1972年の夏⑫最終章 無事に帰国できるか?

1972年9月11日(月)17時 横浜港に無事到着しました
よくまあ帰ってこれたものだ
(旅日記を出した相手に向かって)最後の絵葉書はオランダからだったと
思うけれども それからが大変だったんだよと訴えている

フィンランドからソ連へ出発する際 予約しておいた筈の列車の席が無い
んだよ インツーリスト(ソ連の国営旅行会社)の係員に尋ねても
「ノー」の一点張りで予約カードを見せても 全く相手にしてくれない 
..............................................................................................................................
ここでちょっと脇道へ

悔しかったヘルシンキ駅を2018年に再訪し写しました 残念ながら掲
示板にレニングラード行きの表示は無く 今はサンクトペテルブルク行き
の表示でした

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 ヘルシンキ中央駅は1919年に完成した「世界の名駅の一つ」です

f:id:HATTYAN0234:20200515154342j:plain分かりますか?メーキャップしています 下左がビフォー下右がアフター

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ランプを持った石像4体は ロックバンド「KISS」のコンサートの為
マスクをかぶせられて まるで市民のアイドルのように 楽しくイジられ
ているのです...............................................................................
元に戻して
乗るべき列車を目の前にし乗れなかったんだ 夕焼けが綺麗なヘルシンキ
のホームに 我々二人呆然と立ちすくみ「日本に帰れなくなるぞ・・・」

f:id:HATTYAN0234:20200504134140j:plainなにしろソ連国内の旅行スケジュールは あらかじめ全てが決まっていて
一つ狂ってしまうと やり直し(順送り)が効かないというものだから大
変なのだ~
注:1972年当時も2020年の現在もロシア旅行の組立ては変わって
  いない
  ロシアを旅行するためにはビザが必要→ビザを取得するためにはバウ
  チャーという書類が必要→バウチャーを作成するためにはホテル料金
  などの先払いが必要→先払いするため あらかじめ全ての日程を決め
  ることが必要となる

ヘルシンキレニングラード間は 一日2本しか列車が出ないというのに
その2本目の列車に乗れなくなり 翌日乗る羽目になってしまった!

<9月3日の悪夢> この日の支払いメモに 電話代との記載があるが 
相棒のS君がソ連大使館にTELしたが効果はなかった?
注:相棒S君から訂正の連絡あり このときソ連大使館に出向き 当日が
  日曜日だったため 旅行担当者の電話番号を聞き出し電話した こち
  らの英語も良く通じなかったのだろうが 相手が酔っ払っていたこと
  だけは鮮明に覚えていると そのあとで駅に戻り 駅員に何回も食い
  下がった(そうだっけ?)

うなだれてヘルシンキのユースHに3泊目 さすがにディスコには行かな
かった
3日に乗れなかったため 仕方なく4日の13時発の列車に代金を もう
一度支払って乗った(7,600円相当なり)

f:id:HATTYAN0234:20210206065222j:plainレニングラードに到着したのが23:06で 街を見物するどころではな
かった 約30分後にはモスクワ行きの列車が出るんだから 夜の駅前広
場を見ただけで レニングラードはおしまいだ(結局レニングラード
全部割愛したことになる)
注:頭が変になりそうな旧ソ連の駅名のつけ方
    レニングラードには フィンランド駅やモスクワ駅という主要駅があ
  ります モスクワにはレニングラード駅があります・・・・・・・
  ソ連ターミナル駅の駅名は その駅を発車する列車の目的地の地名
  が付けられるのです(これらの駅名は19世紀以来の歴史あるもの)

後で分かった事ではあるが ソ連という国は 団体観光客優先で 個人の
一人や二人 知ったこっちゃない という考え方なんだ 3日の我々の列
車にはハンガリーの団体客が ドカーッと乗り込んだために 勝手にキャ
ンセルされたらしい
こんな理不尽が許されていいものか ロスケめ覚えておれ!
(と強がっている)

ロシア文学愛好家の相棒S君 憧れのレニングラードが見られずというの
で悔しがっていたなあ~(こちらは悔しさ半分 内心あゝこれで日本に帰
れるとホッ)

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46年前には行くことができなかったエルミタージュ美術館を訪問 
S君悪いね!

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サンクト・ペテルブルクの観光名所といえばここで 2018年に訪問

f:id:HATTYAN0234:20200504134722j:plain 上はアエロフロート航空便の領収書 日本円41、150円と見えます
が・・・108ルーブル41,150円で1ルーブル381円に 当時
125.8円では?
ソ連時代の複雑な旅行予約システムに従うための多くの手数料が発生する
ためで このシステムは2020年のロシアでも続いているとか・・・

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宿泊したウクライナホテル 
スターリン様式のいかめしい外観170m29階建
注:現在は五つ星のラディソン・ロイヤル・ホテル・モスクワと改名

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こんな食券が渡されました 食券は単なる1ルーブル補助でしかない?

9月5日(火)8時モスクワ到着 駅に着くとインツーリストの係員が出
迎え ポーターが荷物を持ちホテルまではタクシー ホテルはデラックス
またポーターが荷物を持って先導してくれます これはレニングラード
行けなかった件のお詫びの意味から インツーリストが配慮してくれた? 
何かあまりにも低姿勢?

2泊3日のモスクワ滞在中 写真から見て赤の広場モスクワ大学に行っ
たようだ 相棒のS君から情報あり チェーホフ記念館にも行ったとのこ
と(全く記憶無し)

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モスクワ大学はすごかった そびえ立つという感じだった
ウクライナホテルと同様スターリン・クラシック様式で 高さ240m
36階建 「セブンシスターズ」と呼ばれ 同様式の建築物が7つあり 
大学は代表格です
ニューヨークの摩天楼にコンプレックスを抱いていたスターリンが それ
に負けないビル群をと考え モスクワ800周年を記念して建設されたと

モスクワ大学だけは コネが通用せず 本当に秀才でなければ入学できな
い大学で ここを卒業さえすれば「ソ連社会の超エリート」が約束される

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赤の広場には 昼と夜両方行ったようだが 何の記憶も感想も浮かばない
参考:「赤の広場」の赤は実は社会主義とは関係ない ロシア語のクラー
   スナヤ・プローシャチの「クラースナヤ」という言葉は 現代ロシ
   ア語では「赤い」という意味だが 古代スラブ語では「美しい」と
   いう意味だったのである
   だから「赤の広場」は本来「美しい広場」であったのだ・・・・・
   ついでにもう一つ 広場に建つワシリー寺院の たまねぎ型の屋根
   の形? たまねぎ坊主にしたのは 雪が積もらないようにするため

f:id:HATTYAN0234:20200624163020j:plain上の写真 左ワシリー寺院 右クレムリンウスペンスキー大聖堂 
どちらもイワン雷帝と関係の深い名所 1944年映画「イワン雷帝1.
2部」はS・エイゼンシュタイン監督が直前に観劇した日本の歌舞伎から
見えやにらみを取り入れ いつも以上に顔のアップを多用 ロシアの統一
から雷帝にかけ上るまでの一代記 日本の織田信長と同時代人で気性の荒
さも同じ スターリンが好んだ証し ただし第2部は1958年の公開 
スターリン批判が見え 彼の死後公開された ラスト10分のカラー画面
こそ 流血の赤 後のナチスにつながるホロコーストを想起させる

f:id:HATTYAN0234:20200705130540j:plain中野京子さんの「怖い絵」より「イワン雷帝とその息子」
狂気の最後ー後継の次男殺しを描いたであろう第3部は同監督の死で製作
されず 1925年公開「戦艦ポチョムキン」を凌ぐ大傑作になっていた
だろうに残念!
ポチョムキンは(日本では 翌年輸入されるが 共産党の赤ということで
お蔵入り 1967年にようやく公開 この映画1958年ブリュッセル
万博で「映画史上傑作12選」の第1位獲得 キネマ旬報の外国映画部門
オールタイム・ベストテンでも第6位獲得する)大好きな映画です

そもそもソ連とは? 実は大学時代アルバイトの主体は 日本海映画とい
ソ連映画の輸出入会社にいて 映画の前売り券を持って 東京都心部
会社を回って総務の女性に依頼 映画終了後売れた券代と残った前売り券
を回収する仕事内容 そのせいかソ連映画を見る機会は多かった 
一番人気があったのが「戦争と平和(総集編)」で この映画の主演女優
リュドミラ・サベリーエワ 即刻ファンになった 彼女は1970年製作
「ひまわり」にも出ていた ソフィア・ローレンが妻 マルチェロ
マストロヤンニが夫役で その夫が記憶喪失した後の妻役であった
 
ソ連の若手女優は皆さん華奢です 1964年「ハムレット」のアナスタ
シア・ヴェルチンスカヤ まさに理想のオフィーリアであった 好きな女
優名はすぐに覚え 今でもスンナリ出てくるのは我ながらスゴイ! 
他には1957年「戦争と貞操」のタチアナ・サモイロワ 以上三人です

そうだ ソ連が舞台の映画が主題でした 1965年「ドクトルジバゴ」
映画よりも バラライカが奏でる「ララのテーマ」映画音楽の金字塔!

ハバロフスクへ向かう空港で 120名もの総評の団体がロビーを占領し
ている まるで羽田空港のように振る舞っていて 外人さんが隅の方で
小さくなっていた
日ソ間の労働組合連合大会があったとのことで ソ連で大歓迎を受けたと
自慢顔 この連中とは ハバロフスク~ナホトカのシベリア鉄道 ナホト
カ~横浜の船中でもずーっと一緒 日本に帰るのが嫌になっちゃった
(と書いている)
参考:モスクワ~ハバロススク16時間飛行そしてナホトカまで列車で
   15時間 モスクワの飛行場はシェレメーチェヴォ空港(多分) 
   市内から北北西に40km

f:id:HATTYAN0234:20200504134745j:plain 上はハバロフスク号の食事スケジュール あらかじめ全部決まっている
追記:相棒S君から更に情報が・・・・
   上記私のテーブル番号は33 S君と二人の日本人の女の子と
   ツアーガイドの女性は34だったようで 何で私一人別のテーブル
   にされたのか分からず
   気になるのはツアーガイドの女性って誰?美人だった?
   (料理はロシア料理 ソ連の正餐は昼食 コース料理で出され
   キャビアも食べた)

 ナホトカ~横浜まで2泊3日 52~53時間の船旅 揺れもせず快適
 でした 乗客333名乗員97名 4,772トン全長122.15m 
 西ドイツ製 ナホトカ航路は1961年からスタート 1991年ソ連
 崩壊に伴い翌年廃止されたそうです

というものの我々は モスクワで知り合った女の子二人と 少しだけ
ゴーゴーをし あとはトランプをして遊んでいた(この二人との写真だけ
残っていない?)
注:一人はお茶の水女子大4年 一人は東大3年で 帰国後私は東大生の
  R・Sさんと1年半ほどお付合いをしていたので もしかしたら結婚
  まで行ったかも?

おかしいなあ~この二人の写真が無い というか モスクワでの赤の広場
以降の写真が一切無い・・・・・・・
そうか!とここで思い出しました ソ連では軍事施設 鉄道 空港 航空
機内等での写真撮影は禁止されていたのです 地下鉄だって 地下深くを
走っていて地下シェルターとしての役割があって 撮影禁止なのでした
(現在はOKらしい)
日程に余裕があれば ハバロフスクのシベリア抑留で死亡の日本人墓地 
ナホトカの日本人収容所・墓地 日本への引き揚げ拠点など歴史への巡礼
も組み込みたかった

それと何だか変だったのは時差 ソ連って各到着時点で狂っていると思え
るほど時計が変 これは 世界一広く東西に長いため 時差の区切が11
段階もある(国土の東側と西側の時差は10時間にもなる)更に言えば 
日本と同じ経度のウラジオストック 日本より2時間早い 緯度が違うか
ら? 理解できません!

