2023年6月 茨城・栃木4日間 ②栃木県

那須岳ボルケーノライド EーBikeトリップ5時間

2日目 6月1日(木)晴れ那須高原ヒルクライムダウンヒル

ホテル内レストランでの和洋ビュッフェ朝食
チコちゃんに叱られる」味付け海苔に味が付いたきっかけは?

明治天皇の東京みやげが 普通の「海苔」ではつまらなかったから~
1868年江戸を東京に変え 3ヶ月東京に滞在 京都へ一度戻る際
京都への土産を何にしようか山岡鉄舟に相談 それを千葉道場の仲間
2代目海苔店主 山本徳次郎に相談したところ 江戸の名産と言えば
海苔 でも明治天皇に醤油をつける手間をかけさせる訳にはいかない
と考えた末 味付け海苔となったようです(現山本海苔店主談)
 
天皇のお土産ー味付け海苔といって大人気になったか? 答えはノー
手間がかかり生産も少なく 値段が米一升になってしまったそうです
後に関西で機械化 大流行となり 今や関西では96%が味付け海苔
(味付いてナンボや!)関東では普通の焼き海苔78%となっている

ホテル内散策

本日は ホテルから徒歩5分 ステンドグラス美術館前からスタート
那須高原での交通機関はバスかタクシー マイカーでの観光が中心で
我々の様な 運転免許返納者には 極めて不便 バス便も大変少ない
観光周遊パスを購入して 那須湯本温泉バス停まで出発です


    <那須高原の地図>番号は那須高原周遊バスのバス停番号

バス下車し 殺生石という観光地を横目に 那須高原ビジターセンターへ

ビジターセンターでEBike(電動アシストスポーツバイク)借ります

        MIYATA RIDGE RUNNER6180 10時からの5時間 5千円

電動自転車の経験は豊富ですが EBikeは初体験 敷地内で練習です
E-Bikeを乗れる条件:身長155㎝以上で自転車に乗れる健康な方

妻の康子が 坂道発進ができません ペダルの踏み込み力が弱いので
前へ進みません 再度角度の少ない斜面からスタート OKのよう?
ECHOからHIGHへのギア切替も不安で これで16キロ完走できる?

実は 出発地点から5キロ先の大丸温泉までが急角度のヒルクライム
とても心配です・・・案の定 2キロ先の高原展望台で事件発生です
「痛い 痛い」と大騒ぎ バイクを降り展望台へ向かう際 倒れ込み
膝の上にバイクが・・・

妻の叫び声を聞きつけ 自動車で来ていた女性が駆けつけ 
バンドエイドで擦りむいた傷の手当「綺麗な足ですが大丈夫?」と
綺麗な足と褒められて 妻もご機嫌 バンドエイド2枚もお守りに

恋人の聖地という別名もある場所での事件 景色どころではありません
このまま出発地まで戻ることになるかも・・・
参考:恋人の聖地としては 国内100番目の登録地だそうです

休暇村那須で11時から15分ほど休憩します
ここでの昼食は12時からなので ランチは後回し 再スタートです

「駒止めの滝」です 森の中に突然現れ それはそれは感激です
平成の世になり 上皇陛下が那須保養所の敷地の半分を環境庁
返還され それから一般公開されるようになりました それまで
「幻の滝」であったそうで 今こうして眼前に広がる滝 最高!


    秋の景観もまた素晴らしい

駒止めの滝は「那須平成の森」の端っこ ここから約5キロ走り
平成の森「フィールドセンター」までの道のりがヤヤコシイのです
ビジターセンターで取り付けたナビが全く役立たずで 最後は妻の
スマホナビで どうにか辿り着けました

ホテルから持参していたパンに こだわりのコーヒーを注文して
昼食タイム ここで思いもかけず 当センターの女性から 実は
ということで切り出されたのが「EーBikeでここへ立ち寄られた
のは あなた方が初めてなのです」「フェイスブックに載せても
いいですか?顔写真を出してもいいですか?」と写真撮影となり
まるで俳優気取りでポーズしました・・・

ビジターセンターから ロープウエィ乗り場近辺まで行き Uターンし
駒止めの滝から現在地まで 約12キロ(全行程16キロ)メインの道
から 当センターが外れていて 立ち寄る人が少ないのでしょうか?

丁度 当センターでの「平成の森ガイド」があったので申込みました
参考までに 上の模型で 白線で囲ったのが那須御用邸の敷地でした 


那須平成の森:大正15年 昭和天皇ご成婚後の御静養の場として設置
平成天皇(現上皇)のお考えで平成9~16年 森の調査を実施した後
上皇陛下御在位20年に 約560ha.が宮内庁から環境庁へ移管された
平成23年5月22日「平成の森」として開園された

昭和天皇は 那須の植物に関する本を4冊出版 初期の標本は東京帝大
に勤務していた牧野富太郎のもとに送られ 牧野本人に鑑定されていた
昭和48年10月「進講」という名目で 昭和天皇は初めて牧野と会う
昭和天皇の口癖「雑草と言う草はない」は 牧野の影響であり 牧野の
病気に際してはアイスクリームを 死去に際しても贈り物をされている
一方牧野は 昭和天皇のことを「友達みたいだった」と評したそうです

                    「ミヤコザサ」
                    比叡山の近くで発見された

30分間の「ガイドウォーク」に参加 インタープリター(その時その
場所の自然が発するメッセージを分かり易く伝える専門家)と一緒です

「ベニサラサドウダン」ツツジ科     「アブラツツジ

                        「コバイケイソウユリ科
                    臭いはおしっこに似ている

散策の途中で 上の木は ツキノワグマがよじ登った際の爪痕と 
熊は 普段はおとなしく 木の上の若芽を好物としているそうです

ビジターセンターまでの道が不案内で 地図を入手 丁字路に突き当たり
そしたら左へ これを繰り返すと・・・何とかメイン道に出ました

吊り橋です 下を覗けるので「怖いよー」と妻が脅します
今回は高所が苦手の私ですが 全くといってもいいほどスムース

ゴヨウツツジとは5枚葉のつつじ
2022年元日 上皇ご夫妻に新年の挨拶で20歳になった愛子さま 
初めて帽子姿を披露 ワンポイントが「お印」のゴヨウツツジでした
天皇陛下は梓 皇后陛下ハマナス 両陛下が那須御用邸で 5月に
咲くこの花が好きで 愛子さまのお印にしたのです  

ヤマツツジ」今年は咲き始めが早く この株だけが 
木道をはずれた小石道で ひっそりと咲いていました
右:見た目がマムシ?ということでパシャリ やはり「マムシグサ」と
  カメラのレンズ機能で判明 サトイモ科の多年草 有毒植物だそう
  茎には成長すると褐紫色の模様が出て マムシの皮膚に似て来ると
  根が里芋のようで 食べるとシュウ酸カルシウムで口の中で刺さる

