2022年11月 京都秋遊の旅6日間①琵琶湖西岸

近江八景「三井の晩鐘」音の三井寺として有名ですごい迫力の響きです
宇治の平等院 高雄の神護寺と共に 「日本三銘鐘」の一つだそうです

<1日目 11月6日(日)晴れ>石山寺三井寺近江神宮
6時15分東京発 8時24分京都着 大阪からの妻と合流して急いで
8時38分発JR琵琶湖線に乗車し石山駅へ 京阪電車に乗り換えます

京阪は2両編成 石山寺1駅前の唐橋前駅に下車 カーブの連続です

瀬田唐橋は 近江八景「瀬田の夕照」で有名 宇治橋・山崎橋(京都府
大山崎にあった)と共に日本三古橋として有名だそうです
注:日本三名橋日本橋(東京)・錦帯橋山口県)・眼鏡橋長崎県

唐橋が有名なのは 古くは壬申の乱 承久の乱の戦場の地 当時は琵琶湖
にかかる唯一の橋で 都に入る東の関所という役割を担っていたのです
「唐橋を制する者は天下を制す」また「急がば回れ」の語源になっている
こんなに流れの無い川なら渡ればというのは現在の話 信長が下流に堰を
作るまでは 暴れ川として有名で 橋は南方の宇治橋まで無かったのです

芭蕉の句碑「石山の石にたばしるあられかな」と縄文時代しじみ貝塚
予約済ボランティアガイドツアーの始まりです 約90分の予定でした
妻が「閼伽井屋あかいや」や「兜跋とばつ」の読みを当て大喜びでした
(結果は10時から12時半までの150分 ガイドさん大張り切り)

運慶作と湛慶作の仁王像

参道の紅葉も色づき始めました

「くぐり岩」大理石の奇岩・怪石の幽邃の境中 天然自然に体内造り状態
をなすこの池は天平時代のものと(注:立札の文字で「胎内」にあらず)

本堂下の木組みは京都の清水寺と同じとの説明

毘沙門堂毘沙門天像 印塔の敷石は88枚あり 四国八十八ヶ所霊場
土が埋められており これを廻ると八十八ヶ所を巡ると同じ功徳を得ると 

多宝塔(源頼朝の寄進)前の硅灰石は下でくぐり岩につながっている
この石は天然記念物で 寺名である石山寺の由来ともなっていますと

本堂前で 仏像の位の説明 如来ー菩薩ー明王ー天の順位となっていると
如来のトップが大日如来で その下に薬師如来・釈迦如来阿弥陀如来
並列順位にあること・・・知りませんでした

本堂と紫式部「源氏の間」の説明板より
紫式部はこの部屋に参籠し 前方の金勝山よりさし昇る中秋の名月が下の
湖面に映える美しい景色に打たれて 構想の趣くままに筆を取られたのが
有名な源氏物語 以降この部屋を「紫式部源氏の間」と言うようになった

京都周辺で 最高の月見の名所が石山寺 京都市内では大覚寺大沢の池が
「観月の夕べ」の地で有名ですが 石山寺には全く太刀打ちできないと
合わせて 京都周辺で王朝文化を偲べるのは宇治と石山なので 開通した
京滋バイパス」を利用して車で15分 石山寺平等院巡りが楽しめる 

紫式部供養塔と芭蕉の句碑が並んでいる

多宝塔 昭和の4円切手で見ていて懐かしい 本尊は快慶作の大日如来
頼朝寄進と既述したが 1159年の平治の乱平清盛に敗れた源義朝
長男義平・次男朝長・三男頼朝が東国へ逃亡中離れ離れになり 一時的に
義平が石山寺にかくまわれた その恩に応えての寄進であると 

鐘楼 ここの鐘撞きは 鐘を背にして後ろ向きに撞くのだそうです
最後に「豊浄殿」で特別公開中の紫式部展を見学(撮影禁止でした)