ソビエト社会主義共和国連邦の国旗について
革命により帝政を倒しソ連時代が始まった フランス革命の赤い旗に影響
を受けて ソビエト議会は 人々が立ち上がることを意味する赤い旗をつ
くったのです
ハンマーと鎌は労働者と農民を意味する 星は共産党だ ソ連時代周囲の
東側諸国(バルト三国 ウクライナ等15ヵ国)の国旗にも ハンマーと
鎌・星があった

f:id:HATTYAN0234:20200627211719j:plain1991年 ソビエト連邦の崩壊により 
ロシアの国旗は大帝時代の三色に戻った

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上は ソ連邦に従う東ヨーロッパの共産主義の国々の国旗 自分の国らし
さを出すことより ソ連に賛成する方が大事だったのが分かります

最後の日も大詰め 東京湾に入ったころから 早く家に帰りたいと思うと
同時に「もう このまま死んでもいい 青春を十二分に満喫した」という
感慨に浸った

追記:相棒S君に種々の質問し その回答から
   空港名は忘れたが ハバロフスク行きの飛行機を待っていた 
   総評の団体と同じ飛行機に乗るのかと思っていたら 直前になって
   係員に「お前たちの飛行機(プロペラ機)がもうすぐ出るから走れ
   !」と言われて走った そのとき女性二人の荷物を持ってあげたの
   を覚えている 本来はツーリスト優先搭乗のはずなのに機内に入っ
   たら 現地人が既に搭乗済で 我々は空いた席にバラバラに座らざ
   るを得なかった 因みに総評の団体さんはジェット機なので先着し
   ていた(畜生!)

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   ハバロフスク

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ハバロフスクからナホトカまでは 4人用2段ベッドの寝台車 シベリア
の何の変哲もない原野をただただ走行しナホトカへ向かう 食堂車でボル
シチを食べたのと 出発時に現地の小学生のピオネール(少年団)が
100人くらいで ブラスバンド演奏をしてくれたのを覚えていると

悔しかったヘルシンキレニングラードの二重払いの件は 帰国後JTB
で返却してもらったと その際 いろいろアドバイスをもらっていた先輩
から「大変でしたね でも良くあること」と言われたことを思い出しまし
たと・・・・・・・

f:id:HATTYAN0234:20200603165019j:plain家の隅々を探し 出てきました JTBの払い戻し証
(昭和47年9月26日付)

毎日の使ったお金(ソ連ルーブル)について記しておく 
・9/4 市電0.5M 切符104.4M スーパー8.22M タバコ
   1.1M タバコ巻き機2M(ここまではヘルシンキでの支払い)
   紅茶0.04B
・9/5 アイスクリーム19カペイカ 飲み水3K 夕食1B63K 
   (ボルシチ 肉 ポテト コーヒー パン)1RUB=125.8円
・9/6 朝食1B 壁掛け5ドル11セント 木彫り2ドル28セント
   昼食84K 地下鉄5K×2 ジョニ黒7.04ドル
・9/7 朝食1B75K バウチャー1.5B タクシー20K
   ナポレオン23.23ドル 皿150円 昼食3.3B 紅茶5K
      当日のバウチャー(クーポン 商品引換券)代金?昨晩の夕食精算
   か? 一流ホテルでは旅行会社同様バウチャーを発行できる資格を
   有している
・9/8 タバコ22セント 切手2B42K
   この切手購入は ソ連のお金を日本に持ち帰っても価値が無いので
   買った(今はもう無い)
・このあと船に乗船 お金を使用した記録無し
 このとき購入のジョニ黒とナポレオンは36年後に 妻に捨てられて
 しまった (だって もう飲まないでしょ)

今回の旅行は44泊45日間
ホテル宿泊20日 機内泊2日 車中泊12日 YH宿泊7日 船中泊
3日 旅行総額約50万円(全額自分で調達しました 本当です )

<今回の旅行を振り返って>という感想が旅日記に残されている
今回の旅行では 西欧と日本を比較することができたことが一番の収穫な
のじゃないかな 日本にいては分からないが ヨーロッパに直接来て肌で 
感じた何か これがきっと自分自身の栄養になったことと思う 
さすがだと思ったのはロンドンとパリ 特にロンドンだ 経済的には没落
したと言っても 日本よりずーっと文明国である 市の半分が公園ではな
いだろうかと思えるくらい緑が多く 道路はキレイ 公園内を老夫婦が手
をつないで歩くほほえましい光景は いつまでも忘れられないものである

反対にスペイン・イタリアと南下するほど生活は貧しいものとなる だけ
ど人々は働いているという印象が感じられる点で 北欧より人間味がある
ように感じた
北欧の人間は いつ働いているんだろうか不思議で仕方ない 汗の臭いが
感じられない 無臭の人間の集団みたいである 社会保障の行き過ぎとい
うのも考え物
中間に位置するスイス・ドイツ ここら辺の国の人々が一番理想である 
私は今度生まれてくるならドイツ人に生まれたい 少なくても日本より
生活し易いだろう 気候も快適 夏の暑いさなかでも汗をかかないのは
素晴らしい 

それと今回の旅行中 ドイツでなぜあんなに日本人選手を応援してくれた
のか? そうオリンピックです TVでの水泳青木まゆみ選手の金メダル
の瞬間だったが 我々より大きな声で声援 ものすごーく喜んでくれた
参考:ミュンヘンオリンピック
   特筆すべき成績が男子体操です 体操団体金(ローマ以降4連覇の
   偉業)個人総合と 平行棒 鉄棒で金・銀・銅独占 表彰台で日の
   丸が3本です
   あと男子バレーボール金 TV「ミュンヘンへの道」の効果?
   もちろん日本得意の柔道 レスリングでも大活躍でした

参考:9月5日のミュンヘンオリンピック事件
   パレスチナ武装組織「黒い9月」により選手村襲撃 イスラエル
   代表選手11名が人質となった 最後警官1名と合わせ12名全員
   死亡で 最悪の結果となった(すごいのは 事件があっても競技日
   程を中断せず最後まで実施したこと 現地はどうだったのだろう 
   我々はモスクワにいたせいで ニュースを知らず 帰国後知った)

最後に兼高かおるさんの名言
「世界の旅」は人生の学校だった
世界を見る目 日本を改めて見つめなおす目が開かれる

f:id:HATTYAN0234:20200601115550j:plain上のヨーロッパ地図で ロンドン発モスクワ到着までの旅程コースを示し
ました
注:パリ~マドリッドの経路 正しくはパリ~バルセロナ経由~
  マドリッドです



   

 

 

1972年の夏⑪ユーレイルパスあと三日北欧へ

8月28日(火)夕刻アムステルダム駅に到着
ユーレイルパスもあと三日間で有効期限が来るため 最後の一踏ん張りで
北欧を巡りフィンランドを目指す必要があります 予定より少し遅延気味
で またも車中泊を復活する必要があります
夜といっても少しでも観光をと一人散策 相棒は怖い街だと言ってユース
H(下記注)から出ず 興味津々で「飾り窓地区」に入るがさすがに背中
が冷たい 後ろからグサッと短刀を突き付けられる感覚がして さっさと
表通りにあるユースHに戻った
注:YOUTH AND STUDENT HOTEL  THE OLD BAKERY(今も現存)

アムステルダムを舞台にした映画 それは1959年の「アンネの日記
ですね あまりにも苦しい ナチスに見つからないでほしい! 観客全員
の願いでした

8月29日(水)7:30起床 アムステルダム近郊フォレンダムにバス
で行く
このところ相棒とも別れて行動するようになって来た ズーッと一緒では
愚痴が出るからです バスの中で知り合った女の子二人と外人さん一人と
半日同行した(こんなに多くの日本女性が 海外に旅行に来ているなんて
想像していなかった)

f:id:HATTYAN0234:20200503132328j:plain 自転車王国のオランダです  アムステルダムでは 人間の数より自転車
の台数の方が多く 今ハーグを訪れる観光客の70%が 自転車で旅する
ほどだそうです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっと脇道にそれて 自転車王国誕生の背景を
1960年代 自動車が急速に普及すると同時に 交通事故による死亡事
故件数が増大 1971年 子供のための安全なサイクリング環境を求め
る社会活動が起こる 追い打ちが 1973年の石油危機~産油国の米国
・西欧向け石油輸出ストップ~で自動車の信頼性・持続性が大いに揺さぶ
られたことも後押しとなる

「人生という冒険を一緒に旅する信頼のできる仲間」として すりきれて
くたびれた古い自転車 長~く続く愛情を証明するものとしてステータス
があります
保険会社の条項には 「ドライバーはサイクリストと自転車に対し 最低
50%の金銭賠償をしなければならない」と記載があるように 自転車愛
好家を守っているのです 道路には専用レーンを確保し平たんな道づくり
を原則にしています
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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フォレンダムは「風車の町」として有名 観光用なのか人々が民族衣装に
木靴をはいて生活しています 我々も民族衣装に着替えて 記念写真を撮
ることにした
この英国紳士ロナルドさん School of Education University of Liverpool
(後日調べてみるとイギリスの名門校でした 日本人と会話がしたかった
のかも知れませんが 我々三人とも英会話力乏しくガッカリされたかも)

市内のダム広場に戻り 3人で結婚問題について話す(そういう年齢?)
プロポーズは女性からするのはおかしいとか 浮気や離婚についての話題
だった 男性は一歳年上か三歳下の女性がいいそうだが 本当なのかなあ
~(興味無し)
彼女たちからも名前・住所をもらうが 日本にいたらこんなに簡単に教え
るかな 海外旅行先での開放感なのか 私が無害な人間に見えるのかなと
変な感じだった

参考:ダム広場って?13世紀アムステル川河口近くの平地にダムを造り
   人々が住み始めた これが現在のアムステルダムの始まりでその中
   心がダム広場 「世界は神が造りオランダはオランダ人が造った」
   とよく言われる

オランダ王国の国旗について
もう一つオランダで始まったと思われるもの それは「国旗の三色旗」
でしょう 国旗のデザインのパターンでは最多が三色旗 特に欧州に多く
フランス オランダ アイルランド ルクセンブルク ブルガリアそして
ルーマニアなど挙げればキリがない

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欧州ではどうして? 真相は 16世紀 世界有数の先進国で当時の欧州
のリーダー的存在であったオランダが 国旗に三色旗を採用し 他国もそ
のデザインに習ったため・・・・・・・・・・

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木靴の製造場所で 大小2個購入
アムステルダム駅に戻り相棒と合流し 夜行列車に飛び乗りデンマーク

アムステルダム中央駅もコペンハーゲン中央駅も 両方とも世界の名駅
選定されているのに写真一枚残っていません この当時は「鉄ちゃん」の
要素はゼロで もったいないことでした (2018年に再訪した際に 
ちゃんと撮影もしました)

f:id:HATTYAN0234:20200519053634j:plain「世界の名駅」の一つ コペンハーゲン中央駅 チボリ公園に一部直結

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「世界三大ガッカリ」のコペンハーゲン人魚像です
左は1972年当時 右は46年後の人魚像 前回とは違うところがある
全身を赤く塗られたことは何回もあるが 1984年には右腕を切断され
(後日返却)1998年に頭部失い(後日返却)2003年台座がダイナ
マイトで爆破され 像の胴体が海に投げ出された 修復に1か月半要した
その後も赤やピンクに塗られるなど損傷が続いている なぜそれほど痛め
つけられるのでしょうか?

デンマーク王国の国旗について
デンマークの国旗は世界最古で13世紀初めにできた 交差する場所が左
にズレた十字架のデザインは 近隣の国でも人気で「北欧型十字」と呼ば
れる様になる 北欧五カ国は同じデザインで 十字の印はキリスト教を大
切にしている国々です

f:id:HATTYAN0234:20200627190208j:plain8月30日(木)7:55起床 コペンハーゲンもまた一人で回る
どこへ行っても 日本人に出会うので この日は日本人の行かない場所へ
行こうと決めて田舎方面を目指す 列車に乗り窓からの風景を観察すると
田舎なのに社会保障が行き届いているのだろうなあ 日本の様に あばら
家なんて全くない 庭付きの小綺麗な家々がずーっと続いていた・・・ 
でもそこで暮らす人々の姿見えず

ハムレットの城クロンボー城を目指した 開城時間を少し過ぎていたので
内部には入れなかったが 城の外部を散策した この名城が世界遺産
登録されたのは2000年ですが 実は私の2年前1970年 昭和天皇
・皇后が訪問されていたことを知りました ずーっと後日ですが2017
年6月 皇太子殿下(現令和天皇)も訪れているのです 日本の皇室が
ファンであることを嬉しく思いました
昭和天皇も私も世界遺産への登録前に訪問しており先見の明ありですね

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クロンボー城です シェークスピアは HAMLET という名前をどこから
選んだ? 実は デンマークの伝説上の王子に AMLETHという人物がい
て 綴りの最後のHを一番前に持ってきて アムレスをハムレットに変え
たということらしいです

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集合時間を合わせていた相棒と チボリ公園で列車時間まで2時間程度
過ごした 深夜の2時まで開園しているって 東京の後楽園でも無理で 
少し羨ましかった

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左の舞台上でダンスや劇が披露される 今も続いている
(46年後に再訪した際は 何だこんなものだったかと少々ガッカリ)

f:id:HATTYAN0234:20200504175607j:plain再訪時のチボリ公園入口 午後10時(この時間でも子供がいっぱい)
またも夜行に飛び乗り スウェーデンの首都ストックホルムを目指します

スウェーデンを舞台にした映画といえば イングマル・ベルイマン名監督
の作品群ですが どれを見ても良く分からないのです あまりにも宗教文
化色が強いのです 一番印象的な作品が1963年「第七の封印」でしょ
うか 見る価値あり

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<要約すると>
十字軍遠征から帰還した主人公が 妻の元へ帰る途中死神に会い 命を賭
けてのチェス勝負 旅の合間に勝負を続けながら いろいろな人に出会う 
世は黒死病が流行り いつわが身にという中「死後 無になる恐れ」を抱
きつつ故郷へ向かう
ヨハネ黙示録やラストの「死の舞踏」のロングショットが印象的だ

ヨーロッパの映画は 製作者の側が あえて決着をつけないのが常道 
更に人生は続く・・・・・・・・・・型的な幕の下ろし方をするようです
ここでベルイマン監督の1962年「冬の光」を紹介して さあこれで 
決着を付けることができるでしょうか 答えられますかと皆さんに問うて
みたいのです

自身が無神論者の同監督が 映画の中で 教会の寺男にあえて言わせてい
るのが 「イエスの苦悩は心の痛みだったのでは?」 三年間一緒に暮ら
した弟子たちは イエスの教えを理解せず 兵士が主を捕えに来ると
(抵抗もせず)彼を裏切った イエスは孤独に陥った さらに十字架にか
けられてからは 父なる神に見捨てられたと思った 死ぬ直前にイエス
神に大きな懸念を抱いた(のではないか?)神の沈黙こそが イエス
最大の苦悩だったのでは? 沈黙の意味するものは?