吊り橋の戻りでは 団体客が大勢押し掛け 橋の上は満員
さすがに揺れが尋常ではなく こわかった・・・

ビジターセンターに15時過ぎ 無事にバイクを返還
バス停への戻りで殺生(せっしょう)石へ 硫黄の臭いがすごかった
松尾芭蕉 奥の細道での「石の香や 夏草赤く 露暑し」

那須湯泉(ゆぜん)神社は那須温泉の守護神
那須与一が ここで必勝祈願し 屋島での活躍を後日報告したと

バス停近くの「こんばいろ(カタクリのこと)の足湯」営業中です
それにしても 那須湯本温泉 観光協会だけオープンで お店ゼロ
ホテルに戻り 30分弱で着替え 夕食のオーベルジュへ向かいます


1998年7月にオープンの「オーベルジュ・ラ・カンパーニュ」
我々は「オーベルジュ」という響きに弱いのです 引き込まれます

18時 本日のお客は我々だけですと・・・
何だか不安になって来ました 不人気店だったのか?
洋風懐石コース8,800円を事前予約してあります

薩摩芋のムースとコンソメジュレのせからスタートします
帆立貝のパートフィロー包み(春巻) 

マグレ鴨胸肉のカルパッチョ 
リードボー(子牛の胸腺)と焼きリゾット添え バルサミコソース

スモークサーモンとうずらの卵のサラダ 
チーズのキッシュ 一品一品が小さくて 抵抗なく口に入ります

パテ・ド・カンパーニュ エスカルゴと地鶏のオーブン焼き

那須白美人ねぎとジャガイモのスープ
舌平目のチーズパン粉焼き ヴァンブランソース 豚肉内臓レバー

お口直しに 柚子ソルベ 牛フィレ肉のソテー トリュフソース

デザートは7種類ぐらいが 別途テーブルに並び お好みでどーぞ
満腹状態で とても入りませんの状態でした

いやあ~大変満足です ワイン込みで2万円/2名
オーナーシェフは 橋本真一郎氏(1960年生まれ)

  2014年5月放送TV東京「にっぽん!いい旅」出演の二人
窓に飾られていた お皿のサイン 秋野よう子さんと生稲晃子さん

帰路はタクシー ホテルまで1,700円でした
 













 

 



 








































2023年5月 茨城・栃木4日間 ①茨城県

袋田の滝にて

1日目 5月31日(水)晴れ水戸偕楽園から袋田の滝

水戸駅で「水戸漫遊1日フリーきっぷ」を買ってバスに乗車します

表門でボランティアガイドの女性・菊池さんと9時待ち合わせです
我々は9時少し前に到着 9時までは入園料無料とはラッキーです

偕楽園の案内図
偕楽園の名称は「孟子」の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ」から

竹は何に使う? 左の竹は弓矢の弓用に 右は矢に使うそうです
竹林(ちくりん)とは 間が透けていて向こうが見えるとき使う
即ち 管理されている状態を指し 竹藪とは違いますと

ガイドさんが更に説明「竹の成長は極めて速いんです」「フーン」と
聞き流す これこそシニアですね 子供の様に「なぜ?」が言えない
それでは「チコちゃんに叱られる」ボーッと生きてるんじゃねーよ~
「竹に節がいっぱいあるのは?」めちゃめちゃ早く 成長するため~
竹の節一つ一つに成長点があり 節ごとに一斉に成長して伸びていく
他の草木は  枝や茎の先端から成長するのに対し 竹は節ごと1日に
2~3mm伸び 場所によっては1cm以上(最高記録では 1日で
121㎝) 竹一本平均60個の節があり2か月で10m以上になる

「なぜ早く成長しなければいけないか?」筍が美味しいから~
皮をむいた筍は 天敵である野生動物(猿やイノシシ)のごちそう

竹を横に切って見る 真ん中の方は節と節の間が長く 曲げても力を
受け流し 根っこの方は狭く力がかかっている 竹は中身が空洞で
自重では折れない 成長の早さ 軽さ 強さを併せ持った理想的な
植物で 弓矢にも適しているのでしょう

「吐玉泉」 徳川斉昭は 偕楽園の造成に当り 地形の高低差を利用して
白色の井筒を据えた湧水泉を設置 眼病に効く水で 好文亭茶の湯にも
供された 現在は四代目の大理石 湧出量は1日100tと

萩の垣 婚礼前の写真撮りに使われるスポットとか

好文亭中門 門の先には「陰」の樹とされるツバキの巨木を境に
眼前に「陽」の世界が広がります

好文亭の好文は 梅の異名「好文木」からつけられた 語源は中国
1841年 第九代藩主 徳川斉昭が水戸の弘道館と共に建築した

「菊の間」と「桃の間」(総板敷きで 調理室として利用)
平屋部分の奥御殿は藩主夫人が来亭の際の休息所として利用されました 
斉昭夫人の貞芳院(慶喜のご生母様)が最初に利用されたのでしょうか 
10部屋の内9部屋に描かれた花木の襖絵が部屋の名前になっています

躑躅の間」と「松の間」(躑躅の間は 御付きの婦人たちの詰所
松の間は 藩主夫人の産所及び奥対面室)


     参考:好文亭のポストカードから

「紅葉の間」と「竹の間」(紅葉の間は控えの間)

釘隠し

「梅の間」と「萩の間」(梅の間は奥御殿中 最も高貴な部屋であり
明治2~6年まで藩主夫人の居室となり 明治35年には大正天皇
皇太子時代に ここに宿泊された 大正元年 昭和天皇が皇太子時代
には御休息された 萩の間は 御付きの女中衆の詰所・休息の部屋)

昭和20年8月2日 水戸大空襲で 好文亭焼失
戦後の再建は 世界最古の578年創業 金剛組が1955年施工開始
襖絵は 東京芸大の須田助教授が 松・紅葉・梅・萩 須田氏亡き後に
東京芸大田中教授が 菊・桃・躑躅・竹・桜の間を完成させたが 昭和
44年 落雷で奥御殿全焼 日中であり 萩の間天袋以外は持ち出せた

障子を開けると 部屋の中から 両方のお庭が見渡せる贅沢さ

                 「櫻の間」(藩主夫人お付婦人詰所)

外から見ると内部は見えません 中からだと外が見渡せる

奥御殿から太鼓廊下を渡って・・・刀を振れない高さになっている
右は徳川斉昭公 徳川最後の英傑 井伊直弼と対立 強硬な攘夷派


上の敷石は 烈公(斉昭)が好文亭に来られる際 千波湖から舟で来て
できるだけ民に合わない様にした証 現在の駅からのバス通りを通ると
それだけで 民は窓を閉め 歩行途中の民は土下座して 殿様一行の列
が通過するのを待つ これが迷惑なことだと 烈公は理解していたのだ


   奥に見えるのが「東塗縁」この部屋は烈公が 80歳以上の家臣
や90歳以上の庶民の老人を時々招き 慰労したり 家臣と共に作歌や
作詞をして楽しんだところだそうです

水戸藩の伝統に「一張一弛(いっちょういっし)」という言葉があり
一方で張りつめ 一方で緩める(類語で言えば 飴と鞭)政策だそう
水戸の弘道館偕楽園も 学問所と公園風で一張一弛の精神の現われ
偕楽園の陰陽(表門から竹林辺り陰 梅林に出て陽)自体もメリハリ
が感じられ 一張一弛の流れなのかも知れません