本日の昼食は 湖舟「志じみめし」を予定していましたが空席待ちで
志じみ弁当をテイクアウトし 東大門前の茶店外席でいただきました

三井寺にやって来ました(石山寺三井寺駅の駅間は19分)
国宝10重文42の日本屈指の文化財所蔵寺院であるが寺の歴史もすごい
参考:戦国武将と三井寺
   信長 比叡山延暦寺焼き討ち前日に 三井寺に本陣を敷いたのです
      延暦寺と敵対関係(山と寺)にあった三井寺に寺領安堵状を
      前年に発給する用意周到さがあった
   秀吉 天王山の戦いで陣を三井寺に置き 光秀を追い詰めたところ
      陣に光秀の首が届き 京都の粟田口に首を晒した
      後日 秀次事件で寺が関与したと闕所(所領没収)を決めた
      秀吉死去前日 五大老連署の再興申請が許されるまで続いた
      五大老の一人 毛利輝元の手腕が大きかったと言われている
   家康 関ヶ原の合戦で近隣の町人が 三井寺観音堂から高見の見物
      をするなか 浅井長政の姉の子である京極高次正室淀君
      の妹の初)は当然の豊臣方から方針転回し 大津城に籠城し
      西軍の1万5千人を引き付けた 9月15日大津城は開城す
      るも 当日関ヶ原の戦いは既に始まっていた
      京極高次三井寺に入り 剃髪して下城し 高野山に入った
      家康から下山するよう伝えられ 若狭一国の大名になった
   毛利輝元
      毛利氏と尼子氏・大友氏との調停役が三井寺長史道澄でした
      秀吉との橋渡しも同人であった恩から三井寺に対しては深い
      感謝の念あり 三井寺再興に尽力 山口県の国清寺から一切
      経蔵を移築・寄進した
      関ケ原の戦いでは西軍の総大将ながら出陣せず不戦 戦後は
      家康に謝罪し石高減(120万石から37万石)となるもの
      の毛利家安堵 自身も萩城へ・・・生きる知恵のいい見本! 

お目当ての国宝 金堂は工事中で拝観できず 掲示されていた写真を
金堂は秀吉の死後 正室北政所が再建した経緯あり 夫の罪滅ぼし?

昨年の1月4日より 鐘撞き1回800円(従来300円)に
気軽に撞き過ぎると割れてしまうリスクあり値上げしましたと

三重塔と一切経
この間の道は映画のロケで多用されている
「武士の献立」「銀二貫」「天地明察」など我々が見た映画でも・・・

弁慶の引き摺り鐘

閼伽井屋 現在もポコポコと祠の中で音が 妻はスマホで録音していた


この展望台から関ヶ原の戦いの前哨戦が見えたという話が・・・

右は 現代の名工(石彫工)長岡和慶の奉納寄進像
裏面には本名の長岡和敬(ながおかかずのり)の名が記されており
それを妻が発見 私と同じ名前しかも同音での呼び名にはビックリ!

琵琶湖疎水沿いに駅まで戻ります 京都へ通じる疎水です

近江神宮にやって来ました 妻の足が攣(つ)りました
本日の万歩計が2万5千歩を越えていました

最後の一踏ん張りです
そもそも この近江神宮は 大化の改新で有名な天智天皇中大兄皇子 
神としての名前は天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ)が
古都・近江大津京の跡地に 神武天皇即位2,600年を記念して 昭和
15年に創建されたのです

近江神宮まで足を延ばすか決めかねていましたが 直前にTVで本年の
小倉百人一首高校生選手権大会と かるた部合宿を見てしまったのです


映画「ちはやふる」のイメージが強い上にTVがかぶさって尚更でした
近江神宮は「時の神」と言うより「かるたの聖地」の方が有名なのです

天智天皇が詠んだ下の句が 小倉百人一首の第一首に選出されました
「秋の田のかりほの庵(いほ)の苫をあらみ 我が衣手は露にぬれつつ」

かるたは以前から盛んでしたが 昭和7年にルールが統一されました
無差別に選ばれた50枚を 自陣・敵陣に25枚づつ並べ最初の15分
で暗記し 詠まれた札を取り合う 相手陣の札を取れば自陣より1枚を
相手に渡し 最後自陣の札を無くした方の勝ちとなるのです