ニーチェは「神は死んだ」と言う 人は何を信じればいいのか?
ヨーロッパのインテリたちが さながら通過儀礼のようにベルイマン映画
に親しんでいるようですが 上の問いにどう答えるのか?神は存在するの
でしょうか?


8月31日(木)8:40起床(というか終着駅)ストックホルム駅到着
ストックホルムは 北欧一物価の高い都市だそうで 長居は無用とシリヤ
ラインという船でヘルシンキを目指す この乗船までが ユーレイルパス
の有効期限で十分活用しました 16:45発翌朝10:30ヘルシンキ
北欧風ビュッフェ食事付??の移動ホテルです 白夜は終了しているが 
昼間時間の長い日が続きます
北欧は夕陽の沈むころが一番明るくなり美しい 船は全く揺れません

追記:ユーレイルパスホルダーは 乗船料が20~50%割引になるそう
   です 船室予約及び港湾使用料は必要で 朝晩のビュッフェ予約も
   必要(有料)パスが1STクラスであれば ストックホルムでのSJ
   ラウンジ無料だそう支払いメモの50Kには上のどこまで反映され
   ていたのか全く覚え無し!
最近になり 我々が購入したユーレイルパスが 実は1St.クラス用であっ
たことに気づきました 旅行中一等車に乗ったことあったのだろうか?

毎日の使ったお金について記しておく     
1NLG=93.38円 1DKK=43.66円  1SEK=63.65円
・8/28 荷預け0.7ギルダー YH紹介料1G ユースH9G タバコ
    1.75G 夕食5.75G  
    (さすが物価高 ユースH料金が840円とは高い)
・8/29 切手1.2G 絵葉書1.35G 荷預け0.35G バス2.9G
    民族衣装1.5G チップ0.25G 皿6G 皿敷き2.5G
    木靴2.75G 昼食4.25G 木靴7.5Gと11.4G 
    ジョッキ5G 灰皿1.25G バス1.3G タバコ1.5G 
    パン2.2G
・8/30 荷預け2クローネ ジュース3.75K パン1.75K 
    フィルム11.5K 果実3K クロンボー城1.25K 
    ホットドッグ2K チボリ公園2.5K射撃2K 
    やじろべえ60K ビール3.5K ビスケット2.5K
・8/31 荷預け2クローナ お土産12.5K バス1.25K 
    スカンセン3.5K アイス0.5K ホットドッグ2個3.6K 
    地下鉄1.25K 船50K(3,182円) ワイン15.3K
    (お土産が何だかは不明なるも 有名なデパートチェーンの
    オーレンス(AHLENS)の購入レシートが残る)     

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上の写真2枚「スカンセン野外民族博物館」1500年代のスウェーデン
にタイムトリップできる人気スポットだとあります 特に子供に大人気だ
そうです アルバムに貼られた写真を見て 「ここはどこ?」と全く記憶
に無い場所でした(今回 スカンセンって??ということで 妻が調べた
上で教えてくれました)
なぜ こんな所に出かけた?ストックホルムなら次の2か所・・・・・・

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そうです ノーベル賞授賞式で有名な「市庁舎」トリップアドヴァイザー
1位の「ヴァーサ号博物館」のどちらかでしょう 2018年訪問でき
ました
追記:上記の博物館 開館は1990年6月なので1972年に存在せず

ここで ユーレイルパス21日間での行動・宿泊につきまとめておきます
  8月11日 パリからマドリッドへ向けての 車中泊
  8月12日 マドリッドとトレド      マドリッド
  8月13日 プラド美術館と闘牛見物    車中泊
  8月14日 コルドヴァでメスキータ見物  マラガ泊
  8月15日 地中海マラガで水泳      グラナダ
  8月16日 アルハンブラ宮殿とその庭園  車中泊
  8月17日 リヨンへ向け移動日      車中泊
  8月18日 リヨン経由スイス入り     ベルン泊
  8月19日 ルツェルン散策        ルツェルン
  8月20日 ピラトス山~チューリッヒ   車中泊
  8月21日 ローマ市内散策        ローマ泊
  8月22日 フィレンツェ~ベニス     車中泊
  8月23日 インスブルックミュンヘン  車中泊
  8月24日 ウィーン散策         ウィーンY・H
  8月25日 ザルツブルク観光       ザルツブルクY・H
  8月26日 ミュンヘンオリンピック    車中泊
  8月27日 ハイデルベルク観光      フランクフルトY・H
  8月28日 ライン川下り・ケルン     アムステルダムY・H
  8月29日 アムステルダム風車村     車中泊
  8月30日 クロンボー城チボリ公園   車中泊
  8月31日 ストックホルム        船中泊
合計21日間の強行軍です 21泊中で車中泊(船中泊含む)が11泊
ユースホステル泊が4泊 いかにも学生の駆け足周遊貧乏旅行ですね~
「来た 見た そして去った」 一か所でゆっくり噛みしめてデワナイ

9月1日(金)~3日(日)8時~9:30起床 ヘルシンキ滞在
市庁舎前の朝市が実にいい 花 果実 パン 雑貨それに港の前のせいか
沢山の魚がドバーッと並びしかも安くて美味しいのです 三日間通い続け
たほどでした

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有名なカウパットリマーケット広場は 駅から1km(別途地図の⑭)
ヘルシンキには欧州全体の中でも特に娯楽が無いのです 遊びたいと思う
若者のレジャー はけ口はディスコ以外に無いのでは? 夜になると14
~20歳までの若者は ディスコに出かけて踊りまくり ウップンをはら
すようで どこのクラブも若者の熱気が充満している 私もY・Hで知り
合った仲間と行ってみたが 皆気さくで 初めて会う変てこ踊りのこちら
とも 女の子は喜んで踊ってくれた
汗一杯かいて滅茶苦茶に踊りまくったせいか 翌日腰が痛くてまいった

何でも 日本人はもてる 特に髪の長い男ほどもてるとか フィンランド
は元来アジア人種の血が流れているからか? 私の踊った相手の子からは
電話番号とか書いたメモを手渡された 他に2名から名前と電話番号だけ
のメモも残っている

f:id:HATTYAN0234:20200503140750j:plain支払メモを見てみると 翌日もディスコに出かけている その際に同行し
た相棒S君からは 踊りながらキスしていたぞと言われたが でも本人は
全く覚え無し!
ユースHでは門限というものがあって 2日続けて時間オーバーとなった
ために罰金として1回分1マルカずつ支払っている(これも旅のいい思い
出ですね~)

9月3日は 本来の予定ならばレニングラード行きの列車に乗っていなけ
れば? この件については 次⑫「1972年の夏最終章」で詳細に記載

追記:相棒S君に種々質問(主に別行動の行動記録)
   オランダからは別行動開始 アムステルダムでは街を散策し運河を
   巡る遊覧水上バスに乗った 説明が仏語か独語だったので どちら
   も?であり独語を選択した コペンハーゲンでは もちろん人魚姫
   の像 あとは街の散策とチボリ公園・・・
   ヘルシンキへ行くフェリー船で食べたスモークボガードがすごく高
   かったと記憶 それとヨーロッパは北に行くほどタバコ代が高くな
   るのが印象的
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考:面白いところに目を付けたので 自分が購入したタバコ代金を記載
   日本の免税店で購入 1箱 33.3円(ハイライトかピースか)
   ロンドンの空港で  1箱100.4円 ケントを購入
   マドリッド市内で  1箱61.75円
   チューリッヒ駅で  1箱135.1円 ダンヒルを購入
   インスブルックで  1箱143.7円
   アムステルダムで  1箱163.4円
             1箱140.1円
   ヘルシンキで    1箱 80.1円
   ハバロフスクで   1箱 66.3円
   一番物価の高いコペンハーゲン ストックホルムで購入していない
   のでここに記載できないのが残念ではある
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(S君の印象続き)
ストックホルムでは市庁舎ほか街の散策 ヘルシンキでは朝市とディスコ
の記憶 列車のトラブルでユースHにもう一泊する羽目になり ユースH
に領収書をもらおうとしたら 拙い英語のせいかユースHの人に叱られた
(帰国後 列車代金とここの宿泊費を損害分として請求するためだった)

毎日の使ったお金(FIM)について記しておく  1FIM=73.6円
・9/1    デュロステチョコレート(オランダのドロステでは?)市電
    0.5M×2 荷預け1M ホットドッグ2個2.4M ビスケット
    2M バナナ1.6M パン2M ユースH2泊分11M 
    コーヒー0.6M ディスコ4M+チップ1M ビール1.54M
    市電1M YH罰金1M  
・9/2    ロッカー(ユースHに設置)1M スーパー13.65M 市電
    0.5M ディスコ(モンティ)5M  ビール2M 市電1M 
    YH罰金1M
・9/3   スーパー6.05M 市電2回分1M 電話2.25M ロッカー
    1M×2 ミルク0.48M 市電0.5M YH5M
     (電話代 ソ連か日本の大使館に架けたもの? 詳細は最終章)

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ヘルシンキで3泊したユースHどこだったかを推理(地図で中央上端部)
オリンピック競技場近くという微かな記憶を基に検索 「スタディオン」
という 駅から路面電車15分 徒歩5分のユースHに何とかたどり着き
ましたが・・・・・   
上の推理が正しいと確認できるブログを偶然発見「欧州バックパッカー
旅」と銘打って 我々の前年1971年に シベリア鉄道経由ヘルシンキ
に入った方が ユースH「スタディオン ホステル」に宿泊されていたと
の記載があったのです
我々同様 朝市とディスコを楽しんでいる様子の旅日記でした このユー
スHは 1952年ヘルシンキオリンピック時に 選手のシャワールーム
と控室であった 一部を改築しユースHにした 写真がイメージ通りだっ
たのでビックリしました

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      1971年に撮影(さすらいおじさん)されたものを転写   





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1972年の夏⑩ミュンヘンオリンピック

8月26日(土)5:30起床 ミュンヘンへ行くために早起きしました
オリンピック日和 我々3人(昨日の北九州市の女の子も一緒)で出発!

ミュンヘン駅到着後 新市庁舎にある仕掛け時計を見てから会場へ行くと
すごい人波! 会場横の小山からは 内部が少し見られるので人人人です
公園内に設置されたテレビが故障中で 内部がどうなっているのか不明?
ようやくお店に飛び込んで日本選手団の入場シーンを見る 周囲にいた
日本人が一斉に「Japan!」 これには店員さんもビックリ

f:id:HATTYAN0234:20200503091528j:plainビール産地の合言葉 「ミュンヘン サッポロ ミルウォーキー」が有名
ですね この年2月に札幌で冬季 8月にミュンヘン夏季オリンピック
開催となり 2月にミュンヘン市長から正式申し込みがあり 8月の大会
開催中にミュンヘン市役所で 両市の「姉妹都市提携調印式」が行われた
(注:末尾に訪問都市の姉妹都市掲載)

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場外にある左上写真の小山から 右写真のように競技場内が見えるのです

参考:オリンピック映画と言えば 当時は白黒ですが ベルリンオリンピ
   ックの際の「民族の祭典」「美の祭典」が有名です ヒットラー
   リーフェンシュタール女史の合同製作といえる記録映画で 市川崑
   監督の「東京オリンピック」と双璧と言えます 今回はミュンヘン
   戦争とは無縁であってほしい(と思っていました)

ドイツを舞台にした戦争映画と言うと 1961年の「ニュールンベルク
裁判」と1969年 L・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」の
二作品が頭に浮かびます 敗戦側は戦犯国としていい様に罰せられますが
あまりにも一方的では?

