智忠親王の父智仁親王は 家康の横槍がなかりせば後陽成天皇
    後継であった人物 豊臣秀吉に子供ができるまで養子・後継者で
    もあったので 初代八条宮と称し 桂の土地を拝領し離宮造営に
    携わった 智仁・智忠親子の数十年にわたる努力 後水尾上皇
    是非御幸していただこうと 英知を注いだ新御殿完成 実際には
    桂離宮への御幸が成ったのは 智忠親王死去の翌年の事であった

 京都市内を歩いていると どうしてこんなに歴史上の人物が交差するの
 でしょうか? まさか光悦村から始まって 最後俵屋宗達に行きついて
 背景に後水尾天皇上皇や八条宮親子の桂離宮まで登場する これこそ
 京都の醍醐味で 知る知らないの差は大きく 更なる勉強が必要ですね

f:id:HATTYAN0234:20200826115540j:plain江戸時代の養源院は 和子の頼みによって 兄の家光庇護のもと一般の方
は参拝できない特別な寺として 将軍家や高貴な者だけが参拝できました

 参考:お江の肖像画はここでしか見られない お市の方の供養塔もある
    そうです 何とも言えない特別濃密な歴史を有するお寺なのです
    残念ながらコロナで密になるというので お江たちの位牌がある
    本堂には入れませんと聞かされ・・・ 何ということでしょう!

ここは訪問客が多く ガイドさんが忙しく最後の質問ができませんでした
質問は 桐紋となれば 織田信長も使用していたので お江の位牌にある
桐紋には 信長の妹 お市のことも含んでいるのでは?・・・・・・・・
桐紋って当初は天皇家が使用し それを有力武家そして有力家臣に与えて
いきました(信長は将軍足利義輝から 秀吉は主君信長から与えられた)
信長からは五三の桐を 豊臣姓に変えて後陽成天皇から五七の桐を賜った
ここの位牌にある桐紋が五三か五七か これだけは質問したかったのです

f:id:HATTYAN0234:20200907111736j:plain日本政府の桐紋は秀吉の桐紋と同一なのです 朝廷の政府というつながり
から明治政府が使い始め その慣習が続いているのであり秀吉を継承した
訳ではない・・・・・そうでしょうか? 五百円硬貨を見ながら考えます
やはりです! 五百円硬貨の表面図柄は 旧も新も「五七の桐」なのです

話は飛びますが 2011年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」で
主人公は勿論お江(上野樹里)ですが 淀君宮沢りえ)の幼少期茶々を
演じた芦田愛菜の名演技~母お市鈴木保奈美)との別れのシーン~での
茶々になりきって じわじわから最後大粒の涙を流すまでの表情の変化が
信じられない この子は何だ! 視聴者全員がもらい泣きした瞬間でした
茶々の出演シーンが終わると 以降ドラマはもぬけの殻状態になりました

f:id:HATTYAN0234:20200821041003j:plain京都駅に戻り 銘菓を買います
①満月の阿闍梨餅 大阪へのお土産 
②中村藤吉本店の生ちゃこれーと

f:id:HATTYAN0234:20200821041112j:plain辻利の水羊羹

旅行から帰って24日がちょうど2週間目 コロナが発症しませんように
琥珀」と「生ちゃこれーと」を夫婦で毎日 少しずついただいています

最後にもう一度
あぁ、わたしは、春を一年待っていたんだなぁ。」と気づいた瞬間です
これはJR東海が毎年続けている「そうだ 京都、行こう。」のキャッチ
コピーですが そういう感情を引き起こす「華」こそが京都の魅力である
 
「そうだ 京都、行こう。」は1993年 平安遷都1200年記念事業
の一つとしてスタートしました 今回訪問した所が どの年度のポスター
に採用されていたかを 写真とキャッチコピーを併記し紹介しておきます