藩主の間 何と質素な・・・
皇族 から降嫁された奥様(吉子女王ー後の貞芳院)を大事にされた証
かも知れません なにしろ奥様用には10室も用意されたのですから

    戸を開けずに 室内の状況(藩主の様子)を確認する工夫
「透かし戸」や右は「物見引手金具」これで おもてなしの適切な
タイミングを見計らっていたようです

配膳用昇降機 滑車で上下(いざと言う時には脱出用にもなる)

障子は三連障子 1枚を引くと2枚目 3枚目が続けて現れる工夫
雨戸は回転式になっており 眺望を妨げる戸袋はありません

「楽寿楼」部屋は3室あり 南に面した8畳が正室で 烈公がお出まし
の際だけ使用された 東南西方の欄干に寄って四辺を眺めると 遠近景
山河の景がここに集まる趣です
竹の床柱は(復元時に)鹿児島市長から寄贈されたもの 西側の丸窓は
富士見窓で烈公が作った陣太鼓の余材を用いたもの
ガイドさんの説明 烈公と鹿児島の島津斉彬公(9歳上の斉昭を先駆者
兄貴分として敬い相談す)は親しい 実は 前の床柱は島津家から寄贈
されたと 竹の柱の節は11個 じゅういちの漢字は士であり よって
ここの階段の段数も11が二つ 確証は無いけれど夢のある逸話ですと
参考:島津斉彬公は 西郷隆盛の主君で天璋院篤姫の養父としても有名

楽は水を 寿は山を表わし 楽寿楼とは 山と水の眺めの双方を兼ねた
山水双宜の楼を意味しています

ガイドさんと別れ際 水戸徳川家では 2代目の光圀さんと9代斉昭
しか知らないのですが 他に有名な藩主はいたのですか?と質問する
「私自身も 名前も業績も知りません 他の方は江戸詰で 水戸には
いなかったからなのかも知れません」と
参考:斉昭公は1859年の安政の大獄で水戸に永蟄居 翌年の
   万延元年 謹慎中の水戸城中で没する(61歳)

梅を愛した斉昭 春の魁として咲く梅の花は 詩歌の良い材料と
なり また 実は梅干しにして軍事や飢饉の際の 非常食となる
ことから 実用を重んじた斉昭 領内に広く植樹するよう奨めた

本日は「梅落とし」売店で1瓶500円 すぐ完売になりますと
そういえば 本日は岡山後楽園でも梅落としと TVで見ました

駅前広場で 水戸黄門ご一行と

ブラタモリ水戸編」は2017年1月放送
ドラマ水戸黄門の起源はこんな理由だった!から始まります
家康の孫にあたる徳川光圀は 日本全国漫遊した? いいや光圀は
実際鎌倉までにしか行かず 各地に派遣した水戸藩藩士のお話を
もとにドラマは作られたと
タモリ一行は水戸城跡へ ここには水郡線が走っている 水郡線
かつての水戸城跡の堀の中を走っています 堀に沿ってというのは
あっても 堀の中に線路という例はちょっと聞きません・・・

本日は水郡線で 水戸から袋田経由郡山まで全線乗車です
全部で41駅 袋田駅は19番目 次の常陸大子駅からは1両です
単線で 駅での待ち合わせやら無人駅多数の 今時珍しい路線です

11時15分発 常陸大子行き 実は出発の水戸駅で5分遅発
原因は 妻の康子です 大事な杖代わりのステッキを列車とホームの
間に落として(というか車内で 手を離した瞬間ころがって落ちた)
「列車が出発してから拾います 次の列車に」という車掌さんらに対し
「この列車で袋田経由 本日は那須塩原まで行くのです しかも杖無し
では とても歩けません!」必死に訴えていたところ 別の係員さんが 
マジックハンドを持ってきて ステッキの輪に通しヒョイと吊り上げて
大成功です 妻が乗客の方に向かって ひたすら頭を下げ 無事出発! 

バスは列車の遅延分を待っていてくれ 無事袋田の滝本バス停に到着


         さあ 袋田の滝観光です

大子町の鳥である「オシドリ」をモチーフにした銅製のモニュメント
「恋人の聖地」に選定された記念です 台座の上に 2羽のオシドリ
上部にハート 下部に無限(∞)のマークが現れるデザインなのです

第一観瀑台

第二観瀑台へのエレベーター

二人の写真は 観光に来ていた東南アジアの美人にお願いしたところ
「もう一枚 もう一枚」と三枚も写してくれました

今のシーズンは水量が少ないですね

秋は紅葉

冬がいい 滝が凍結すると一番とか言います  現在もいいですが・・・

最後の吊り橋からの眺め

袋田の景色をあとにして

袋田駅ホームに掲示されていた)徳川光圀公の句です
「いつの世に つつみおきけん 袋田の 布引き出す 瀧の白糸」

1両だけで走行 運転室の後方右手にある水色の円柱形はトイレ
2時間も走りますので トイレは必要なのです
郡山の一駅前で 高校生の大群が乗って来ました 下校時間です
水郡線が到着する郡山駅のホームは 新幹線入口から離れていて
焦りました 高校生をかき分けかき分け 何とか新幹線ホームに

そこで駅弁一つゲット(一番人気ののり弁は売切れ)到着の那須
塩原駅でもう一つゲット あと駅前でテイクアウト弁当一つゲット

ここでチョット疑問を投げかけます
どうして袋田駅から福島県郡山駅まで行き そして那須塩原駅
2時間半を要し 新幹線も利用せざるを得ず コスパ最悪なのです
地図上で 底辺(袋田ー那須塩原)が一番短いのに二等辺三角形
頂点である郡山までわざわざ北上し 南下して那須塩原まで行くと

実は 常陸大子駅袋田駅周辺)と那須塩原駅を結ぶバス「奥久慈
おでかけ快速バス」があるのにです 70分500円直通なのです
大変残念なことに このバスはゴールデンウィーク お盆 紅葉期
年末年始限定出発なのです(観光協会にもメールで照会しました)
今回の旅行を計画していて 一番悔しい思いをした事案でした!!