アルベール・カミュが1947年「ペスト」を出した 
感染拡大で閉鎖された町 住民側の団結対ペストの恐怖に 戦時中のレジ
スタンス側とナチスへの協力者の横暴をかぶせて 不条理の帝王が世界中
の人に訴えている 
戦後 勝者が敗者を一方的に非難する事態に「簡単に事の良し悪しを語る
な」と叫ぶ作者 実際戦時中レジスタンス側のカミュは 戦後ナチスへの
協力者を弁護する 
 
聖火ランナー登場 聖火がなかなか点火せずイライラ・・・・・
西ドイツ入場 公園にいる西ドイツの若者達一斉にインターナショナルを
歌い出す すると そばのおじいちゃんが「やめろ やめろ!」と興奮 
何なのでしょうか?

追記:相棒S君が後日書いた随筆がありますので一部抜粋 
   スタジアムを望むなだらかな丘陵の斜面に千人近い若者が整然と座
   っているのが見えた 最初はオリンピックの関係者なのかと思って
   いたが なぜか違和感があり気になって見ていた
   しばらくすると遠くから聖火ランナーが 丘陵の下で待っていた次
   のランナーに聖火をリレーしようと走って来ているところで若者達
   が一斉に立ち上がった やがて彼等の大きな歓声が聞こえてきた
   「インターナショナル」だということが分かった 若者達の素晴ら
   しい歌声の下 聖火ランナーが悠然と走り去るという 絵を見るよ
   うな情景に不思議な感動を覚えた
   おそらく大学生だと思われる若者たちのオリンピックへの 彼らな
   りの抗議行動ではなかったかと思うが そこには主義主張は異なっ
   ても同じ若者同士通じるものがあった 華やかなオリンピックの表
   舞台ではないが この情景は今でも忘れられない
                    「放送界」2005年陽春号

  
聖火が点火 そして一部のお客さんが出るため ゲートが少し開いた瞬間
我々3人 逆に飛び込んだんです それで 後の選手団退場シーンを見る
ことができた
8年前の地元東京オリンピックの際でさえ見物できなかったのに 外国の
ミュンヘンで見ることができた! 感激で涙がこぼれそうだったのです 
あっソ連 アメリカだ  わあ~日本選手団だ 子供たちと選手たちとの
交歓も ほほえましいなあとの思いを胸に刻み またも夜行列車に乗って
フランクフルトに向かいます 

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「世界の名駅」の一つ フランクフルト中央駅です

8月27日(日)5:45起床 フランクフルトの早朝の様子をさらっと
見てからハイデルブルクへ 

f:id:HATTYAN0234:20210204055538j:plainまた女の子2人と知り合って 一緒にハイデルベルク城を見学した
(いや~ 上智大学4年のお二人に案内してもらったという方が当たり)

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f:id:HATTYAN0234:20200523163348j:plain ハイデルベルクも大好きな憧れの場所
35年後の二度目の訪問時には ハイデルベルク大学構内をゆっくり散策
ドイツ屈指の名門校で学生数が3万人 学校側が6千人 まさに大学の街
(市人口は当時約14万人)
<ドイツは古城が多い国>
ハイデルベルク~ローテンブルク~ニュルンベルクプラハを結ぶ「古城
街道」は東西を結びます 南北を結ぶ「ロマンチック街道」より趣があり
ます お勧めです

f:id:HATTYAN0234:20200503091620j:plainハイデルベルク城の有名な「2万リットル入りワイン樽」は見ているだけ
でも酔いそう ワインを2杯飲んで そして食事に行く 女の子(可愛い
場合)と一緒だと いつもならパンだけで済ませるのに お金を奮発して
しまいますが 止むを得ず!
(この時点で 「ハイデルベルク学生のキス」チョコレートの存在を知っ
ていれば 当然にプレゼントしていたでしょう 事前勉強不足ですね)
注:この日の女性二人とは 帰国後 秋の早慶戦を一緒に観戦をと誘い
  実現しています
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駅に戻り 立ち食いソーセージを食べ 本日もユースHに宿泊できました
参考:ユースホステルと言えば ドイツで1912年に発祥の世界共通の
   システム 日本からは会員証とシーツだけ持参しました(シーツ代
   が別途必要なので)

8月28日(月)6:25起床 毎日早起きですねー
本日はフランクフルト~ケルン~アムステルダムへ ドイツともお別れに
なります
(ユーレイルパスに無料で組まれている)ライン川下りをするのですが
眠っていた 有名なローレライの岩壁さえ なんてことはない イメージ
ダウンの川下りでした

ドイツのイメージの一つ目は 1931年製作の オペレッタ映画の古典
「会議は踊る」の劇中歌 リリアン・ハーヴェイの歌う「ただ一度だけ」
に具現されます
馬車に乗った彼女の可愛らしい笑顔と歌が 長回しでずーっと流れて行き
ます 軽やかなリズムこそ音楽大国ドイツそのもの 歌喜劇のクラシック
を楽しめます(参考:1980年NHKTVで映画音楽ナンバーワンに)

ミュンヘンに滞在していると 明るく 人なつっこい性格の人が多い 
ビールと白ソーセージが良く似合うし お祭り騒ぎが大好きなようです

(これと対照的なのが北ドイツではないでしょうか?) 
二つ目のイメージは マレーネ・ディートリッヒの存在そのものと言える
のでは?
1930年「嘆きの天使」と1931年「間諜X27」に見る彼女の退廃
的美貌と 100万ドルの脚線美 そして「リリーマルレーン」の歌声こ
そ 反ナチとしての彼女の真骨頂であり 一本筋の通った鋭利さとなる 

f:id:HATTYAN0234:20210205225527j:plainそれがケルンの大聖堂の尖塔として 見る者聞く者の胸にに突き刺さる
ケルン駅から見あげるほど聳える大聖堂は 見事!の一言 しっかと拝見

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左 駅の構内売店から見上げる 右 大聖堂とケルン中央駅を空中から
撮影の転写
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっと脇道にそれて
オーデコロンは 18世紀ケルンで生まれた オーデコロンをフランス語
で言うと「ケルンの水」という意味の香水だそうです ナポレオン及び軍
の兵士が妻や愛人のためにフランスに持ち帰り 大人気になったとのこと
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そのままアムステルダム駅に到着し アムステルダムのユースHに宿泊

追記:相棒S君にドイツの印象を質問したところ
   何と言ってもオリンピックのミュンヘン まさかの開会式が見られ
   たこと 子供と思われたのかドイツ人に肩車をしてもらって退場
   行進を見ました
   ハイデルベルクの街や大学の雰囲気にひたれたこと 英米軍に空爆
   されたケルンの大聖堂(外見からは損傷は目立たず)を見ることが
   できたこと

ドイツ連邦共和国の国旗について
ナチスハーケンクロイツは別としても 随分変更の多い国旗なのです
最後は1989年 ベルリンの壁崩壊後 1919年の三色旗に戻った

f:id:HATTYAN0234:20200627185252j:plain毎日使ったお金(独マルク)について記しておく 1DEM=94.48円

・8/26 バス4S タバコ11S 荷預け1.2M 地下鉄1M 昼食
    3.35M ビール1.5M 絵葉書1M 切手7.35M 夕食
    4.85M パン5M 新聞0.8M(新聞って英字新聞でも買
    った オリンピック特集記事?)
・8/27    荷預け2回1M 地図0.5M アイス0.3M 市電1M  
    城入場料1M ワイン2杯3M 昼食7.4M アイス0.4M 
    コーラ1.2M ロッカー0.5M ユースH5M 夕食6.8M 
    ソーセージ1.6M (復路の市電代記載なし キセル?)
    (この日フランクフルト駅で1回 ハイデルブルク城でも1回の
    荷預け)

    おまけ:ソーセージって 13世紀にフランクフルトで生み出さ
    れたそうで「フランクフルター・ヴルスト」と言い長いのが特徴
    ミュンヘンでの「ヴァイスヴルスト」は皆さんから「白ソーセー
    ジ」と呼ばれ大人気です
・8/28 市電1M バス0.9マルク あとはアムステルダムで掲載継続 

高峰秀子の旅日記 「ヨーロッパ二人三脚」より
 昼寝をしたけりゃイタリーに 買い物したけりゃパリーに
 早寝がしたけりゃドイツに 忙しい思いをしたけりゃ東京へである
                  1959年2月8日の日記より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考:旅行中に訪れた(乗継中継地も含めて)都市の姉妹都市・友好都市
   ミュンヘンー札幌の提携に合わせ 訪問順に調べて記載しました 
   香港       大阪市  ビジネスパートナーシティとして
   バンコク     福岡県   2006・2
            愛知県   2012
            八千代市  2008・5(友好都市)
                 子供親善大使受入れ20年来の交流
   ボンベイ     横浜市   1965・6
   カイロ      東京都   1990
   ロンドン     東京都   2015・10(友好都市)
                 舛添都知事ボリス・ジョンソン
                 ロンドン市長(現首相)が調印を
   パリ       京都市   1958・6・・世界的観光都
            東京都   1982・7
   シャルトル    桜井市   1989・4
   ヴェルサイユ   奈良市   1986・11・ちょっと違和感
   トレド      奈良市   1972・9・・お似合いです
   リヨン      横浜市   1959・4・・歴史的必然性 
                 19世紀から絹を介し両市の交流 
   ジュネーブ    品川区   1991  (友好都市) 
   ベルン州     奈良市   2015
   インターラーケン 大津市   1978  (友好都市)
   ローマ      東京都   1996
   フィレンツェ   京都市   1965・・・とってもお似合い
            岐阜市   1978 
   ベローナ     長浜市   1992
   インスブルック  大町市   1985・・オリンピック繋がり
   ミュンヘン    札幌市   1972・8
   ウィーン     府中市   1992以降 多数都市・区
   ザルツブルク   川崎市   1992・・・似合わないなあ!
   フランクフルト  横浜市   2011
   ハイデルブルク  熊本市   1992・6
   ケルン      京都市   1963・1
   サンクトペテルブルク    ロシアは兄弟都市として提携
            大阪市   1979・8(国内第二の都市)
   モスクワ     東京都   1991
   ハバロフスク   新潟市   1965・4
   ナホトカ     小樽市   1966・9
            敦賀市   1982・10
            舞鶴市   1961・6
 以上の内ゴシック表示した5件の姉妹都市提携を「お似合いカップル」
 と認定します(あくまで個人的趣味)

参考:姉妹都市へのプロポーズ受けが多い京都市 現在の9提携都市一覧
   パリ          1958・6
   ボストン        1959・6
   ケルン         1963・5
   フィレンチェ      1965・9
   キエフ         1971・9
   西安          1974・5 (平安京のモデル長安
   グアダラハラ(メキシコ)1980・10   
   ザグレブ        1981・10
   プラハ         1996・4

   ガムシャラとなって姉妹都市提携を急ぐ北京市は一帯一路を拡大
   すべく 日本の提携が少ない北欧にも 超積極的に押し掛けている
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   

 

 

    

 

 

 

 

1972年の夏⑨オーストリア三都巡り三日間

8月23日(水)7時起床 午前中チロルの町インスブルック観光

f:id:HATTYAN0234:20200503090946j:plain 残念ながらインスブルック市内散策の記事が残っていません
当日の支払いメモからの推定ですが 先ず「チロル民芸館・教会」とある
のは多分チロル民芸博物館と隣接した宮廷教会でしょう コンビカードで
両方入場できます
次いで「市の塔」 これはそのままで 黄金の小屋根のすぐ横から登ると
市内一望も周囲のアルプス眺望も可能 おそらくですが上の写真がそうで
はないか・・・背景のバロック建築の建物は「大聖堂(聖ヤコブ教会)」
と判断しますがいかが?
もうひとつの「宮城」と書いてあるのは ホーフブルク王宮か?
いずれにしても全く記憶が無い なにしろ48年も前のこと 仕方無い

f:id:HATTYAN0234:20200502205425j:plain昼からのミュンヘン訪問は 26日のオリンピック開会前の雰囲気を感じ
るための予行演習?(と言うかベニスからの夜行乗り遅れでやむを得ず変
更したためです)
当然オリンピック会場にも見物に行き 設備の近代性に度肝を抜かれた思
いが強い 立派で さすがドイツ人だと感心させられた