「写真とコピーの化学反応がいい!」
そうです 写真は高碕勝二さんです 実際の撮影は 放送の一年前に行う
大抵夜中にセッティングし夜明けにスタート 50~60人のスタッフが
動く 観光客が入ってくる前には退却します 今まで雨は殆どなかったと
「何と言っても京都が美しいのは紅葉の時期です 日本の風景には赤い色
がよく似合う 特に京都は 建物の色が無いので 自然の赤が冴えわたり
ます」と

<2000年春>大仙院
なんで今までこの時期に来なかったのだろう 石庭を前にそう思いました

<2016年春>京都御所京都御苑

f:id:HATTYAN0234:20200905090826j:plain世界でもっとも人気の町の その「まん真ん中にある春」なんですから

桜がらみでイイナアと感心したコピーを
 地球に ポッと桜色になっているところがあるとしたら・・・京都です
 桜の開花が ニュースになる国って すてきじゃないですか
 桜がすんでも 一息ついているヒマはないんですから 京都は

<2014年盛秋>源光庵

f:id:HATTYAN0234:20200905091043j:plain紅葉が 宇宙や人生の話になってしまうとはね

秋でイイナアと感心したコピーを
 紅葉なんてどこにでもある と思っていました 失礼しました
 「ムーン・ウォッチング」という英語はないそうです

<2010年初夏>高桐院

f:id:HATTYAN0234:20200905091210j:plain古くからあるのに古くない 毎年新しい生命力を 緑からもらうように
できていました

<2006年夏>三十三間堂

f:id:HATTYAN0234:20200905091336j:plainおい 父さんを尊敬していいんだぞ
「聞きたいことあるか 父さん勉強してきたんだ」
「・・・・」
「いいんだ わからなくても まだ今は」
子供と同じ方向を向いていた 久しぶりのことだった 

<1999年冬>大仙院

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まっすぐそろっているのが 良い 歪んでいたりズレているのは 悪い
なんてルールは この茶碗のどこにもみつかりませんでした
日本人って そもそもそうとう「自由でクリエイティブ」だったんだなあ

 注:ポスターで一枚のものはユーチューブからの 左右に二枚のものは
   書物からの転写です 観光名所を雑誌に掲載する場合 たいていの
   観光地は左右にまたがって掲載となります 何か意地悪な感じです
   というか 私のようにブログ等に転用されるのを防ぐ意味合いか?

  そもそも京都特集の雑誌で 寺院や庭園などを紹介する際「志納金」
  という写真掲載料を 一点3万円ほどで寺におさめるしきたりがある
  法的に争えば勝てるが 以降グラビアページが作れなくなってしまう
  ので支払うが「金銀苔石」という人気の四大寺となると 写真一枚が
  20万円以上になるという噂もある <これも「京都ぎらい」から>

<1996年盛秋>高桐院・・・・・散紅葉(ちりもみじ)

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人気のオープンエアでした お抹茶をお願いしました
仕事の話は ちょっと外に待たせてあります

<1995年盛秋>源光庵

f:id:HATTYAN0234:20200911125346j:plain私は宇宙を 友人は人生を 考えていたのでした
紅葉が教えてくれたのは 季節だけではありませんでした

<1993年冬>三十三間堂

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修学旅行のときは
「仏像が1001体 それがどうした って感じでしたが・・・・・」
帰ったら なつかしい日本史の教科書「平安時代」のページでも読んで
みようかな

こんなコピーたちが似合う京都ですが 今までの全コピーを知りたくて
「そうだ 京都、行こう。」の20年(ウエッジ社)を図書館で探した

コピーライターの太田恵美さん曰く TVCMのナレーターが長塚京三
さんに決まると 歳の離れた姪に向けて 旅の感想を語るという設定が
浮かんだと・・・・・

一番の思い出はスタート時のコピーで ここからキャンペーンが始まる
パリやロスにちょっと詳しいより 京都にうんと詳しいほうが かっこ
いいかもしれないな

私が好きなのは コピーだけ見て聞いてそれがどこか分かるものですね
六百年前 桜を全部 切りました 春より秋を選んだお寺です
「京」と「水」とでできた「涼」でした