本日から3泊する東急ハーヴェストクラブ那須の送迎バスが到着
ホテルまでは 車をビュンビュン飛ばして30分 お疲れ様です

部屋の様子 スタンダードながらまずまずです

ベランダに出ると さすがに空気が美味しい










 






 












































2023年3月 大阪・京都桜紀行8日間④

隋心院「花の間」本日3月30日の9時オープン だるま商店画で有名
絵画のテーマは 左から 誕生 宮仕え 隋心院での余生と夢幻の各図
肉筆の自由な筆使いとCGによる極彩色のグラデーションを組み合わせ
晩年の小町に「ええ人生でしたね」との思いを込めて描いたそうです

おまけ:だるま商店の出世作二品 都踊りと熊野詣です

<7日目 3月30日(木)>山科桜紀行を満喫

本日から 当寺院の能の間を花で飾る「花の間」がオープンするので
混みあうかもとの懸念から 朝一番を目指し15分前に到着しました

駅名も小野 ここは飛鳥時代から平安時代にかけて活躍した小野一族
が拠点としていた場所で 歴史上の人物では 先ず遣隋使の小野妹子 
次に平安時代の官僚で この世とあの世を往来した小野篁(たかむら)
最後が小野小町です 当寺院には 小町晩年の老醜の木像があります
花の色は移りにけりないたずらに 我が身世にふるながめせしまに

さて「花の間」ですが 絵の前に広がる花々は何と造花なのでした 
ビックリです だまし討ちです 残念至極 昨年好評で今年は更に

花のシャンデリアを追加したと 我々を何と思っているのでしょう
何よりも これで果たして 小野小町が喜んでくれるでしょうか?

襖の奥では 小町文張地蔵尊卒塔婆小町像が見ているのですよ!
(女性の間では 写真に写し映える映えると人気は高いようです)

在りし日の小町イメージと老後の小町の姿です

隋心院のイメージ(室内のモニター画像より)

隋心院からは徒歩で勧修寺(かじゅうじ)に向かいます
注:現在の呼称・道案内図では(かんしゅうじ)となっています

春陽に照る白壁を艶やかな桜色に染めて 参道の築地塀に沿うように
ソメイヨシノやぼたん桜が咲きます これこそが勧修寺のシンボル

醍醐天皇が 生母の冥福を記念して 自身の等身大の観音像を祀った

応仁の乱で焼失 200年後 かつての古地図を元に復元した寺院で
代々皇室の法親王が住職になっている 青蓮院門跡とここだけが正真
正銘の門跡寺院と(受付の住職風の方が)説明してくださいました

地を這うような 樹齢750年のハイビャクシンが有名です
その奥に見える「水戸黄門の燈籠」も有名だそうです

観光バスの一団がやって来ました 皆さんがしているバッジ どこか
分かりません 妻が聞きます 札幌から来たとかで 聞いたご婦人は
春と秋 年二回京都に来ていますと・・・

そうだ 京都、行こう。2008年夏をおまけ


   「きれいなものを目にする」には、ちょっとした努力がいる。
   家でニュースを見ていると、そう思います。

スイレンが咲くのは「氷室池」 平安時代 ここに張る氷を宮中に献上
していたことからついた名前です 夏になると今度は泥の中から見事な
ハスの花が姿を見せます

外へ出て 再度築地塀の桜を

妻が手袋を片方紛失して 百均に入り購入 私は ほうれん草の種を
何と2袋で100円 帰京したらベランダに家庭菜園チャレンジです

遠くの山に ヤマザクラ 今年の桜は滅茶苦茶早い でも我々は一番
いい時期に京都に来れたなあと感謝感謝です
明治になってソメイヨシノが普及するまでは 桜といえばヤマザクラ
万葉もっと古い時代から 日本を代表する桜だった 現在山に大木が
少ないのは 戦前・戦後に薪炭用・樺細工用に伐り出されたためです

ヤマザクラの栽培品種は 葉裏が白味を帯びている 
15代佐野藤右衛門(現16代の父親)が広沢の池で採取したものを
広めた「佐野桜:植物学者の牧野富太郎命名」他に数種類あります

牧野富太郎「雑草という草は無い」と16代佐野藤右衛門

突然牧野富太郎が出てきました 実は 水上勉の「櫻守」に登場する
のが15代佐野藤右衛門氏で 「大恩人牧野富太郎」と手記に残して
あり そこから牧野富太郎と現16代の親交が始まるのです 
植物学の知識を与えられた16代は「花を学ぶとき 牧野富太郎氏は 
永遠の先生」とおっしゃる この二人の出会いが無かったら 現在の
桜・花たちが美しく咲き誇る日本は 違っていたかも知れません
左野桜(サノザクラ)/ Prunus jamasakura cv Sanozakura

私自身小学生のとき 牧野富太郎の伝記を読み とても感銘を受けた
ことを思い出し 水上勉の「櫻守」と 朝井まかての「ボタニカ」は
京都の桜を愛する者である以上 是非とも読んでみたい

昼食は 醍醐寺行きのバス停に近い「一休寿司」12時の予約でした
1時間早く来てしまいましたが OKとのことで入店 1,500円
の盛り合わせを注文 バス時間に合わせ さっさと食べて退出です
月亭八方らの色紙が沢山ありましたが 妻は美味しくなかったと不満
これまた食事の不満で 半ブータレ 醍醐寺まで引っ張ります

バス停で時刻表通りのバスが来ません バス停のQRコードで見ると
18分遅れ あああです もう少しゆっくり 食事をすれば良かった

それでも醍醐寺行きのバスに乗ると このバスは寺院門前までは行き
ませんと 駅前で降車し シャトルバスに乗り換えですと運転手さん
まあいいやと乗り込み 何とか醍醐寺駅に到着 観光客らしき人々に
付いて行くと 何とか醍醐寺に到着です(妻ははるか後方に)

三宝院境内案内

秀吉は 700本の桜樹を山城・近江・摂津から運び三宝院や上醍醐
植えさせた 

秀吉自ら設計の庭園です

表書院(国宝)庭園に面した⑤⑥
奥の方から上段・中段・下段とあり手前の下段の畳を揚げると 何と
能舞台になっているんですと それを上段・中段から鑑賞するのです

その上段の襖絵と 勅使の間③の襖絵は 長谷川等伯一派によるもの
重文指定 さすが秀吉に気に入られていた等伯・・・事前勉強無しで
臨んだ自分が情けない ほとんど素通りでした

純浄観⑬(重文)に描かれた桜・紅葉は 浜田泰介画伯の平成の作品

入口近くでの切符購入 1,500円と 高い! さらに三宝院では
庭園と襖絵拝観に500円追加 高すぎると案内人に文句をぶつける
庭園は 外からでも見ることができて 半数の人は外からの撮影です
でも 後になって考えると 価値が分かる人には相応の料金なのです

三宝院の唐門(国宝)境内案内の④
あまりにも金ピカ! 2022年7月約一年半かけ往時の姿に修復された

下醍醐の奥の奥 弁天堂の橋の近くの「阿闍梨寮の寿庵」で休憩です
わらび餅と抹茶で一息つき 霊宝館でラストスパートです

そうだ 京都、行こう。2001年秋のおまけ


 「醍醐寺と醍醐味」は、きっとカンケイがあると、思っていました

そもそも開祖の理源大師が この地に湧き出た泉の水のあまりにも
美味なことから 「醍醐味」の醍醐の二文字を付けたといいます

醍醐寺で一番ビックリしたのは 寺院拝観でも 桜見物の人混みでも
なく ご朱印を頂くために並ぶ列 現在ご朱印収集がブームらしくて
皆さん 文句も言わず 静かに少しずつ少しずつ進んでいく不気味さ
私も 京都では頂くようにしていますが ここではあきらめました!
(おまけ:本日出向いた三つの寺院は真言宗のお寺でした 随心院
 善通寺派 勧修寺は山階派 醍醐寺は醍醐派の各総本山でした)