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夜は 有名なホーフブロイハウスで乾杯 NHKの鈴木健二アナウンサー
に会った 相棒S君曰く 鈴木アナウンサーに席を譲ったと まさにこれ
「気配りのすすめ」です
深夜ウィーン行きの夜行列車に(車中泊ミュンヘンとウィーンを往復)

8月24日(木)6:10起床 ウィーン駅(当時はウィーン西駅発着)
旅行慣れしている人は疑問に思うのでは? 何で西駅 市の中心部からは
距離があるのに・・・実はこの駅1858年に建ったが 同年まで市壁
(リングシュトラーゼ)があったためです 市壁外の駅舎 ザルツブルク
への発着駅で ユースHも駅近でした


憧れの街ウィーン 音楽の街ウィーン 西のパリと並ぶウィーンの街 
他いろいろ とはいうものの 疲れがたまっているんだろうなあ~ 夜行
列車ばかりだから・・・ローマ以来ベッドで寝ていないためか 重い脚を
引きずりながらさすらう二人です
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっと脇道にそれて ウィーンというと「エリザベートとスイーツ」
学生旅行では縁が無さそうで「ヨーロッパのスイーツ王国」を検索して 
ヨーロッパのスイーツ4選を紹介しておきます
・チョコレートケーキの王様     ザッハートルテオーストリア
・秋に食べたいマロンスイーツ    モンブラン(フランス)
・年輪模様の木のお菓子       バームクーヘン(ドイツ)
・カラフルキュートなまんまるお菓子 カロン(フランス)
社会人になり各国を再訪し ようやくいただきました さすがの4選
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
疲労からか気分は重苦しく 1949年「第三の男」のような陰鬱さが
漂います
再度 ちょっと脇道にそれて ウィーンのミニ歴史です
第二次世界大戦のウィーン攻勢で ナチスは崩壊しソ連に占拠されてしま
ったが その後連合国の合意で 米英仏ソ四ヵ国の共同占領下におかれた
「第三の男」には この時代のウィーンの雰囲気が良く描かれている

ハプスブルク帝国の継承国家のほとんどが共産圏に組み込まれていく中で
オーストリア共産党が国民の支持を得られず 西側との関係を保ったま
永世中立国になった

オーストリア共和国の国旗について
赤白赤のオーストリアの国旗は1100年代に出来たそうです レオポル
ド5世が 血で真っ赤になった軍服からベルトをはずすと 真っ白な筋が
ついていて それを見て国旗のデザインを思いついたと言われている
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

f:id:HATTYAN0234:20200502205713j:plain支払メモから見ると この日ベルベデーレ宮殿オペラ座に入場している
ようです ウィーンのユースホステル(下の写真)に宿泊です

f:id:HATTYAN0234:20200503091123j:plain8月25日(金)7時起床 ザルツブルクに向かいます

モーツァルトの生誕地としての巡礼地扱い 楽壇の帝王カラヤンの故郷
私の個人的な思いは 1965年「サウンド・オブ・ミュージック」の
舞台となった街! 映画ファンにとっては モーツァルトといえども 
おまけに過ぎません!

(ユースHではあるもののベッドで寝ることができた効果か旅日記が元
気です)
ホーエン・ザルツブルク城からの眼下の眺望は 明るい太陽に映えて更に
美しさを増します どこからかドレミの歌が エーデルワイスの歌声が
響いて来そうです
マリアがいた教会もあった 当然ミラベル庭園も訪れています

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当時は モーツァルト音楽祭が毎夜開かれていたとか 正装の男女が車で
通るのを横目に 知り合った女の子(一人旅なのです)と三人で店に入り
[ミルク」と注文したら 可愛い姐さんが横目でいぶかしそうにこちらを
見るんだ そうだろうね ビアホールのような店でミルクとはね 今晩も
ザルツブルクのユースHに宿泊です
パリのアルマホテル以来 久しぶりにシャワーを使うことができた

参考:ザルツブルクの街大好きです 社会人になって2回訪問し 映画の
ロケ地はほとんど行きました 入ってはいけない個人が所有の庭園にも無
断で侵入しました 映画では トラップ大佐の屋敷としての「レオポルツ
クロン宮殿とその庭園」です 2014年に高級ホテルとしてオープンし
翌年「欧州最高の歴史的ホテル」に表彰されています

参考:オーストリアでは 21世紀の今日まで ザルツブルク市以外では
   「サウンド・オブ・ミュージック」(ドイツ語題名「私の歌~私の
   夢」)は上映されていない! 上映されたザルツブルクでも 映画
   を見た市民は ほんの僅かであったという事実 どうしてなのか?
   市民には 1956年の映画「菩提樹」原題トラップ一家)が史実
   に近い「1950年代に最も成功したドイツ映画の一つ」であり 
   米国製はウソが多いとー詳細はウィキペディア検索でご覧ください
   ビックリさせられますよ
   私的に一番疑問なのは ラストの山越えでスイスへ これは不可能
   ですね 映画では感動で胸が震えるシーンですが 地理上調べると
   現実に引き戻されてしまいます(実際は 北イタリア行きの列車に
   乗って イタリア南チロルの山に逃げ トリエステ地方からフラン
   スに入り イギリスそして最後船でアメリカに渡ったのです)

f:id:HATTYAN0234:20200502210315j:plain毎日の使ったお金(オーストリアシリング・独マルク)について記す
              1ATS=13.06円 1DEM=94.25円
・8/23 新聞12S 荷預け3S 切手16.5S 朝食15.4S 宮城
    7S チロル民芸館・教会12S 市の塔5S タバコ11S 
    果実3.25S 牛乳6,.8S(ここまでインスブルック
    地図0.2M 絵葉書1.25M 地下鉄2回2M 初日カバー
    6M ビール1.5M 切手2.4M 記念切手6.45M 夕食
    5.8M 荷預け1.2M パン1.24M
    ミュンヘンオリンピック記念切手と初日カバー購入したがどこへ
    行った?現在 手元にはありません 自宅建て替え時誤って母が
    捨てたのでしょうか?
・8/24 荷預け3S ベルベデーレ宮殿5S トイレ1.7S スーパー
    30S オペラ座15S 地下鉄6S ユースH34S 夕食
    18S
・8/25 市電6S リザーブ12.5S バス4S ケーブル6S パン
    7S 土産72S ユースH30S 夕食16S ミルク3.5S
    (リザーブ料って どうもウィーン西駅での荷預け料のよう)
    それにしても安いのがY・H 444円と392円相当です 
    Y・Hでは 予約しておけば朝食も夕食も安く食べられます

              我々の旅行はバックパッカーとは少し違うような?というのは
    リュックを担いでのものではなく 旅行鞄バゲッジを引きずって
    のものなので 駅に到着すると都度「荷預け」にお世話になるか
    らです  料金も各国で相違あります ーどうしてウィーン西駅に
    限って超高いの?

追記:相棒S君にオーストリアの印象を質問したところ
ウィーンではやはりオペラ座 こじんまりとはしていたが風格のあるベル
ベデーレ宮殿 学生街ではビュッフェスタイルのランチをしたこと 市内
を行く馬車の風景 著名な音楽家のお墓(ベートーベンやシューベルト
を見たこと ザルツブルクを散策したこと まさに「サウンドオブミュー
ジック」の世界でした・・・・・・・
(ウィーンで相棒は こんなにしっかり記憶していたんだ~と今更感心)

 

 

 

 


    

    

1972年の夏⑧イタリア三都を二日で駆け足旅

8月21日(月)8:20起床 本日は1954年「ローマの休日」本番
どれだけローマに来たかったか 期待は膨らむ一方でした  ROMA を
逆に綴るとAMOR  ラテン語で「愛」ですが ローマで愛を実感するこ
とができるでしょうか

下は訪問当時のローマテルミニ駅 随分近代的ですね 1953年の
「終着駅」の舞台で 激しい禁断の恋でありました 邦題の終着駅は 
この映画での新造語です

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イタリア共和国の国旗について

1800年代の半ば頃から独立した新興国は 次々と三色の縦縞の国旗を
選んだ フランスの三色旗の影響を受けているのです トリコロールは
一部の偉い人たちでなく 皆で国をつくる「共和制」のシンボルで 王が
国を治めていた古い時代の終焉を意味すると考えられていた 因みに世界
の国旗の40%位は三色である

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ローマが舞台の映画は多数あり 歴史劇では1959年「ベン・ハー」は
日本での初公開時 昭和天皇ご夫妻初めての観覧映画です 続く1960
年には「スパルタカス」 でもイタリアで伯爵のルキノ・ヴィスコンティ
を凌ぐ監督はいないのでは?1963年「山猫」1971年の「ベニスに
死す」そして1972年「ルードヴィッヒ」と続きます 因みに同監督は
ルイ・ヴィトンの鞄を常時所持しており その頭文字のL・Vから さす
が特注か?とアラン・ドロンが驚くほど自身と同じイニシャルがお気に入
りであったと 身の回り品はすべてがヴィトン製で L・ヴィスコンティ
といえば ルイ・ヴィトンといわれるほどに おしゃれでダンディー
監督だった(アラン・ドロンは付き人兼愛人であった)


見学する行程は テルミニ駅~共和国広場~バルベリーニ広場~トレヴ
の泉~スペイン広場~ヴァチカン市国のサン・ピエトロ寺院~聖天使城~
パンテオンベネチア広場~フォロ・ロマーノコロッセオ凱旋門
カラカラ浴場跡と続く

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トレヴィの泉からの写真が どうして白黒になったの?フィルム代ケチっ
たのか? 右側の写真で右上は もしかしてサン・ピエトロ大聖堂のクー
ポラか?やったあ!

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市の中心に建つ「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」とフォロ・
ロマーノコロッセオ(白黒フィルムで撮影位置も変? 何だか余計に廃
墟っぽく映ります)

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インターネットで見つけた「さすらいおじさんの旅行記1971年」
から拝借してみました コロッセオを同じ場所から撮影しています

f:id:HATTYAN0234:20200523163117j:plainコロッセオ凱旋門のワンペアー 昼食は上の Tavola  Calda(温かいテー
ブルの意味の店) 現在のトリップアドバイザーで検索すると 不評店舗
が相当多いのです 当時のローマ市のガイド地図には「軽食にイタリア式
スナックバー」と説明がある

一日歩き回り くたくたに疲れる スイカを食べ マカロニを食べてバタ
ンキュー イタリアのお米も まずくて食べられない ローマ市は気にく
わないので 当初は二泊の予定を一泊に変更する ローマ市の古さはムカ
ツク古さだ あまりにもガラクタ過ぎるし観光客も猫も多すぎる!
(と当時は本当に強く思い込んでいました)

ここで兼高かおるさんの名言 
年を重ねて来た者だけが味わえる旅の醍醐味は かつて旅したところへの
再訪です 懐かしさを味わうと共に新しい感動
があるでしょう

その通りです ローマ市には2011年5月に夫婦で再訪しています 
そのときも一日4万歩以上 朝から晩まで バス・トラム・地下鉄を利用
して頑張ったのです 結果ものすごい感激でした ダン・ブラウン著書の
「天使と悪魔」のベルニーニ作品を追って ポポロ広場から教会内の彫刻
噴水からヴァチカンの広場までを Uの字型に踏破しまくったのです 
ローマの教会は入場料無しなのです これが余計に嬉しかった
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂の屋上から見おろす眺めは特別
感激でした

f:id:HATTYAN0234:20200703135319j:plain 注:撮影禁止であり図書館から「世界美術大全集」を借りて来て転写し
ました ヴォルゲーゼ美術館でのベルニーニ作の大理石像には 心臓をわ
し掴みにされます 
「プロセルピナの略奪」柔らかな太ももに食い込む指先は 大理石である
というこを忘れさせます うっすらと流す涙が切ない これを20代前半
の人が彫れる?「ベルニーニはローマのために生まれ ローマはベルニー
ニのためにつくられた」

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ヴァチカン市国のサン・ピエトロ寺院と ミケランジェロの最高傑作
ピエタ」像

