年内におおいが取り払われる厳島神社の大鳥居
<4日目 4月6日(水)>広島から山口の岩国へ
ホテル所有の舟で宮島埠頭へ到着
現在干潮です
左:世界遺産の上の丸い穴から鳥居を写し込むのが流行り
右:神社の神の使いが「神鳥(おからす)」だそうです
創建の際 神社の場所を導いたという伝説が残っていると
1996年に世界遺産登録された「厳島神社」は木造建築です
日本の建築物は木や土を材料とし しかも自然災害で損傷を受ける
度に修復を重ねる日本の建築物に対し 世界には「真正性」を疑う
風潮もあった 当初世界遺産の活動をリードしていたのは石の文化
をもつ西洋の先進国 そのため登録は難しいと考えられていた
日本では 木の文化への理解を深めるため地道な活動がありました
日本には 元の建物と同じ素材や道具を使って再現する伝統手法が
あります 1994年に奈良県で開催された国際会議では 自国の
歴史的建造物の真正性を丁寧に説明 これにより石造りに偏ってい
た登録基準が変わり 新基準が「奈良文書」としてまとめられた
これは木や土の文化を有するアジヤやアフリカの建造物にとっての
追い風となっています 「世界が認めた木の文化」なのです
ここが入口です
神社境内の干潮時に現れる三つの池 地下から湧出しているそうです
能舞台は毛利元就が寄進したそうで 舞台上の足拍子のたびに大きく
共鳴 これは潮の干満で響き方も変わるとのことです
土台石の上に柱が乗っかっているだけ これは大鳥居にも言えます
神社(鳥居)の自重で立っているのです
この紋何だろうと写しておき 後日調べました 厳島神社の神紋です
「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」亀甲は「亀は万年」で縁起がいい印
紋の由来は 厳島神社の宗像三女神からとのこと もともと亀甲は
神の常在を示し 剣花菱は神が宿る依代(よりしろ)を意味すると
出雲大社の神紋も良く似ていて 二つを比較するといいと思います
朝早いためか観光客が少なく とてもスムースに回れました
相模の国の江の島 近江の国の竹島(琵琶湖)とで日本三大弁財天
元々厳島神社の入口が今の出口であり 神社参拝の人が大願時で身
を清めてから入口に向かったそうです
岩国の錦帯橋の25分の1の模型が・・・・
多宝塔は桜の名所でもあります
多宝塔から下りて来て西の松原に出ました 丁度鳥居の真横を通ります
干潮時だからこそ このような場所まで入れます
千畳閣は畳857枚分 秀吉の急死で工事が中断未完成のままです
風が筒抜けで 夏は涼しい しかし冬はいたたまれません
受付のおばちゃん 冬は受付を閉めて知らんぷりしますと
何でここに白馬が・・・これも後で調べました
「宮島の七不思議」の一つです 如何なる毛色の馬も奉納馬は白
色に変わるそうです「厳島神社の神馬」です
商店街から一筋奥の町家通り 雰囲気がいいです
日本一の大しゃもじ 幸せを掬い取りましょう
展望台から
厳島神社のガイドさんの「だいこん屋」で昼食 カキフライです
日本三名橋の一つ あとの二つは東京の日本橋 長崎の眼鏡橋です
岩国城は慶長の城建築ブームの中 1608年に作られたが 幕府の
「一国一城令」で7年後に取り壊し 現在の天守は昭和37年に再建
城の入り口では 今流行のお城朱印状や 日本100名城城カードを
販売している
本日の宿泊は 山口市中心部の湯田温泉「西の雅常盤」6つの異なる
浴場完備の温泉と言います 実は昭和色の濃い旅館風のホテルですi
和室には昔のダイヤル式の電話が置いてありました ビックリです
夕食は和会席 ふくコース「宴」
ふくの皮刻み ふく万十 ふくちり鍋 ふく茶碗蒸し 瓦そば
シチュー ふく唐揚げ とらふく刺身 ふく釜飯・・・デザート
夜の8時半から1時間強「おかみさん劇場」なる77歳のおかみ独演
と言ってもいい催しが 水芸や変面など息つく暇もなく繰り広げられ
その努力 一生懸命さに拍手を送ります 90歳まで続けるそうです
<5日目 4月7日(木)>山口から福岡の門司港へ
五重塔は大内義弘の菩提を弔うために建立された
大内氏はスペインはバスク地方出身のフランシスコ・サビエルの布教
活動を支援し サビエル自身も2年余の布教活動が一生の宝と記している
山口は当時京都に匹敵する繁栄を見せた 文化人代表は水墨画の雪舟です
後生車を回して懺悔します
病気平癒祈願の仏さま ガン封じの水掛け地蔵にもお参り
香山墓所は毛利敬親ら家族の墓 参道はうぐいす張の石畳
足踏みの音が反響します 手を叩いても反響音がすごい!