山科駅までの直通バス時間が迫って あわててバス停まで走りました
最後は山科駅前から毘沙門堂へのチャレンジです タクシー利用です

駅前に丁度タクシーが1台 タクシー会社に電話せずに捕まえました
徒歩25分しかも行きは上り道なのです 助かりました620円です
タクシーは山上まで行ってくれるので 上の階段は上っていません

毘沙門堂の般若桜 境内には50本の桜です

我々を待ち構える巨大な枝垂れ桜 妻をモデルに写真を撮ろうとした
瞬間に 横から「ハイ!15年前の綺麗だった頃を思い出して~」と
絶妙のタイミングでの声掛け「ハイ!もう少しカメラを上にして~」
「今のままでは全体が写りませんよ~」と境内にいた観光タクシーの
運転手さんはさすがのプロでした

境内では 何組ものプレ婚礼写真撮影が 皆さんお幸せそうでした
そう言えば 今回の旅行中では 下鴨神社でのモデルさん顔負けの
美人さんが印象的でした・・・

そうだ 京都、行こう。2011年秋のおまけ


   いい秋ですね、と言葉をかわしあえる。それだけで、うれしい。

山科は 東海道沿いの要所 街道を往来する諸国大名たちは 
山一つ隔てた京都に入る前に ここに立ち寄ったといいます

室内左の襖絵 逆遠近法とか 狩野探幽の養子 狩野益信の作品です
(逆遠近法とは 後ろの物を前の物より大きく描くことで 襖の絵が
動く 左から右に動いていくと描いてある机が向きや大きさを変える)

室内右の襖絵 「梅に鴬」が「梅に山鳥」そして「竹に雀」が「竹に
シマヒヨドリ」鳥が合わない 転じて取り合わない 部屋に通されて
も主人は会いませんよという隠し言葉 ダジャレですね

帰りはタクシーを捕まえるのも呼ぶのも止め 歩くことにしました
そのお陰で 安朱橋からの琵琶湖疎水の桜・菜の花を楽しめました
菜の花は 近隣の皆さんが植えて育てた「菜の花ロード」なのです

ブラタモリ山科編で紹介されたのが 旧東海道線と現在の東海道線
山科駅が大きく移動したことがわかります

山科駅から京都駅までのバス便無し JRであれば1駅で 我々は
地下鉄東西線烏丸線を乗り継いで京都駅に 地下鉄・バス一日券
を利用したためです それだけ効率よく日程を消化して時間に余裕
ができた今日一日でした

夕食時間になったので JR京都伊勢丹10階へ
今回の旅行中に行ってみたかった駅周辺人気第1位の「モクモク」です
ビュッフェスタイルでの2時間食べ放題2,800円 子供連れ家族が
多い 外人さんも目立ちますが 一体どこで情報仕入れたのでしょう?
ランチタイム(11時~16時)は2,200円なのでコスパ最高です
直営農場からの野菜がいっぱい 元気になるレストランが謳い文句です

551横でお土産(いつもの阿闍梨餅)を購入し ホテルに戻りました

<8日目 3月31日(金)>最後に城南宮

ホテルの通路に展示されていました
京の手描き友禅(貴船神社三千院と当ホテル外観)

5泊6日過ごしたホテルともお別れです

城南宮に行くことが出来れば 京都は完全攻略と言えるところでした
ところが 金閣寺を断念したため 忘れ物をしたような気分なのです
金閣寺のためだけに京都に来れるのはいつになる?

城南宮に行くに当たり ネックだったのが行き方 京都駅からバスで
行くにも 随分手前で下車 15分ぐらい徒歩というのが従前からの
行くにためらう観光地だったのですが 近年Kルックバスなるものが
現れ バス一本 城南宮前まで直通の市内ループバスが誕生しました

城南宮は枝垂れ梅と散り椿で有名 今は次順位の桜 空いていました

曲水の宴の舞台です

城南宮は 平安遷都に際し 都の安泰と国の守護を願い創建された
安城の南に鎮まるお宮の意味を表わす
平安後期の院政の拠点 TV「鎌倉殿の13人」では後鳥羽上皇
「城南の流鏑馬の武者揃え」を名目に武士たちを集め 承久の変が
勃発した 日本初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争い!
実はこの時に 上皇から10人の武将に与えられたのが錦の御旗の
始まりなのです

更に 明治維新を決定づけた「鳥羽伏見の戦い」は 城南宮の参道に
置かれた薩摩軍の大砲が轟いて始まったのであり 錦の御旗が翻って
旧幕府軍に勝利すると 薩摩の軍勢は 城南宮の御加護によって勝利
を得られたとお礼参りに訪れました

帰りは 竹田駅西口まで京阪バス そして地下鉄烏丸線で京都駅
これが通常のルートなのですが 時間・料金とも行きの倍かかる

京都駅八条口から空港バスで伊丹空港へ55分です

空港内の「かつくら」でとんかつ食べて 妻は大阪 私は東京へ
ブータレ康子との楽しい8日間でした

今回の旅行を振り返って「どの桜が一番か?」
殊勲賞:山科の桜 本願寺山科別院 琵琶湖疎水観光船 蹴上
         勧修寺 醍醐寺 毘沙門堂
技能賞:洛西の桜 善峯寺 勝持寺 大原野神社
敢闘賞:府立の桜 京都府庁旧本館 京都府立植物園

この3年間ぐらいで 京都の桜の名所は ほとんど制覇しました
東京の桜との違い ブルーシートを広げての飲めや歌えの大騒ぎ
これが全く無い 静かに見るべき これこそ昔からの京美学!

サクラに関する諺・名言
目細鼻高桜色(美しい顔立ちの条件 桜色は色白で血色の良いこと)
谷間の桜(優れて美しく価値あるものに誰も気付いてくれないことの例え)
散りも初めず咲きも残らず(このうえなく満開のさまを言う)
明日ありと思ふ心の仇(あだ)桜(夜半に嵐の吹かぬものかわー親鸞

サクラを取り入れたうたを二つ
久方の光のどけき春の日に 静心なく花の散るらむ古今集紀友則
散るをいとふ世にも人にも先がけて 散るこそ花と吹く小夜嵐
(昭和45/11/25 三島由紀夫辞世の句 戦前から続く日本的美意識に
よる「散華の時代」が終わり バブルまっしぐらとなる世を見据えて)

最後に 第16代桜守の佐野藤右衛門さんの心配ごと
「毎年 春の桜の表情が違う 冬が無くなったから 昔の営みが一つ
抜けとる それで今の櫻は 間抜けばかりや 日本は四季やったけど
今三季しかない 異様気象やね・・・」