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さすらいおじさんが前年に写したヴァチカン広場

ヴァチカン市国の国旗について
中世ヨーロッパでは 貴族の家に生まれると紋章を与えられた 身分の高
さを周囲の人に知らせるためである 多くの家は強大で 国そのものを支
配した それゆえ やがて紋章が国を表わすようになった 国旗をデザイ
ンする際 紋章から基本の色だけを取り出したりした ヨーロッパの二色
旗はそうやって絵を簡単にしてできた

f:id:HATTYAN0234:20200627213545j:plainヴァチカン市国は利益追求の為の経済活動は一切行っていない 国の主な
収入源は「聖ペテロ使徒座への献金」として知られる世界中のカトリック
信徒からの募金だ

8月22日(火)8:30起床 ホテルの女主人 朝食付きの条件で宿泊
したはずなのに 「朝食?ノー」だって 頭にきて飛び出して 次の都市
フィレンツェに向かう 乗った列車がデラックスカーのTEE ホテル
のロビーを小さくした様なコンパートメントで1等車 格好いい!
「食事の用意ができました 皆さんどうぞ食堂車の方へ」なんてアナウン
スがあるから 「あっ!サービスだな(欧州では車内サービスがある列車
もある)」と(二人とも)思い込み 喜び勇んで行きました
前菜 スープと始まって肉料理まで出てくる すごいサービスだなあと思
いつつも段々心配になってくる 案の定 最後のデザートが終わったとき
勘定書きが回ってきたのです「えっ2,500円」思わず日本語で叫んだ

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フィレンツェの市内ではバザール(日本の縁日みたい)を楽しんだ 
露天に出店のおばさんに「Come down Come down(まけてくれ まけて
くれ)」と言うけれど通じません 去っては来 去っては来て「まけて」
と言ううちに 周囲の店の人も大笑い「あの下駄はいた日本人やるわい」
とでも思ったのかな? 結果はというと とうとう買ってしまった皮の
ジャケット まけてもらえませんでした 残念! 
注:Come  dwonって何? これでは通じない 希望値段を紙に書いて交
  渉しよう

f:id:HATTYAN0234:20210205204731j:plainさすらいおじさんの買った絵葉書から

f:id:HATTYAN0234:20200502220700j:plainシニアになって2回訪問するほど好きな街です でも当時は結局 有名観
光名所はほとんど見ず仕舞いでした 朝ローマ出発し 昼フィレンツェ 
そして夜ベニスへ
 <ベニスとベネチア呼称の差って>
因みに 現在はイタリア語表記の「ベネチア」が多いようです 我々世代
は英語表記の「ベニス」が多かった なぜか? 多分シェークスピア作品
ベニスの商人」の影響でしょう 誰も「ベネチアの商人」とは言いませ
んでした・・・・・・・

ベニスに着いたのは既に夕暮れ 駅前から水上バスに乗ってサンマルコ広
場へ行く途中の大運河のロマンチックなこと 今旅行中で最大の感動を味
わえた 広場では1955年「旅情」のテーマ曲が静かに流れてきます 
♪Summer time in Venice♪ を奏でる楽隊の音色に聞きほれて ワインと
スパゲッティを注文 学生と言えどこの雰囲気には負けてしまいました

(そういえば 終着駅も旅情も イタリア男に上手に持ち上げられイタリ
アという魔法にかかって 必死に理性と不倫の間でもがくアメリカ女性の
姿が哀れでした 終着駅はローマ 旅情はベニス おまけに1970年
「ひまわり」を是非どうぞ 観客の涙を振り絞る映画 ラストはミラノ駅
そう男と女は綺麗に別れなくちゃ 切々たるメロディーに「これからも
人生は続くのです」というエールに浸ります) でも浸っている時間は
無かったのです!

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ゴンドラから流れるメロディーに耳を傾けながら 駅に向かう水上バス
乗ったがバスに特急と鈍行の2種類があることは知らなかった 鉄道駅ま
で12もの停留所があり(行きは2~3ヶ所)結果ウィーン行きの最終列
車に乗り遅れて・・・・・時間の計算が狂った ものすごく悔やんだ 

f:id:HATTYAN0234:20210204054433j:plain
「世界の名駅」サンタ・ルチア駅です・・・・駅前がすぐ運河なのです


クックのタイムテーブルを急遽調べる というより今や選択できる夜行列
車はインスブルック行きしか無かった しかもこの夜行列車 深夜に乗換
が必要なのでした ベニス0:34発~ベローナ2:09着~ベローナを
3:32発でインスブルックに早朝到着というものです

案じていた事が起きました 二人うとうとしていてハッと気づいたらベロ
ーナの駅看板が! 大急ぎで降りたら 駅長さんが来て「ここはベローナ
何とか 本当のベローナ駅は4キロ先だよ」なんて言うのです しかも今
のが最終で 朝6時まで列車は来ないとおっしゃる おまけに小雨も降っ
てきて 万事休す!かと思いきや 幸い駅長さんがタクシーを呼んでくれ
て おかげで目的のベローナ駅に行けました
今回もリラでのタクシー代が無くて ドルを余計に支払った なんという
厄日!(後で時刻表を調べたら ベローナ駅の前には ニューベローナ駅
がありました)

f:id:HATTYAN0234:20200502114134j:plain  上の地図を見ながら位置関係を示すと   f:id:HATTYAN0234:20200509113825j:plain
注:当初のスケジュールでは ベニスから上って①②③④と右に回る予定
  でした ミスにより ベローナ経由で③④①②④に変更とせざるを得
  なくなりました

ベローナの街は 今では世界遺産登録都市 「ロミオとジュリエット」の
舞台です まさに悲劇が似合う街なのでした 「ジュリエットの家」には
愛の言葉を交わしたであろう名物バルコニーがあり その前庭にはジュリ
エット像が建っているのです
「恋のパワースポット」であり どこかから ♪What is the youth♪ が
聞こえます

ここで「もし乗り遅れていなかったら」を検証すると
  23日午前ウィーン着で 半日ウィーン観光し ウィーンYH宿泊
  24日ザルツブルクに移動し 一日観光し ザルツブルクYH宿泊
  25日インスブルックに移動し 観光後 ミュンヘンのYHに宿泊
  26日はミュンヘンオリンピックの当日・・・・・・となったはず
乗り遅れで ミュンヘンとウィーン間の往復となり 結果強行軍になった
ようです

追記:相棒S君に「イタリアで印象に残っていること」を投げかけると
   トレヴィの泉に後ろ向きでコインを投入したこと ヴァチカンの
   サンピエトロ寺院と古式ゆかしい傭兵 廃墟のようなコロッセオ 
   ローマのインチキ下宿屋で 君とダブルベッドで寝たこと???
   フィレンツェベネチアもだけど 塩野七生さんの世界を感じられ
   たこと フィレンツェウフィツィ美術館では周囲にジプシーぽい
   物売りが沢山いたこと ベネチアでは何と言ってもサンマルコ広場
   と 乗り遅れた水上バスでしょうか ユーレイルパスの件ですが 
   1stクラスというのは当然知っていた 例の高いランチのときは
   1stに乗っていた 君の印象が薄いのは スペインでは1stの
   車両がなかったことと スケジュールの関係上 夜行が多く特急利
   用の機会が少なかったことによると思う(何という冷静な分析か)

毎日の使ったお金(伊リラ)について記しておく 1ITL=0.52円
・8/21 サンピエトロ寺院400L 昼食220L フォロ・ロマーノ
    200L フィルム代800L アイス200L バス50L 
    ジュース200Lスイカ2切れ100L 夕食1、000L
    (昼食110円 こんな値段で「不味い!」なんて言うのが間違
    い)(メモからだとコロッセオには入場していないんだ)
・8/22 宿代2,500L エレベータ代5L 朝食305L 
    昼食4,425L 荷預け150L ドゥオーモ100L 
    皮ジャケット15,000L ビニール袋4,000L 
    荷預け300L 水上バス120L 夕食サンマルコ広場
    975L+250L 水上バ ス75L タクシー1.5ドル
    (ここで購入の皮ジャケットは以後ずーっと着ている 以降の
    写真参照)(ドゥオーモのクーポラに登った? 写真が1枚もな
    いので不確かです)
    
8月21日の朝8時から8月22日深夜まで 正味二日間でイタリアの三
大都市を駆け抜けたわけで これではイタリアが可哀そう 正しい評価な
ど生まれませんね

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折角「世界美術大全集」を借りて来たので ベルニーニで好きな作品を二
点紹介 左は「アポロとダフネ」右は「聖女テレサの法悦」どちらもロー
マ市内で鑑賞可
<芸術の奇跡>
ダフネの逃走と変身という態様の時間的変化を スポーツ写真のような
ショットで捕え 彫刻のドラマに引きずりこまれる 絵画的情景を大理石
に移し変えた!(太陽神アポロの愛を拒んだダフネが神々の助けを借りて
月桂樹の木に姿を変える変身の瞬間 ダフネの手は木の枝に変わり足の 
指先からは枝が生えている)
私的には ベルニーニこそはミケランジェロの後継者と考えています

高峰秀子の旅日記 ヨーロッパ二人三脚では パリとは打って変わった
強い陽ざし 明るい表情のイタリア人 陽気な大きな声 何もかもが明る
く明るく こっちの気持ちまでが晴れ晴れとする 店も美しい 建物も空
も美しい 私は一遍でローマが好きになった・・・・・・・・・・

我々とは印象が全く違いましたね
反省点は 宿泊を全てユースHにすれば良かった 本当のバックパッカー
は 先ずはユースHからと当たっています スペインだってスイスだって
勿論イタリアだって ヨーロッパは全てユースホステルがあるのですから
・・・

追記:フィレンツェは好きな街で云々・・・・・・・・
   どうしてそれほど好きになったのか?社会人になって二度訪問した
   都市はパリとフィレンツェザルツブルクだけで その理由を書い
   た私のトリップアドバイザーへの口コミを紹介しておきます
   <二度目のフィレンツェ 二度目の薬局訪問>
   サンタマリア・ノヴェッラ薬局は フィレンツェで一番大好きな
   場所です 5年前の訪問時に ものすごい感動に心が打ち震えた
   ことが思い出されます
   5年前 つまり東日本大震災の年ですが 5月初旬に訪れたとき 
   入口に 日本とイタリアの国旗が交差して立てられているのです 
   何だろうと思い奥の店にいらした日本人の女性店員さんにお聞きし
   たら フィレンツェは京都と姉妹都市で 日本とは親密で この度
   の大惨事を悼み 国旗を立て ここの4月の末日の売上を全額寄付
   させていただきましたという事でした
   ビックリすると共に こんな遠くからも支援の手が伸びているとい
   う事を知り 大感激したのです(店員さんは京都松栄堂さんからの
   超超和美人)

   この思い出があるため 2016年6月到着後すぐに薬局を訪問し
   ました 内部は改装され店内の売り場が広げられた感がありました
   香水他の商品は 日本で購入するよりだいぶ安いとは 妻の実感 
   女性には人気が高い 世界一古い薬局は今も健在です(と締めてい
   ますが 実は5年前にいらした それはそれは美しい美人さんに
   再会できる?でした)


   

 

 

 


 

1972年の夏⑦再びフランスに入りスイスへ

8月17日(木)ずーっと車中生活? 夕食40ペセタ(ビールとパン)
旅日記に挟まれていた列車の時刻検討が2案あったので紹介してみたいと
思います
<第一案>時刻表とにらめっこして いろいろ検討している中でグラナダ
バルセロナまで列車で13時間 8月17日 早朝8時頃到着した後で
バルセロナを夜まで観光後 19:36バルセロナ発ナルボンヌ着 翌日
1:26着~1:41発~リヨンに7時前に頃着

f:id:HATTYAN0234:20200609152808j:plain<第二案>
8月17日 8:05バルセロナ発ナルボンヌまで行きカルカッソンヌ
立ち寄る 地中海に面したナルボンヌ~内陸部のトゥールーズまで行き 
カルカッソンヌへ戻り観光したあと ナルボンヌ~リヨン行という時間
つぶしまでをも検討している
(当時の時刻表があればいいのだが 捨ててしまっているので検証不可で
す 参考としてブログを書いている現在だとどうか?で調べると グラナ
ダ~バルセロナは在来線で11時間半 バルセロナ~リヨンは在来線で8
時間の計19時間半です)

いずれにしても グラナダ~リヨンまで鈍行でも24時間で行けるのに 
実際には36時間も費やしている 12時間分をどう使ったか はたまた
各駅停車 かつ各駅での連結が異常に悪くて 列車内で余分の12時間を
耐え忍んだかは不明です 私もS君も全く思い出せずにいるのです 
当然 バルセロナカルカッソンヌの写真は1枚も残っていないのです 
8月17日の朝食 昼食の支払いメモさえありません 全て空白なのです!