毎年1月ここで名人位・クイーン位決定戦が 7月には全国高校かるた
選手権が行われます 「畳の上の格闘技」と称され 文化部ではなくて
運動部として認識されています まさに真剣勝負そのものなのです

先ずは内拝殿に一礼 本殿までは行けず

壁に架けられているだけで「かるたの聖地」的雰囲気は全く無し
敷地内の一番奥に「近江勧学館」があり そこが競技かるた大会会場と
妻がもう歩けないと休憩中でもあり 一人で往復することは止めました
本日は日曜日 七五三・初宮詣等のジジババと初孫のご一行で大賑わい

駅への帰路 歩道に敷かれた近江八景のタイル石を発見しパチリ

本日の夕食は 京都恒例のJR京都伊勢丹地階の食品売り場セールです
閉店間際7:45ごろから安売りが始まります 最後は半額になります
我々は20%引きで買いましたが もう少し粘れたのになあ・・・
だって宿泊ホテルは「都シティ近鉄京都駅」駅ビルの中にありすぐです

 

最後に:京都に来てどうして滋賀県に行こうと思ったのかですが・・・
旅行直前 NHKTV「英雄たちの選択」「日本の宝を守れ町田久成
博物館創設への挑戦(2022・10・19)」を見たことが大きい

町田久成(1838~1897)は旧薩摩藩士 明治初期の官僚出身で
慶応元年(1865年)英国留学し大英博物館に感動 当時の廃仏毀釈
の流れの中で美術品破壊・海外流出を惜しみ 私財を投じ収集を続ける
後日 東京国立博物館初代館長に 1889年に師の桜井師が没するに
及び出家し仏門に入った(三井寺光浄院の住職になった)

町田久成で番組は終わるが 実は日本美術を救ったアメリカ人がいます
日本が欧化政策を進め 日本古来の文化財が軽視されていた明治時代に
その価値を認め 保護に努めた米国の哲学者がアーネスト・フェノロサ
日本政府の要請により来日(1878年) 美術への造詣も深く 奈良
文化財ギリシャ・ローマ美術に通じる美を見出した

神仏分離令からの廃仏毀釈運動は収束しつつあった
東大で哲学・政治学を講義しつつ奈良・京都の古社寺や古美術商を廻る
教え子の岡倉天心(現東京芸大設立)が通訳で同行し 東大寺の日光・
月光菩薩像 唐招提寺の破損仏「如来形立像」を素晴らしいと絶賛した

フェノロサとウィリアム・スタージス・ビゲロー
三井寺の律院に法明院があるが ここに桜井敬徳住職の銅像と墓がある
隣接して住職の弟子である町田久成フェノロサ・ビゲローの墓がある
(注:町田は1873年 米国人二人は1885年に受戒している)
フェノロサは帰国後ボストン美術館東洋部長となり 英国の大英美術館
で死去 遺言で1年後に遺灰移送され受戒した三井寺法明院に葬られた

ビゲローはボストンの医者 モースやフェノロサと共に1882年横浜
に到着 伝統的な日本絵画の保護育成に尽力 7年後帰国も岡倉天心
要請に応え 日本美術院設立に際し巨額な資金援助(兄弟家族存在せず
莫大な資産を一人継承した)そしてフェノロサの後ろ盾 桜井師の宗教
活動も支援した 注:歌川派の浮世絵を安価に大量収集して帰国したが
その大量の浮世絵がボストン美術館に寄贈され現在に至っているのです
恥ずかしながら 当時の日本は自国の芸術に誇りを持てなかったのです

町田久成が没した1897年には 4月に東京図書館帝国図書館
5月には帝国京都博物館が 6月には古社寺保存法が制定されました
1902年再来日したビゲローがこれを聞き及びとても喜んでくれた

実は法明院に行きたかった! 二駅向こうですがあまりにも辺鄙な地
にあり 道なき道に近く足下不如意であり 断念せざるを得なかった 

 

 



 

 





 































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