2023年3月 ホープツーリズム 福島の「今」を知る旅

福島県は 世界で類を見ない「複合災害(地震津波原子力災害)」を
経験した唯一の地域なのです
ホープツーリズムとは 福島の各分野で 復興に正面から取り組んでいる
「人」との出会いと共に「福島のありのままの姿」を実際に見て 聞いて
学んで 希望を感じる体験と学びのプログラム(学び✖福島=希望)です
今回の旅は 福島県の全面支援に 旅行会社のクラブツーリズムが応えて
添乗員も 10人の乗客も カメラマンも全員が 会社に選ばれたという
社外の人で組成された2日間のモニターツアーです 私は乗客の一人です

行程は 上野発8:15のバスに乗り込み 昼食は「いこいの村なみえ」
そして ホープツーリズム(見学は 東日本大震災原子力災害伝承館と
請戸小学校 大平山霊園 双葉駅周辺)宿泊は「やすらぎの宿双葉の杜」

2日目は リプルンふくしま 道の駅ならは Jヴィレッジ そして昼食
ワンダーファーム」で上野帰着が17時頃の予定と書かれています

添乗員さんは 専業主婦から会社に応募してフェロースタッフになったと
いう15年もの経験を持つベテラン 毎週出かけ今や全国津々浦々を巡り
隠岐の島を残し 国内全域を廻りましたと(誠に羨ましい限りです)

私は添乗員さんの後ろ席 添乗員さんがレジメを必死にめくりつつ説明を
するのを見ていました 添乗員さんも会社自体も このホープツアーは初
だそうで 特別緊張していました(現在では他のフェロー添乗員の指導員
という立場にある人でも 初のコースは大変なご苦労があるのでしょう)

私は エコースタッフ歴10年目 昨年「モニターキャスト」と言うもの
に応募して なぜか選ばれて 各種のツアーにも参加して来ました

バスの車窓から見える筑波山
茨城県の紹介がスタート メロン栽培が有名 新幹線が通りますが 駅は
無い(確かに) 霞ヶ浦は琵琶湖に次ぐ面積(第三位はサロマ湖)・・・ 
何と茨城県の面積の3分の1とか(琵琶湖は滋賀県面積の6分の1です)

関本SAでは 津波で流された六角堂 海から拾い上げて修復とか 塩屋
岬では 美空ひばりの「みだれ髪」私の一番大好きな歌が紹介されました 
ガイドさん さては歌ってくれるのかと期待するも次の説明に素通りです 

いこいの村なみえで 本日限定 日替わり定食Bのさわら味噌漬け焼きが
1,100円(同乗の奥様が 結構美味しかったけど卵料理が3つもあり
どうなの?と不満 何言ってるんだか 今卵が高いんだと心の中で反論)

我々と同様 清水建設東北支店の背広組が来ていました きっと復興便乗
商売視察なのでしょう

さすがに震災後 今週末で12年目ともなると 道路は整備されています 
気になったこと 沿道沿いに花が全く見えません 何とも殺風景なのです
でも当然ですね 周囲の田畑や土壌は掘り返し除染したのですから・・・

震災関連の写真提示多数の 学びの館(2020年9月オープン)です
駐車場に名鉄観光のバスが停車中・・・やはりホープツーリズムの札を
出しています ただしバスの車内には 一般の乗客がいないようでした
会社の下見段階で 当社の方が早いわと添乗員さん ライバル意識大
(調べてみたらホープツーリズムは6年前からスタートしていますよ)

 

この模型は ふるさとを離れた双葉町民が 避難先で それぞれの記憶を
頼りに 町の復元模型(神戸大学が作成)に色をつけて作成したもの
模型に立てられた旗には「花火を見た」「お祭り」などの思い出が書かれ
ていた(写真を拡大して小さな文字を 読み取ることができます)


「プロローグシアター」 ナレーターは福島県出身の西田敏行さん
震災時の津波の映像が 全7面のスクリーンと床全体に広がります

展示されたパネル写真を見ながら 螺旋階段を上ります

往時は 町全体も 学校の授業でも「原子力万歳」だったのでしょう
浪江中学校の教室に掲示された習字の課題作品です この生徒は今?