8月18日(金)ようやくスペインからの長旅後 早朝フランス第二の都
会であるリヨン駅に降り立った そぼ降る雨の中 リヨンの公園を歩くと
落ち葉がやけに多い 秋がもうやって来たかなという感じだった フラン
スパンをかじりながらも パリよりフランスらしいリヨンの街並みを散策
ローヌ川を隔てた向こう岸には 古びた教会が1つ2つと見えるロマンチ
ックな朝焼けだった

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ジュネーブに着いた 明るい太陽とレマン湖の噴水 ただそれだけで素
通りです この日はベルンホテルGlookeに宿泊(このホテル名で
検索するとバックパッカーズホテルグロッケでトリップアドバーザーの
1位人気 当時と同一かどうかは不詳)

8月19日(土)ベルンの朝市観光後インターラーケン~ルツェルン
小雨と濃霧のためユングフラウヨッホ登山はあきらめ ルツェルンに行く

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 左:インターラーケン駅にはユングフラウ・ヨッホ山頂の様子がTV
   画面に出る
 右:ルツェルンでのカペル橋 やはり天気悪し スイス観光に雨は似合
   いません

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(幸運にも天気回復し)
車中からの景色は抜群!!左窓には山々に抱かれて湖が 右窓には広々と
した緑の牧場 牛の戯れ 可愛らしい煙突付きの小家 止まる駅といった
らこれまた可愛い 鮮やかな花が飾られていて一日中眺めていても決して
飽くことを知らぬスイス

当時のことで後日までずーっと記憶していた感覚 それは カメラを構え
たらどこでシャッターを押しても360度が絵葉書になるというものです 
それこそがスイスなのです

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スイスを舞台にした映画って何かあったかなあ? どうしても思い浮かば
ないので邦画から 1966年加山雄三主演「アルプスの若大将」でお茶
を濁しておきます
いや実は スイスに対する情報を あまりにも勉強不足だったので 実際
現地ではどこに行くべきか迷ったのでは? 訪問地を見ても スイスの
真髄をはずしているなあと思うからです 1974年になれば 高畑勲
の「アルプスの少女ハイジ」も始まり スイスの知識も少しは習得できた
かも?  

ちょっと脇道にそれて
ハイジのとてもやさしいおじいちゃんですが 眼光がいやに鋭いと思いま
せんか? 実は おじいちゃんは「スイス傭兵」出身なのです 「スイス
傭兵?」説明します
①「ヨーロッパ最強」と言われたスイスの傭兵(15世紀~18世紀に活
 躍した)始まりは14世紀 スイス原初同盟がハプスブルク家の軍隊を
 破って独立に成功し スイス人による軍隊の強さを広く知らしめた 
 そして1470年代 勇猛で知られたブルゴーニュ公国のシャルル突進
 公軍を破り スイス傭兵の強さの評価が固まる

②ヨーロッパ全体で引く手あまたの人気
 スイス傭兵は 州政府単位の契約で貸し出され そのためスイス兵同士
 の戦いも生まれ 他国からは非難も込めて「血の輸出」とも呼ばれたが
 小国と言えど「強い」という評判は定着 おいそれとスイスを侵略でき
 なくなった

③1792年 フランス革命時 テュルイリー宮殿に殺到する民衆約2万
 人に対し950人のスイス傭兵が 王家の防衛にあたり(フランス近衛
 兵は事前に解散済)全滅した この悲劇をルツェルンの「嘆きのライオ
 ン」が現在に伝えているのです 背中に折れた矢がささったライオンは
 スイス傭兵を ライオンがかばっている盾はルイ16世とその家族を表
 しています(下の写真参照)

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④ナポレオン軍がロシアの「冬将軍」に敗れ 敗走に敗走を重ね ドニエ
 プル川に差し掛かった時 スイス傭兵部隊は殿軍(しんがり)を命じら
 れてほとんど全滅 おかげでフランス軍の一部がフランスへ帰ることが
 できた・・・・

⑤今もバチカンを守るスイスの傭兵たち

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近代になり 各国で国民兵を使うようになり傭兵の需要は減って 
1874年には スイス憲法で傭兵の輸出を禁止した
その中で唯一 バチカン市国だけが1505年から500年以上雇い続け
ています ミケランジェロがデザインしたとも言われる青と黄 オレンジ
の縦じまの軍服です(超イケメンぞろいでカッコイイ! 目の前をウロウ
ロしても 微動だにしません) 

⑥今も「精強」とされるスイス軍
永世中立国」ではあるが 軍隊を保持しているスイス 軍は職業軍人
徴兵による民間人で構成されています なぜ徴兵制?理由の一つが 徴兵
制を止め 職業軍人だけになった場合 周辺の国から「NATO]への
加盟を迫られ NATO軍として海外派兵にも参加しなくてなならない 
それは絶対に阻止したいということで「対外戦争はしたくないので徴兵制
度を維持した(国民投票の実施結果)」のです
日本では「集団的自衛権」が多数の賛成で可決されました どうなる?

スイス連邦の国旗について
そもそもの国旗の成り立ちは 1200年 スイスを支配していた神聖
ローマ帝国が 赤い地に白い十字架で 皇帝の気高さと殉教したキリスト
教徒の血を表わした
1798年スイスに攻め込んだフランスが新しい三色旗(緑赤黄の横縞)
を作った 
1840年 スイスの軍人たちが赤い地に白い十字架の旗に戻した

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元に戻して

スイスの街路では 夜になると各店のウィンドウに灯がともり 通りを歩
く恋人達(非常に羨ましかった~)は店内を覗きこんで楽しんでいます 
店のシャッターは朝まで閉まらないのです
バスに乗る場合 乗車券を自動販売機で購入してから乗る 下車するとき
調べるかと思っていたが調べない 日本のワンマンカーとは違う 人間を
信用しているの?
いや違います ある日突然検札官が乗りこみ 所持していないと高額の罰
金を科す

この日はルツェルンの「LE MAZOC」というホテルに宿泊
(現在不明)

f:id:HATTYAN0234:20200501150231j:plain8月20日(日)8:30起床 晴 ルツェルンでは勾配世界一ピラトス
山に登る 往路はケーブルカーで 雪割草が綺麗だった 頂上は全面雪で
視界はゼロでした(下の写真は奇跡的に視界良好であった日の写真引用)

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スカッと晴れるのは何年に1回だとか よってアルプスは全然見えません

山を下りる復路ではゴンドラ・リフトでゆっくりと 教会のミサの鐘が心
地よい 次いでチューリッヒに行く チューリッヒ湖では国旗を背にして
湖上遊覧を楽しむ

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4時半だというのに店は全部閉まっていた 日曜日ではあるものの 駅前
ぐらいは開けていてくれればいいのに 今晩もまた食事抜きで ローマ行
き夜行に乗車する チューリッヒからだと 相当な距離ですが 時刻表と
ニラメッコして「夜に出て朝到着できるのはどこ?」で決めます 
ミラノ~ボローニャフィレンツェ経由です

追記:相棒S君のスイスについての印象
スイスではどこに行こうか決めていなかった?との問いに「記憶が定かで
はない」と スイスの印象は宿泊したホテルが清潔で感じが良かったこと
ピラトス山に登るケーブルカーからの車窓が「アルプスの少女ハイジ」だ
ったこと 山の上が雪で寒かったこと チューリッヒ湖での湖上遊覧 
スイスは清潔な国だと強く感じたと

毎日の使ったお金(スイスフラン)について記しておく 
1CHF=79.46円
・8/18 7:00起床 パン1.9F 荷預け0.6F アイス0.5F 
    ビスケット1.5F パイ缶1.25F バター0.6F 
    地図1.3F(S君0.5F) パン0.5F 宿紹介料0.5F 
    宿代22F 市電0.4F
    (さすが物価高のスイス ホテル素泊まり1,750円は高い)
・8/19 8:30起床 市電04F 荷預け0.6F ビスケット1.4F
    コーヒー1.8F スーパー2.95F(ハム パン ジャム 
    バナナ オレンジ)宿紹介料1.25F 夕食9.9F
・8/20 8:30起床 宿代16F 荷預け0.6F バス1F 
    ピラトス山22F コーヒー1.5F (チョンボ0.5F) 
    パン0.5F タバコ1.7F

ここでも兼高かおるさんの名言を紹介します
若い人は安い旅をしてはいけない
 若い時に使う時間というのは 自分を育てるための時間
 自分を高めるための旅をしたいものです
  学生でこの時代海外旅行を実現できたことで 自分を高め得たと思う
 なるべく多く周遊しようと食事を抜いたり車中泊の連続で無理した?

旅に出ると細胞が活性化する
 行って 見て 出会って 感じたい
 まるでドラキュラのように 見るもの 聞くもの すべてから吸い取っ
 て
細胞を活性化させたい
 旅行中 できるだけ多くの人と接触する機会を作り できるだけ会話し
 できるだけ見聞きしたつもりですが・・・若い女の子に限っていない?
 

 

 

 

 

 

 


   

 

 

 

 

 

 

1972年の夏⑥ユーレイルパスdeスペイン

8月11日(金)パリからマドリッドへの夜行出発で ユーレイルパスを
使用開始
  注:ユーレイルパスの裏面にはバルセロナ駅の8月11日の消印が!
    ということは パリからの経路では バルセロナ駅を経由して
    マドリッドに向かったということです

早速車内泊です カナダからの二人の中国人の女の子と話し合うチャンス
が持てた トランプでナポレオン(中国語でユークーと言うそう)をした
が 結果コテンパンに負けた さすがに相手二人は英語がうま過ぎた
(こちらが下手過ぎたのです)車中のパン代2.2F ジュース1瓶1.1F
(・・・・これが夕食?)

<スペインでの行動足跡>
 8月12日  マドリッド市内~トレド旧市街
        駅で中国人二人にサヨナラの挨拶せずで少し心残り
        アルバイト先のS・Hさんのお兄さんが市内にいる
        というのでTELするも不在でした 残念でした~

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 8月13日  マドリッド市内~プラド美術館~闘牛見物
 8月14日  コルドバのメスキータ
 8月15日  地中海マラガで水泳
 8月16日  グラナダアルハンブラ宮殿 そして夜行列車に乗車

 8月17日  18日早朝にかけフランスのリヨンに着くまで車内生活
        旅行中一番の空白がこの車内での記憶 相棒S君に質問
        してみたが「列車から見た風景が結構殺風景で 昼夜の
        寒暖の差が大きく長く列車に乗っていた「移動時間」と

 以下 各観光名所の寸評が日記に残されている(パリ市内と同形式で)
・壊れかけた街が大好き(当時はそういう風に表現していたんだなあ)で
 も暑い!トレドには歴史がそのまま残存している エル・グレコの面影
 がフッと漂う街角に スペインの匂いをかぎ取ることができたと
 (何を気取っているのでしょう) 

参考:8世紀のトレド イベリア半島は約600年のローマ帝国支配の中
   道路網が完備され どんな山奥にも橋がかけられ またキリスト教
   も浸透していった
   その後ローマは衰退し 西ゴート王国支配下となり最初の発展期
   を迎えることに
   8世紀の初期にはイスラム教徒によって支配権を奪われるが 当時
   はキリスト教 ユダヤ教 イスラム教は共存していた
   キリスト教による軍事力 イスラム教徒の農耕・灌漑・建築・工芸
   ユダヤ教徒の科学・医学・国際的な金融感覚が一体となったトレド
   の文化水準は 当時の欧州でもずば抜けていた
f:id:HATTYAN0234:20200430132500j:plain 先ずは セルバンテスの像の前に建つドン・キホーテと従者サンチョ・
パンサ像 スペイン広場での有名な待ち合わせ場所になっているとのこと

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アルバムを見ていて分かったのは トレドで「サント・トメ教会」に入場
していたんだあということ(37年後に再訪したとき入場できなかったと
悔やんだが・・)

f:id:HATTYAN0234:20200525162942j:plainエル・グレコの傑作「オルガス伯爵の埋葬」壁にはめ込まれた大きな絵で
上下二部構成 天界(魂の昇天)と地上(肉体の埋葬)を描いている 
撮影禁止で大塚国際美術館の陶板画からの転写 エル・グレコ自身と彼の
息子がこちらを見つめている

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 METRO アトーチャ駅 「世界の名駅」の一つです 落葉の押し花は 
意味不明です

プラド美術館にはゴヤの名作「裸のマヤ」の原画がある・・・・・・・
 まあすごい 世界三大美術館にある絵を原画と表現することにビックリ

プラド美術館で会った大垣から来ていたご夫婦に 車に乗せていただき
 闘牛場へ 闘牛は少し残酷だ この日だけで 7頭もの牛が殺された 
 けれども闘牛士は恰好いい マタドールは やはりものすごい人気で 
 場内の拍手が鳴りやまなかった
 ハンカチが振られ 座布団が投げられる スペイン人の血のたぎりなの
 でしょう 同じ国技でいえば 日本の大相撲で横綱が負けて座布団が飛
 ぶのとは違うかな?

f:id:HATTYAN0234:20200601115244j:plainはるか上の方からの見物でした 日本人も多数いるなか下方に ルーブル
で一緒だった女の子がいた 何かの縁がと声をかけたかったが 出口近く
で はぐれてしまい残念!