これは狙って作ったのではなく 自然現象で後から分かったと
西郷・大久保らと長州側が集まって倒幕を話し合い
連合倒幕軍の結成を誓った明治維新の舞台のひとつ
バスの車内からカルスト台地を見学
バスの車内から指月山(143m)が見えます
毛利氏はこの山麓を埋め立てて築城したのです
町に入ると県のシンボル夏みかんがいっぱい ガードレールも黄色です
何故夏みかんが多い?これは関ヶ原の戦いで 西軍の総大将毛利輝元が
破れ 幕府から厳封され山口に引っ込んだ 輝元が居住地とし 開いた
城下町が萩で 屋敷地を夏みかん畑に転用し いわば食い忍んだ訳です
参考:安芸の国他8ヵ国112万石の毛利氏 輝元は引退させられ周防・
長門2ヶ国29万8千石に減封 のち36万9千石に高直しなる
マスク美人のガイドさん 年齢不詳ガイド歴何年?にも笑って答えず
山陰・山陽の旅行中ほとんど書き物を見ずに 細かい数字まで覚えて
いたのはスゴイのひとこと こんなバスガイドさん会ったことが無い
豪商であった菊屋 菊屋横丁は「日本の道百選」に選ばれている
中・下級武士・商人の住む旧町人地
高杉晋作と久坂玄瑞の像 二人が吉田松陰門下生での超優等生
久坂玄瑞は松陰の妹と結婚した 二人とも20代で死去 惜しい!
木戸孝允邸の庭と部屋にあった指月城の写真 国宝級の名城であったと
松江城で既述した明治の廃城令 命じたのが新政府の要人たる長州人で
真っ先に天下の名城の天守を取り壊さざるを得なかったようです
古地図に見られる藩校明倫館とそのポスター(現 明倫小学校)
松陰神社の文字は 松陰の書いたものから一字一字拾って並べた
横にある松門神社には高杉晋作・久坂玄瑞が塾生と共に祀られる
松陰(本名は寅二郎)が死を覚悟して親に宛てた辞世の句
「親思ふ 心にまさる親心 けふの音づれ 何ときくらん」寅二郎
ー今日の処刑の知らせをどんな気持ちで聞くのだろうー
松陰神社は 松陰愛用の赤間硯と書簡を御神体にして祀った神社
上の石碑は もしかして硯石を形どっているのでは?
松下村塾のこの部屋に多いとき30数名入って聴講 すぐ前が実家
明治維新後150年余 知られていないトリビアが萩にはあります
何と 維新の英傑達を 萩の民衆は白眼視していた!というものです
城下の者は 塾生を「乱民」と呼び 異端者扱いしていました・・・
松陰は 公然と幕府の施策を批判し 時に実力行使も辞さない姿勢を
見せた その過激な思想に 近隣住民の多くは彼らを恐れ 塾生のみ
ならず その家族もが村八分となったという
当時は 幕府に異論を唱えると死罪もあり得た 松陰の活動がいかに
危険であったか 想像に難くない
維新後はその功績が評価され地位は回復しました 時代を先取りする
先駆者にありがちな「評価の逆転」です
元乃隅神社の123段の鳥居 登って来ましたとのポーズ
硬貨を投げて 見事ハートの賽銭箱に入ればが願いが叶います
トヨタのCMで有名な1,780m 通行料無料なのです
角島の住民600名のために こんなに立派な橋が必要?
いいポスターですね 我々の時代は「おいでませ山口へ」でした
本州最北端は大間崎 本州最東端は宮古 本州最南端は潮岬と
関門海峡を渡ります 九州に上陸です
シェフの一皿 カリフラワーのムース
彩の冷菜 生ハムサラダ 甲烏賊のペペロナータ 真鱈の地中海風
こだわりの温菜 蝦夷鮑のソテー 肝の白ワインソース
こだわりのパスタ 真蛸のスパゲッティーニ からすみの香り
糸島豚 糸島ポークのロースト バルサミコソース
甘味 本日のデザート
門司港駅のライトアップ
ネオ・ルネサンス様式 木造の終着駅 列車はここから出発!
姿良し 風格良し 力強さ良し 駅舎番付があれば西の正横綱
明治時代 九州ではドイツの技師を招いて鉄道建設をスタート
まさに「鉄は国家なり」の頃 木造で建ててしまった心意気良し
駅構内のスターバックコーヒーは かつての三等待合室
関門大橋をバックに
「恋人の聖地」跳ね橋(ブルーウイング門司)は手を繋いで渡ります
宿泊の「プレミアホテル門司港」そして部屋からの眺め