原発の候補地は貧しい地域から選ばれました 稲刈作業が終わると冬場は
出稼ぎで人口が大幅減 生活を支えるのが精一杯でした 原発稼働で生活
は一変し 出稼ぎせずとも関連の仕事で豊かな生活が得られたようでした

地震発生時刻 伊達市 
地震に因る大きな揺れで落下した時計 14:46で止まっています

(記事中に)大船渡市末崎町の細浦地区は 津波に流され壊滅状態・・・

2011/3/11  16:59 福島県大熊町

震災のビフォーアフター


2011/3/17 宮城県気仙沼市
子どもをおぶった女性が 暗いトンネルを歩いていた・・・

この一枚が胸に突き刺さりました 震災当日 避難所で再会できた母と娘
説明はありませんが もしかすると後で見学した請戸小学校の児童とその
母親なのかも知れません・・・・

2011/9/11 宮城県名取市 
津波で流され 回収されたランドセル 震災から半年過ぎたが 引き取り
手が現れず 学校に残ったままだった

2011/3/18
震災から1週間 発生時刻の14:46に合わせてサイレンが鳴り響いた
変わり果てた風景の中 手を合わせて黙祷する親子の姿があった

3月11日です
読売新聞社の記者 カメラマンが撮影した2012年から2020年の
「3月11日」の写真です 愛する人やふるさとを思う被災地の今日を
これからも伝えます

2012/3/11 福島県いわき市
津波の発生時刻 住民らが僧侶の読経に合わせ 黙祷した
塩屋崎灯台が見える平薄磯地区では 津波で約9割の家屋が全壊し
100人以上が犠牲になった

再度塩屋岬となり「みだれ髪」の出番です 美空ひばりの歌碑の前では
この歌が流れます 舞台上では歌うたびに目を潤ませ 思わずこちらも
心痺れる哀歌 魂の歌です 団塊シニアにはここは憧れの聖地なのです
また 映画「喜びも悲しみも幾歳月」のロケーション地でもあるのです

♬髪のみだれに手をやれば~ 憎(にく)や恋しや塩屋の岬
 投げて届かぬ想いの糸を  胸にからんで 涙をしぼる♬
♬暗(くら)や涯(はて)なや塩屋の岬~ 
 見えぬ心を照らしておくれ ひとりぼっちにしないでおくれ♬

時代を越えて 人々の心を揺さぶり 福島に寄り添う天からの歌です

ここ伝承館から海岸まで 何もありません


理科室の黒板に書かれた言葉 H25/3/1
福島が戻るまで何度でも来ます 一緒に頑張ろう  8321
必ず立ち直れる 自分に出来ることを精一杯します 8322
子ども達の未来のために頑張ります 九州管機 大分第二小隊
頑張れ請戸 ねばり強く 陸自もねばる!!

 
このピアノは震災当時 請戸小学校の2階音楽室にあったピアノです
津波により10㎝ほど浸水したものの その後使われていました 今回
請戸小学校の震災遺構オープンに合わせ 浪江町より借り受け展示

そうです 震災当日避難勧告ではなく避難指示・命令であったなら 
どれだけ多くの人命が救われていたことでしょう!

廃棄物の中間貯蔵施設です(この奥に存在する第一原発は見学できず)

鉄塔(見晴台)の上に掲げてある矢印は ここまで津波の水位が・・・
福島県復興祈念公園が令和7年(2025年)末の完成を目指しています
位置的には 先ほどまでの伝承館と隣接 双葉町浪江町の境になります

請戸小学校に到着しました 海岸沿いに黒松の植樹がなされていますが
黒松は 2年で人間の身長まで育つそうです

さあ 奇跡の請戸小学校の実話が始まります
右の絵本は NPO法人ノーブレス・オブリージュのメンバーに福島県
出身者がいて 視察に来た際 当校の事を知り絵本として発刊したもの
参考:「ノブレス・オブリージュ」とは「貴族が義務を負う」から発して
   いて 日本語では「位高ければ徳高きを要す」ビジネス上の言葉に
   置き換えると「自発的な無私の行動」と表現できるのでは・・・

津波の高さが実感できます 改めてとんでもない高さだったんですね
避難する子供たちの絵と文章が 絵本から抽出され 震災遺構の順路に
沿って 案内パネルに使用されています

数日前にも地震があったこともあり 児童は「また地震か」と思いながら
机の下に隠れ 揺れが収まるのを待ちました
しかし揺れは収まらず 机ごと数十cm移動してしまいました 体育館に
いた5年生は その場にしゃがみ 頭を手で守るようにしていました