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マタドールとは「牛に止めを刺す主役の闘牛士」のこと
肩甲骨の間わずか5㎝の急所に剣を突き刺す このとき剣の位置がズレて
牛が吐血したり 何度も突き刺すことは「闘牛美学」に反します 牛を苦
しめず一瞬に止めを刺すことが見事とされ拍手喝采となるのです「真実の
瞬間」と言われています

スペインを舞台にした映画と言うと ヘミングウェイ原作の1943年版
(日本では戦後1952年)「誰がために鐘は鳴る」ですが 主演のイン
グリッド・ヴァーグマンにうっとりしている間にエンドマークが 中身は
残念の一言です この後に回るコルドバグラナダこそは「ムーア人から
の国土回復運動(レコンキスタ)」と呼ばれる歴史上の大事件の表舞台で
あり 舞台に関しての歴史映画はあったかな?
それで思い出される映画こそ1961年「エルシド」です ベン・ハー
次いでのチャールトン・ヘストンの独壇場 超スペクタクル大作なのです 
祖国の大英雄シッドは「死して馬上の人となり ここから伝説が始まるの
です」と締めてエンドマーク 体に震えが起きます 感動です 

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エルシド(本名ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール)のサイン 

余談ですが 後日スペイン再訪時に ツアーのガイドさんに頼んでおいて 
ようやくエルシドの銅像に巡り合えました 残念ながらツアーの他の皆さ
んエルシド?誰?

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セビリアの道路中央分離帯に建つエルシド像です

コルドバでは 何と言ってもメスキータ イスラム教とキリスト教の合
 作建物でとても特異な雰囲気だった(当時写した写真が見つからずイン
 ターネット転写)

f:id:HATTYAN0234:20210205173044j:plainアーチの数約850本 まるで合わせ鏡のように 同じ形が奥へ続きます

見事! 実は キリスト教の大聖堂に増改修する際に 一部のアーチが取
り除かれたのです 本来もっともっと アーチの森は深かったのだとか 
(参考:現在一部分を復元中だとか)

f:id:HATTYAN0234:20210205173213j:plain次にイスラム・キリスト融合の礼拝堂を 両者は向き合っているのです

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左がイスラム教徒の祈りの場「ミフラーブ」メッカの方向に向けて祭壇が
右はキリスト教徒のマヨール礼拝堂 明るいイメージです
注:メスキータとはスペイン語でモスクの意 下はコルドバの市内

f:id:HATTYAN0234:20200430133221j:plain・マラガは避暑地なので宿泊するところが無く困っていたところ 親切な
 米国人が自分らの部屋を貸してくれた それで彼らは?というと 屋上
 で寝ているのです 翌日はこの米国人たちと海岸でいろんな話をした 
 なりは大きくても心根はすごく優しい 卒業後は教師になるそうです
  
 フランスのシャルトルといい 今回の男女4人といい アメリカ人は男
 女2組で海外旅行する 羨ましい! 今回はキャンディス・バーゲン
 の美女がいた
 
 地中海の水は井戸水のように冷たく 無理して入るも5分ともたない

f:id:HATTYAN0234:20200430131534j:plain 左から私 相棒S君 ハワイ島ヒロ出身マーロン・ライスさん 明治大
学の2人 明大の二人とはコルドバ~マラガ~グラナダと丸二日間同行し
たが全く印象残らず

アルハンブラ宮殿 どこからか ♪アルハンブラの思い出♪ が聞こえて
 来そうと言いたいが 少々イメージダウン 皆ワンダフルと言うが 
 私はワンダフル以上を期待していたのだ 私をスペインへと導いたこの
 宮殿の魅力をこの日実感できなかった 「世界の旅」で兼高さんがあま
 りにも魅力的に紹介し過ぎたせいか?

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 ここで兼高さんの名言:世界の旅を長年にわたって多くの方たちが楽し
んで観て
くださったのは本当に嬉しいことです でもテレビの旅番組は 
あくまでもプロ
ローグ その先の物語をつくるのは自分自身なのです

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上の3枚は「コマレスの塔と天人花の中庭」
水 光 花は無味乾燥な砂漠の生活に やすらぎを与える三要素であり 
それらをふんだんに保つために 中庭はアラブ建築に必須の存在であった

参考:歴史上の舞台として重要と既述しました 11世紀からのレコンキ
   スタ運動 実は最後は1492年のアルハンブラ宮殿陥落で終了し
   たのです 陥落までに数年要しましたが それだけ守備に強い難攻
   不落のお城でもあったわけです
   グラナダの征服者イサベル女王は と同時にコロンブスを援助して
   新大陸発見から スペインによる世界制覇の大航海時代の幕を開け
   ました
   イスラム教徒を追放したあと モスクは接収され教会となるが 
   アラブ様式は破壊されることなく キリスト教文化に接ぎ木された
   これはイスラム教徒が首都と定め大繁栄したコルドバのメスキータ
   を見ても十分理解できるのではないでしょうか

有名なライオンさんと綺麗な庭園
12のライオンが噴水となっている中庭は「ハーレム」で王様の快楽生活
の営み場 噴水は水時計 1時には1頭が 2時には2頭が 12時には
一斉に水を吐き出す ネバタ山脈と中庭の標高差により サイフォンの原
理を応用し雪解け水を運びます

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参考:ハーレムに付き物の浴場(バーニョ)は アラビア人にとり深い意
   味を持つ「精神を浄化する聖なる場所」と考え 入浴前には口 手
   足の順に丹念に浄めた 口は良からぬことを話し 手は良からぬこ
   とを行い 足は人を罪を犯す場所へ導く この浄めの儀式こそは
   コーランの格言に忠実を尽くすイスラム教徒の務めである

最後に湯蒸気で身体を浄めたアラブ王は もはや厳しい戒律から解放され
全裸の美女たちと 2階では目をつぶされ 宦官にされた楽士達が音楽を
奏でる

アルハンブラで スペインの美しいセニョリータ2人と知り合うが 
 あまりの美しさに上気し言葉が出て来ない 第二外国語スペイン語
 2年間(優)の成績を取ったのは何だったんだろう(女王と同じの)
 イサベルという名の美女だった

参考:スペイン語ってあるの?と言われると 厳密に言うと存在しない
   スペインはEU域内の多くの国と同じ多言語国家である 使われて
   いるのはカスティーリャ語 カタルーニャ語 バレンシア語 バス
   ク語他などである
   現行憲法では「カスティーリャ語は国家の公用スペイン語である 
   全ての国民は この言語を知る義務と 使う権利を有する その他
   のスペイン諸語も 自治州内で 自治憲章の規定で公用語となる」
   どうしてカスティーリャ語? それは既述のレコンキスタ運動の過
   程の中で カスティーリャ王国が中心となりグラナダでの勝利から
   統一を実現したため

スペイン王国の国旗について
国章はスペインの4つの古い王国 カスティーリャ レオン アラゴン 
ナバラの紋章からできている(ここにカタルーニャは入っていません)
北東部のカタルーニャ州バルセロナ中心)は独立心旺盛で 長い間自分
達の国をつくる運動をしている 人々は「アスタラーダ(星付きの旗)」
を窓からつるし 運動の成功を願っている

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左が国旗 右はカタルーニャ州の旗
f:id:HATTYAN0234:20200531174128j:plain毎日の使ったお金(西ペセタ)について記しておく 1ESP=4.75円
・8/12 ホテル代100P 手数料12.5P TEL代2P タクシー代
    25P 果実26P 昼食36P(ビールとホットドッグ)サン
    トトメ教会
5P グレコの家25P 壁飾り100P ズタ袋
    180P 地下鉄4P コーラ2本15P シャワー代23P 
    夕食125P   マドリッド1泊
・8/13 地下鉄2回10P 荷預け10P プラド美術館50P パンフ
    10P アイス3個12P 昼食50P 帽子60P 闘牛40
    P パン18P タバコ13P 牛乳1リットル18P 
    ジュース25P コーヒー8P

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・8/14 荷預け10P×2 マッチ入れ45P 昼15P(コーヒーと
    パン) 皮水筒300P 果実20P マッチ箱10P 
    体重計1P(55㎏) ルマワイン9P  バス代12P×2と
    6P 夕食代40P マラガ1泊
・8/15 宿泊代100P 朝食25P 昼80P バス25P ジュース
    7P アイス12P 宿代50P 夕食12P   グラナダ1泊
    (この日宿泊代が2回あるのは どちらか米国人に渡したから)
・8/16 荷預け10P 大伽藍15P 絵葉書4P アルハンブラ宮殿
    50P 土産200P 朝食20P パン13P 牛乳23P 
    果実12P 
・8/17 夕食40P(ビールとパン)                    車中泊2日
    「車中泊2日」これが不気味 空白の2日間なのです 旅日記に
    「お尻が痛くなるし退屈だし おなかは空くし 汽車は遅いし 
    駅には長く止まるしイライラし通し」と(16日夜グラナダを発
    ち 18日早朝リヨンに着くまで) 謎です

f:id:HATTYAN0234:20200702154925j:plain参考までにスペイン鉄道路線地図を出しておきます(2019年のもの)
地中海沿岸に沿ってバルセロナまで行ったのかと思い込んでいましたが 
線路を結ベません マドリッド~サラゴザ~バルセロナと大回りしたので
しょうか・・・・

高峰秀子の旅日記「ヨーロッパ二人三脚」新潮社
1958年 彼女が34歳のとき ベネチア映画祭出席のあと 夫の松山
善三と二人で7か月欧州を旅した際のもの 彼女の死後に日記が発見され
発刊された
パリ~マドリッド~イタリアそしてドイツと自由気ままな旅で 内容は本
音満載 ここにマドリッド編から抜粋してみます  

パリから夜行列車でマドリッドへ 起きるとあたりの風景は ガラリと変
わっていて 見渡す限りの青々とした土地に なだらかな起伏があり 
ポツンポツンと白壁の背の高い家が建っている 日がカッと強く照ってい
て 壁が光って美しい

・人々はほとんど髪も眼も黒く 何となく親しみがある
 スペインは朝10時から昼が朝食 2時~4時昼食 夜食は10時から
 だそうでフランスに輪をかけた遅さである

プラド美術館に行く グレコが沢山あり 初めて良さを知った
 有名なゴヤの二人美女「裸のマハ」と「着衣のマハ」も見る

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっと脇道にそれて
マドリッドは今やヨーロッパ有数の「美女の産地」 そしてスペイン美女
の代名詞ともなったペネロペ・クルスの功績は大きい おそらくスペイン
史上初めてハリウッドでも抜きんでた評価を得るトップ女優となった人だ
ろう エキゾチックとはまさにこの人 一度見たら忘れられない個性的な
彫の深さ 黒々とした大きな瞳 豊満な肉体 彼女こそが「裸のマハ」を
思わせる マハとは 特定の女性を指すのではなく スペイン語で「小粋
な女」という意味で ペネロペ・クルスは典型的なマハであろう
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元に戻って
・ナイトクラブで本物のフラメンコを見る アラエッサッサの安来節のよ
 うだ 女も男も実にエネルギッシュな踊りで 汗まみれになり髪を振り
 乱して踊る 男のは闘牛の形を取り入れたものだそうで 女も裾の長い
 服で踊る時は足さばきやキマリの見えが実に日本風である しかし 
 日本の地唄舞いの難しさにはとても及ばない 矢張りある程度肉もつき
 年もとった女の方が感じを出すものである

・(再び夜行列車でフランスへ移動した際の感想)
 ジェラルミンのような汽車で揺れること 揺れること
 (国境越えでフランスに踏み入れ)
 全てが寛大で (税関も)ユーモアがあり面白い フランスの方が汽車
 も良いし揺れないのでぐっすり寝た 洗面器にオシッコ(大女優がこん
 なことする?)  
 (まあこんなことをメモに残すのも自分だけの旅日記だからでしょう)