恒例の「そうだ 京都、行こう。」キャンペーンギャラリーより
2007年初春 下鴨神社


  一年の「旅初め」をどこにするか、だ。
 
糺の森を縦断する参道は、まるで町中にある山道。
漂う清浄な空気が 一年の納めや始めにふさわしく感じます。

1999年春 善峯寺


  ここの桜のように一年にたった一回でもいい。人をこんなにも
  喜ばせる仕事をできればなんて思いました。春の桜が必ず咲く
  国に生まれて、ラッキーでした。

境内は3万坪以上。気もちのいい汗を流しに来てください。

1998年春 勝持寺

  京都の桜、のぼり坂。縁起のいいもの揃っています。
  「ニッポンに春よ来い」です。これまでも、この国に、
  何度も冬の時代はあったけど、春は必ずやって来るんですね。

バスをおりて長い参道を歩いてゆくと、もう途中から桜たちが
顔をのぞかせて旅人を迎えてくれます。

2003年春 二条城


   家康も、春の日を選んで京都へ引っ越してきたんです。
   二条城が完成したのは、ちょうど400年前の桜の頃でした。

2017年春 二条城


  手のひらの小さな画面を覗き込んでいた私を
  上に向かせてくれた桜です

城内の桜は、50品種400本まるで桜の図鑑のようです

2005年春 勧修寺


   桜のあと、モネの描く「睡蓮」のようになるんです。

京の花の寺、そのひとつがここ、1100年以上の歴史をもつ
氷室池を中心にした庭園が桜の舞台です。

2018年春 勧修寺


   いい春を残してくださってありがとうございます。
   私たちも、美しい過去になれるといいけれど。

勅使門から進むと一気に視界が広がります。目の前の氷室池に
張る氷は、毎年一月二日に宮中に献上されていたとか。

1995年春 醍醐寺


   地球に、ポッと桜色になっているところがあるとしたら・・・
   京都です。あの秀吉が、自慢したくてしたくてたまらなかった
   700本の桜の子孫たちです。少々の人出には、負けません。

2015年春 醍醐寺

  見事なサクラであればあるほど、長い冬の時間、
  耐えてきたことを思うのでした。

醍醐の花見 1598年の年明けすぐ準備に取りかかった秀吉は
五重塔を修理。新たに700本の桜を植え、茶屋や庭園を造り、
女性客千三百人の着物も用意させたそうです。
当日は晴天。帰るのが惜しい、決して忘れない、などと詠まれた
和歌131首。みな心から幸せを感じた一日だったようです。

2000年春 毘沙門堂


  「がんばれ」「元気を出せ」なんていうよりも・・・
  いま、励ましを必要とする人がいたら私なら、ここに連れて
  きてあげたい、と思います。

平安遷都以前は御所近くにあって、最澄など比叡山の高僧が唐に渡る前、
準備のために立ち寄ったお寺でした。現在の寝殿と勅使門は江戸時代に
御所から移築されたもの。満開の桜と一つになるとまるで王朝絵巻です。

2007年初夏 城南宮

  桜がすんでも一息ついているヒマはないですから、京都は。
  春と夏の間に、いったいいくつの季節を隠しているんだ、
  この町は。

平安京の南を守る社でした。やがて貴族たちが別荘を建て始め、
白河上皇がこの神社を中心に鳥羽離宮を造営。御殿が次々に建つ頃
の華やかさは、「まるで都がここに移ってきたかのようだった」と
記されています。社殿を取り囲む約1万坪の楽水苑は、趣の異なる
五つの庭園からなる「源氏物語花の庭」。ここを彩るのは、紫式部
が作品に登場させた100種を超える「源氏物語」の花々。
藤に続いて、笹百合、空木、菖蒲、露草、藍、夕顔・・・
一年中途切れることなく咲いてくれます。


















 

 

2023年3月 大阪・京都桜紀行8日間③

善峯寺の見事な桜(桂昌院枝垂れ桜)と日本一の遊龍の松

<5日目 3月28日(火)>京都洛西・西山桜紀行

ホテルでさっさと朝食を済ませ 本日は洛西の桜に面会できます
国際会館から地下鉄四条下車 烏丸から阪急京都線東向日駅
本来は 1駅前の洛西口駅で電動自転車を借りてサイクリングと
決めていましたが どうしても途中の道が不安 坂道も多いので
阪急バスでのコース設定に変更しました

東向日駅バス出発8:42 善峯寺バス停9:09到着
戻りのバスは10:24 1時間に1本ですとアナウンスあり
寺までの300mが難所とは聞いていましたが この急坂です
左写真看板には 清心にてご参拝いただき よい仏縁を結んで
いただくことを願っておりますと・・・

「そうだ 京都、行こう。」で有名な善峯寺山門に到着
ようやく来ることができました

観音堂(本堂)桂昌院の寄進で再建されたお堂

鐘桜堂(つりがね堂)一突き100円也(昨年までは50円以上)
将軍綱吉の厄年にあたり桂昌院から寄進され「厄除けの鐘」と言われる

護摩堂 本尊は五大明王 桂昌院により建立
桂昌院が小さい頃遊んでいた場所 応仁の乱で焼失したのを嘆き再興

遊龍の松 五葉松で樹齢600年以上 平成6年に松くい虫の被害で
全長50mほどの松が15m余り切断され現在は37m 日本最長の松

眼下に経堂が見えます 祈願成就の絵馬奉納所

ここの釈迦堂(腰痛・神経痛に霊験あらたかなお釈迦様)前で妻は休息

私は一気に薬師堂まで行きます 下に釈迦堂前庭が見えます

阿弥陀堂を横目に 釈迦堂前まで急ぎます


山容を染める桜の向こうに京都市街を一望の圧巻の大スケール
眼下には3万坪の回遊式庭園に100本に及ぶ桜が植わっています

本堂でご朱印をいただき 最後は山道を一気に下ります
バスが下に到着しました 時間が有りません 急ぎます

善峯寺からのバスを 途中の灰方バス停で下車 大原野へ行きます
バスの運転手さんが親切に道案内してくれます 徒歩約18分です
少し歩き 何とバスが! 南春日町まで行くそうで バス1区間
距離ですが体力的に非常に助かります 京都市バスが通っていた!
南春日町バス停から 徒歩で 勝持寺(花の寺)に到着しました

勝持寺付属の霊園と

お寺への素敵な石段

有名な三代目の西行桜 西行はこの寺で23歳で出家(1140年) 
桜が大変好き 生涯をかけて桜の名所を巡り 数々の名歌を残します
花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の科(とが)とは有ける
これが西行桜のそばにあり 桜は何と罪作りな存在なのでしょうか?
願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃
西行は 実際1190年2月16日死去 希望が叶った

江戸時代の松尾芭蕉が その生涯で唯一憧れた人物が西行であり
奥の細道」は西行が旅をした足跡をたどって出来たものである

池の水の色が変です 妻が受付で質問
雨が降ったあと 山の成分が池に流れ色が変わる 直に戻りますと

境内に入らずとも この鉄扉の窓穴から桜見物ができます 無料です
帰りの参道坂道 妻は後ろ向きに下りています やはりきつい様です
しかも はいている靴が運動靴ではありません