校長室内の耐火金庫には郷土史の原本など20数冊が
町教委の職員が被災5年後に金庫から取り出し保管 水に浸っていた時間
が少なく カビなどの被害は無い・・・

地震の後には津波がやってくる」と近所のおじいさんに教えてもらった
ことを思い出しました・・・

請戸小学校から大平山を望む(パノラマで撮影)

掲示板を見ながら体育館に 3/23の卒業式の準備がそのままでした

山へ避難した児童とは別に 1年生11人は既に下校しており 児童全員
の安否確認は 連絡が取れにくいこともあり 困難を極めた 
最終的に全員が無事であったことを確認できたのは一ヵ月後でした

震災に遭遇のある娘さんの手記に この小学校の教師だった母親に連絡が
取れませんでしたと 2日後に連絡が取れ無事を確認 2日間どうしてた
のと聞くと 連絡が取れなかった1年生の子ども達の安否を追っていたと

そうです 母は1年生の担任教師だったのです そしてこの娘さんがそれ
まで一度も訪れなかった請戸小学校の震災遺構立ち上げに尽力したのです

先生と児童たちは 田んぼの畦道を通って1・5km走ったのでした
この学校にはエレベーターがあります 足の不自由な車椅子の児童が
いました 皆で助け合い 励まし合い乍らの必死の避難でした

陥没した体育館 ねじ曲がった時計・・・

小学校の2階廊下には 沢山の人の実体験が掲示されていました

校旗は後日 寄贈されたもの(フレンジ付の総刺繍オーダーメイド)

管理塔と校舎全景

大平山の慰霊塔から右奥に請戸小学校が見えます
2021年10月開館の「震災遺構 浪江町立請戸小学校」です

下のガードレール横は車道です ここは自動車渋滞で津波に飲まれました
車を捨て 上の霊園がある場所まで高低差6~7m ここをかけ登った人
だけが助かりました まさに生死の分岐ポイントとなった斜面だそうです

霊園から見下ろすと もう一軒見えますが 最近建物が完成ました
いつ来るか知れぬ「災害危険地域」であり一般の住宅は建てられません
昔から商売をしていた鈴木水産と言う会社だそうで 当地産の魚が忘れ
られないと ここの社長さんにもインタビューするとか 児童が走った
田んぼの畦道から山道も体験してみたい という意見がありました

ガイドさん(このツアーでは フィールドパートナーという呼称)が
双葉町の商店街だった今は無人の通りを 歩きながら案内してくれました
上の酒屋さんは 今米国のシアトルで営業しているそうです

一見すると無傷のように見える家も 中はイノシシやネズミにやられ
ムチャクチャだそうです 家に蓄えられていたお米が狙われたらしい

図書館の入口 段差ではありません 陥没したものですと

左 町役場 右 新旧駅舎 復興のシンボルでしょうか?

双葉駅は無人駅 常磐線が1時間に1本通ります
鉄道路線図では 左6個目がJヴィレッジ駅 右1個目が浪江駅

丁度駅に なあんだ普通の常磐線です 線路は新たに敷き直したようです

駅の向こうは今後開けるようです
今現在 双葉町では居住希望者に提供できる住宅戸数が圧倒的に少なく
ガイドさん自身 ワンルームで6万7千円も払っているそうです

町を離れる際 バスの車中から 家々の壁に絵が描かれていて何だろうと
思っていました 東京の方から 壊す予定の家に描く人が来るようですと
バンクシーが描いてくれればいいのに」 ヒットな名言 その通り!
同氏のウォールアートなら復興の大きな財源になること間違いなしですね


ご飯は当地産のこしひかり
お米は当初から全量 放射能測定と どう思いますか?答えは全くゼロと

宿泊したホテルの夕食と朝食 魚がとても新鮮で 特に刺身が分厚い!
道の駅なみえで おつまみ(無印良品)ローソンでビールを購入 部屋で
一人で飲みました(今回の旅行ではいつも横にいる妻がいません 大阪で
母親のお見舞いなのです)ご夫婦で参加の2組も別々の部屋でお休みです