勝持寺から大原野神社への抜け道を通ると突然現れました!
有名な「千眼桜」です 満開から三日間しか持たないのです
社務所で聞きます 満開は明日と 本日はプレ満開の千眼桜
運よく出会えば 千願が叶うとも 幸せを求める桜なのです
一重の枝垂れ桜 沢山の花が密集し咲き揃う豪華な様子から
「千の眼があるよう」と名付けられました

またまた超接近の自撮りです

いつまでも見ていたい千眼桜です

全国に数千ある春日神社の最初の分社 狛犬ならぬ狛鹿は全国で唯一
藤原氏では娘が生まれると ここに参拝し 良縁に恵まれるよう つまり
天皇の后になれるよう祈った 道長は望み通り娘三人が皇后になりました

母親の胎内にいるようだと パワー注入です
注入されたこのパワーが 再び爆発するのです 今回も昼食です
ここで予定していた「そば切りこごろ」が待ちの順番17番目と
何故 神社を拝観する前に 順番待ちの表に書いておかなかった!
怒鳴り声が参道に響き渡ります

怒りを少しでも鎮めようと 隣の「春日乃茶屋」でよもぎ餅を
待ち時間が1時間ある この時間で正法寺へ行くことにします

極楽橋と枝垂れ桜が出迎えてくれます 正法寺です
妻は 相変わらずブータレていて ここで待ちますと

お寺の周辺の景色から

庭園「宝生苑」を近景 中景 室内からと撮り分けます
日本庭園撮影は 縁側と軒が必須とか 上の三枚見比べてください
借景(東山連峰と市内一望)に溶け込む伸びやかな桜風景が感動的
浄土への道筋を表わした石庭 枝垂桜は忘我の境地へ誘います
山内には全国からの巨石600tが集まり「石の寺」と呼ばれます

妻が受付で怒鳴っています「うちの主人が中にいるはずなんです」

食事処に戻ると16番が呼ばれ 次が我々 グッドタイミングでした
待ちの人が沢山いるのに 中にいる人たち ゆっくりゆっくりなので
頭に来ます 横の女は そばを一本一本すすっているのです バカです
我々は 早食い夫婦です あっという間に平らげて ごちそうさまです

バスで東向日駅に到着 阪急京都線西院駅から金閣寺へ向かいました
バスはギューギュー詰め K国人夫婦がバギーを広げたまま知らんぷり
降車するのも大変で 乗車も大変・・・金閣寺では参道から人が溢れて
入場用切符購入の人の列が半端ない・・・遂に金閣寺はあきらめました

帰りのバス停が大混乱で 我々は二つ先のバス停に戻り 行先も円町に
変更 円町駅からJRで京都駅に 551で肉まんとシュウマイ買って
ホテルへ戻ります ああー疲れた 予約無しでの市内観光は無理ですね


最後に追加しておきます
ホテルへ戻り TVをつけたら「保津川下り転覆事故」10:55発生
我々が前回の京都旅行 昨年の11月7日に乗ったあの川下りなのです
しかも 我々と同じ時間帯に起きた事故です 本当にビックリしました
川下りの船頭さん 明るくて冗談も上手でプロ ご冥福をお祈りします

<6日目 3月29日(水)>二条城周辺と北山駅周辺桜紀行

二条城の開門は8:45 その前に7時オープンの神泉苑

法成橋を本堂側から渡ります 願い事を一つに絞って渡ってください

先ほどの願い事のお礼を

時間を見計らって二条城へ 昨日の行列が有り反省 二条城への
入場切符は 昨晩妻にスマホから購入してもらってありますOK

8:45東大手門に一番乗りです 切符はこれから販売されます
門柱の隠し絵に注目 大手門自体が城の外側に面することは異常
平和な時代だからこそです 隠し絵の鳩も平和を暗示しています

唐門 装飾の中で釘隠しには菊紋が(菊の下には葵の紋)
後水尾天皇行幸
1626年9月 上洛中の秀忠・家光の招きに応じ 行幸が実現した
秀忠の娘であり天皇中宮となった和子らと5日間滞在し 能や和歌
等の会が賑々しく催された 行幸の準備として 2年前から城を拡張
し 天守閣や行幸御殿 本丸御殿等も造営された 狩野派の障壁画も
新たに描かれたとか 東大手門は 天皇を2階から見下ろさない様に
との配慮から一重の門に建替えられた

二の丸御殿

二条城は1601年 家康が 京都所司代板倉勝重を総奉行 中井
正清を大工頭に任じ 堀川の護岸を利用して 大規模な城の普請を
開始した 1603年3月に家康は 征夷大将軍を拝命することが
決っていた その時の宿舎として急ピッチで造営が進められました

それにしても 二条城を「元離宮二条城」と呼ぶのは辞めてほしい
明治維新により 徳川将軍家から接収された二条城は 明治17年に
宮内省所管の皇室の離宮へ変遷 その後1939年二条離宮京都市
に恩賜され「元離宮二条城」と改称された

御所御車返しの桜 ミクルマガエシ(花弁が5~7枚 車上の二人が
一重か八重かで争い 車を引き返したことからの命名)とは別品種で
桜守の佐野藤右衛門氏が 京都御所にあったものを保存植栽したもの
(花弁は10~15枚 半八重桜)

沢山の観光客が来る前にと撮影

ホテルザ三井京都 最上階からは二条城の中が見えるのです

堀に浮かぶ藻 どうして除去しないのでしょうか?


      調べました 今の状態なんて可愛いものです 2020年
10月初めに 上の写真の様に「抹茶オレ」状態になったこともあると
浮草だそう(担当者)定期的には清掃しているのですが・・・

ここでも文化庁移転が

大手門の後ろを見たことが無かったので撮影

ガイドツアーがスタート 9:30~10:30
11時からの二条陣屋見学を予約してあるので 時間厳守を依頼
二の丸御殿内の説明が大半で 本丸の方は工事中で行きませんと

二の丸御殿を出て ツアーだけの観光場所がこれですと
何だか馬鹿にされたよう 説明もつまらず 売店に記念品もらいに
行くも行列がすごくて諦めました 

二の丸庭園

二の丸御殿内で 小さな女の子がした質問 廊下を歩くと どうして
キュッキュッと鳴るのですか の答えが上の金具にあるようです


御殿廊下で釘を使うと 袴に引っかかるリスクあり その防止に考案
ガイドツアーで役に立ったのはこれだけ 1,500円は高過ぎます
TVの「京都ぶらり歴史探訪」「京都浪漫」で充分でした 残念! 