2日目の出発です 「リプルンふくしま」 リプルンって意味は?
再生・復興の想いが「リ・プロデュース」で 「~する」の造語で
「リプる」親しみを込めるため語尾に「ン」をつけてリプルンとは
極めて真面目な施設・事業体に 何かふざけている感じで良くない

震災の複合被害で大気中に放出された放射性物質を含む土壌や廃棄物 
今もなお 県内各地に保管されている 除去土壌や特定廃棄物などを
できるだけ早く安全に確実に処理する(埋め立て)ための事業体です

見て触れて学べるというコンセプトながら 早口の説明で終始し 我々が
自由に操作できる時間が無かった 極めて興味深い施設でもあり 後ろの
行程が押しているのでしょうが あと30分ほしかった 大変残念でした

ここのリプルンって「特定廃棄物埋立情報館」なんです 折角埋立現場に
来ているのに 見学可能なのに我々には時間が無い 上の写真の埋立現場
既に最終段階であと一層(下の袋を)積み上げれば 最終土を被せて終了
ビル4階分だったかな?順次周囲の壁も積み上げていったそうです

この袋 地盤改良用収納容器 6段積 覆土  ゼオライト混合土
右は空気中の放射能を測定するガイガーカウンター様の機器
これを実際に携帯し あえて除染していない場所での針の振れを
体験出来ました 皆さん大声で数字が上がるのを叫んでいました

除染していないフィールドの数値でさえ「放射能オリンピック反対」を
叫んだ狂気の韓国より数値が低いとは!! 日本政府しっかりとせよ!
(最近では韓国国内でも これから実施の除染水というか薄めたものの
海への放水は数値上問題ないと発表したようで 日本にきちんと謝れ!)

「道の駅ならは」の30分をリプルンへ欲しい! 次はJヴィレッジです
私は興味小です サッカー好きの小中高の生徒は狂喜乱舞らしいのですが
シニアにとっては どうでもいい いままでの震災関連から あまりにも
かけ離れたもので 学びの感覚からスポーツの感覚への移行が出来ません

日本代表やアルゼンチン代表もトレーニング なでしこジャパン
レーニングしたようで 「神のピッチ」と呼ばれているようです
ドラマ「ノーサイド・ゲーム」の最終回の舞台になったとか
ピッチの線引きは「ライン引きロボット」がしてくれるとか
Jヴィレッジ広報担当のマスク美人が 明るく元気に説明されます

テントを張ったような全天候型練習場の入場口から なでしこの
連中により東京オリンピック聖火リレーがスタートしましたと

以上の件はさておき ここから原発までは20km 震災時には
このピッチに自衛隊のヘリコプター基地が置かれた 最初の晩に
ヘリが降りる際 停電で ここの社員達が自家用車を持ち寄って
ピッチをヘッドランプで照らしヘリを誘導した ピッチ上は瞬く
間に泥まみれになり使用不能になるも そんなことはお構いなし 
自衛隊に声援を送り続けたそうです これこそが本筋の話でした

建物内には「蹴球神社」なるものがあり おみくじを引きます
何と大吉を当てた同行者に倣い 私もお賽銭を投入 結果はウンとも
スンともなし 

なでしこジャパンの聖火ユニフォームとサッカージャパンの選手足型

左天然芝 右人工芝 ピッチへ下りて芝の感触を実感できました


サフランライスが少し固めでした
最初からメニューが一切なかったと不満を漏らされた奥様がいましたが
昼 夜 朝 昼と4食付 ホテル代も交通費も入場料も含め1万円です
どうして文句が言えましょうか 問題点は最後の意見交換会でどうぞ!

上野駅には午後5時過ぎに到着しました

何と言う事でしょう 本日は3月7日です 上野公園の桜が満開です
いったいどうなっているのでしょう?
妻から電話「JAXAのH3ロケットが失敗」と 大ショックでした
昨年筑波宇宙センターに行って以来 H3の打上げを応援していました

おまけ 最後のワンダーファームで行なわれた意見交換会での私の意見
アンケート用紙の設問順と違いますが 覚えている間に残しておきます
1,昨年4月にクラブツーリズムのツアーで山陰・山陽を廻り 広島の
  原爆ドーム原爆資料館 5月に復帰50年の沖縄で ひめゆり
  塔と平和祈念公園に行きましたが 何組もの高校生達の卒業旅行に
  出会いました 両方とも魅力的な観光地に囲まれていて 観光の
  ついでに「学び」が入っている 旅行行程がスムースだと思います

2,1日目に浪江から双葉を廻り感じたこと
  ①このコースを 先ず全国の学級担任教師に回ってもらい 震災時
   小学生だった高校生及びその父兄に現地に行くべき意味を伝えて
   もらう 卒業旅行に大勢招くに当たり 当地に収容施設はある?
   十分でないのなら 会津 いわき そして県外の仙台にも協力し
   てもらう必要がある
  ②コース設定に歴史的意味合いが少な過ぎる 例えば江戸時代又は
   それ以前から 津波は発生しており この時には津波がここまで
   来たという標識がある(ガイドさんからは浪江町にありますと)
   避難地域のままであれば そのレプリカでもいいので 伝承館に
   置き その前で「想定外 想定外」を繰り返す東電の役員連中に
   これでも想定外?と問いただしたい(と個人的希望)
3,15:37 請戸小学校の校舎または校庭に我々はいました
  この時間は 校内の時計が津波で止まった時間ですが 添乗員さん
  バスへの集合時間を15:40にしました これは偶然ですか?
  それとも意識して合わせました?と聞いてみました 偶然ですと!
  今後本格的にツアーを組むのであれば お客様の感動を倍加させる
  サプライズとして 是非とも この時間帯を合わせてください
4,最後に いちツアー客としてお願いがあります シニア向けや若者
  向けにコース設定を考えてほしい シニアにはやはり温泉が無いと
  興味が湧きません 福島の会津若松 東山温泉など中通り以西には
  温泉が豊富 県外なら宮城の秋保温泉や 山形銀山温泉をつけても
  面白いのでは?
  それが難しければ 現地集合・現地解散方式で温泉はツアー客任せ
  又は ツアー中に離団届を出してもらい 最後の観光地いわき市
  離団を許可 そうすれば磐越東線会津へ向かえます

随分盛りだくさん話し 既定の3分間をオーバーしましたが まだまだ
検討要のポイントは多い 他の人の意見で 鈴木水産に どうしてまた
当地で会社を始めたのですか?を聞く機会を持つ また小学校の児童達
が辿った田んぼや山道を実体験する また海岸線を見学することもいい
との意見も 私は 秘かに「放射能除染水の放出時に船上から見学する
コース」などがあればいいのになあと考えますが これは無理ですね? 

3週間後くらいに「旅の友」に本コースの募集が掲載されるそうです
意見交換会で出された10人の意見が どれだけ反映されるものなのか
興味津々 とても楽しみです 
今回はキャスト特別料金でした 果たしていくらに設定されるでしょう

参考:ガイドさんから聞いた浪江町にあるという「津波到達水位標識」
   検索しますが見つけられません
   そこで検索でみつけた岩手県宮古市のものを紹介しておきます

岩手県宮古市重茂姉吉地区に立つ津波標識
「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」
明治三陸地震津波(1896年津波高46m)に襲われ 当地区で多くの
犠牲者を出した事を教訓に建立された 以来この地区では この碑より下
に住宅は建てられていない そのため東日本大震災津波高39m)発生
時に人的被害は無かった・・・

 

左上の白い掲示板 上は明治三陸津波で約15m 下は昭和期約10m
ここまで津波が来たんですよという歴史の証拠です
(当時の津波の最大打ち上げ高は大船渡市で38・2mと記録されている)
右は 今般の東日本大震災後に建てられたもの 後世には役立つでしょう

それにしても不思議なのは浪江地区で過去の教訓は?
浪江町地域防災計画(平成29年度修正版)には過去の津波事実の記載も
不明瞭 WEB上に津波標識の存在も見当たらず 何かが隠されている?
過去に学ぶという「温故知新」を知らない町なのでしょうか?

ブログ作成のため 伝承館についても調べていると・・・
館内では1日4回(各40分)震災被災者が語り部となっての講話がある
内容は 未来につなぐべき記憶・教訓 ただし話す内容については制限が
あるようで 特定の団体批判は不可 笑顔で対応するようにというもの

これで理解できました 各ガイドさんが いやに元気で明るいのが・・・ 
全体が ある種の縛りの下で運営されているんですね! 制限のかかった
ホープツーリズムと考えなければいけないんだと 奇妙な感じで納得です
でもでも 最終的には自分自身で考察して 子孫には伝達していきたい