二条陣屋(小川家住宅)にやって来ました 予約済です

もともとは茶人好みの数寄屋風に建築したが 大名を泊めるようになり
その身の安全を保証する必要があるとのことから種々の工夫がなされた
覗き天井 隠し戸 落とし階段 釣り階段 まるでカラクリ屋敷でした

最後に パンフやガイドブックに書いていない納得の理由が明かされた
小川家は 江戸時代 京都所司代(いうなら裁判所)に陳情する人らの
陳述書作成代理業の様な仕事(公事方)をしており 陳情者側に有利に
作成する すると負けた方の人から恨まれたり 家に押しかけられたり
命の保証もない そこから防衛の為 家内に騙しの仕掛けを用意したと
(でも公事方の仕事では相当もうけたようです)

「膳處漢(ぜぜかん)ポッチリ」一休で予約し割安提供

食前酒として桂花陳酒 日替わりの豆皿9点盛り合わせ
ふかひれ麺か ふかひれご飯 これは小さな器に取り分けます
デザートで杏仁豆腐 二人で6千円(本来8,800円)

北山駅から地上に出て すぐ右にあるのが「京都府立陶板名画の庭」
ホームページを見て 安藤忠雄さん設計の美術館 これは行かんと
いかんということで来ましたが・・・

「最後の晩餐」は 色褪せていて むしろ水に写る方を注目
「睡蓮」は 何と陶板画が水の中に 水面を描いた絵を水面から見る
二点とも奇抜さ勝負なのだろうか?

ここのオープンが1994年4月 
徳島の大塚国際美術館が1998年3月 陶板は同じ大塚トーミ陶業
所要時間20分でOK 絶対ホームページの勝ち 100円で納得です

午後の散歩は 北山駅周辺散歩 陶板名画の庭に続いては 
京都府立植物園 何と70歳以上のシニアは無料なのです
園内では 様々な桜が楽しめた・・・のは妻の方でした

私は バギーに妻を乗せ 広い公園を縦断させられました

雨宿りと太白です(最近TVで檀れいさんが気に入った桜です)

右は源平枝垂れ桃

園内を歩いていて 戦後のひどい惨状がどこにも感じられない違和感
第二次大戦中は園内に菜園が設けられ 食料増産の場となり 戦後の
昭和21年から12年間連合軍に接収され 軍人の住居が建てられた
このとき多くの樹木が伐採されたのです 昭和36年に再公開された

戦後 主に15代佐野藤右衛門氏により苗木が提供され 約70種
500本の桜となったと

最後に 前回はサイクリングで通り過ぎた半木の道を歩いて
ホテルまで帰りました   

800m続く半木の道 50本のフラワーシャワーです






 




























2023年3月 大阪・京都桜紀行8日間②

琵琶湖疎水船から見上げる桜 3日後には安朱橋の上から見下ろします

①で鞍馬駅から叡電宝ヶ池駅へ そして京都バスで大原に向かいます


数年前に白龍園に来ました

大原三千院前の参道 桜はまだです K団連が大勢押し掛けています

左:前回行けなかった勝林院と 右:宝泉院(五葉松を前から見学)

ブラタモリのロケで利用したお店には「タモリバッジ」が与えられ
それを見つけた妻が タモリロケの写真をかかえて 柴漬けも購入

三千院から大原バス停まで引き返し 今度は寂光院
目的地までは1・1kmの筈が 行けども行けども辿り着けず
「あと3分」の表示が まるでウソ 遠いのなんのって・・・
ようやく到着したら目の前に急な石階段 もうすぐ抹茶と菓子
と励まして 妻がようやく登り切りました

分かりました 妻は体の前に袋 背中にリュックをしょっています
くたびれるはずです 以降 私が体の前後にリュックを背負います

13:30の昼食に予約しておいた「わっぱ堂」に向かいます

農薬・化学肥料を一切使わない米・野菜で提供される食事です
前菜盛り合わせ:聖護院大根の煮物 堀川ごぼうの揚げびたし
        芋の胡麻和え かつお菜の辛しびたし
        人参のきんぴら どれも美味です
御椀物:大原の地鶏に 中に粟麩(お餅風な物 これがいい)

この写真は妻を写したのではなく 向こうの席の若い女性が照準です
お相手は 私より年上の御老人 ニコニコしながら自撮り写真を取り
ご満悦 京都では このようなパパ活女性を良く目にします
季節の野菜のサラダ:良く覚えていません 時間ばかり気になります

春菊とジャガイモのピザ
焼き物:小浜のさわら 鴨のロースト 赤こんにゃく ブロッコリー

ご飯:黒豆焼きおにぎりの餡掛け
デザート:アイスクリームとホットコーヒー
とても美味しかった 一人3,500円 味わう時間が欲しかった

コース料理を頼んでおいたのですが 大原バス停からのバスが14:30
14:20までに全品お願いしますとわがままを言い 店側も間に合わせ
テーブルに複数並びます 隣席ではお酒を飲みながら まだ2品目でした
シェフ及び従業員さんに ごめんなさいとお詫びして退出しました

実相院に到着 実はここに来るまでに一勝負あったのです
大原から上高野バス停で乗り換えての実相院 14:50上高野
同時刻に道路の反対側を通行のバスに乗り換えないと 27分も
寒い中待つことに バスが停まるや道路を突っ切り車も止めての
無茶ブリ 何とか間に合いました 

小雨交じりの寺院も風情があっていいものです

ここの観光の目玉は 青モミジと紅葉の床モミジ
今は端境期で 観光客は我々だけ ひっそりとした寺院内を見学

16時に予約していおいた「岩倉具視幽棲旧宅」です
抹茶-菓子付 ガイドツアーです 岩倉具視は公家の中では最下位
それが孝明天皇の近習となり 公武合体をリードした ひとえに
岩倉の見識 行動力があってのこと 孝明天皇も位の如何を問わず
いい意見は取り上げるという進取の精神が高かったのでしょう

しかし公武合体 和宮降嫁ともなれば 幕府に与するかと勤皇派から
命を狙われて 市内各地を転々とし 最後は京都市内から追放された
洛外の岩倉村ということであれば そこまで追ったり命を狙うことは
しないという不文律が当時あったようなのですと
(幽閉なら強制的に閉じ込められる 幽棲は密かに住む 違います)

岩倉村では 密かに坂本龍馬らと会合を重ね 王政復古は当地から
始まったとも言える そして新政府の中心人物として西郷・大久保
木戸孝允らと連携し活動 明治10年には この三人が相次いで亡く
なる中 伊藤博文と共に明治16年亡くなるまで政府基盤安定に尽力
しました

おまけ:ガイドさんは 建物・庭を管理している加藤造園(南禅寺
    無鄰菴も)の社員 庭の作庭には七代目小川治兵衛が関与と

今日から5連泊 ザ・プリンス京都宝ヶ池オートグラフコレクション
7階の部屋の様子と窓の外の景色です

本日の夕食は ホテルのクラブラウンジで軽食で済ませます

<4日目 3月27日(月)>山科と琵琶湖疎水観光船

朝食もクラブラウンジでいただきます
本日は早朝から忙しいのです 先ずは東本願寺山科別院
国際会館駅から地下鉄を乗り次いで32分で東野駅へ到着

本日が満開ですと 穴場スポットで観光客は少な目です

「桜の天井」で有名な寺院なので急遽計画に盛り込み 大正解です

山科本願寺別院(現在 本山西本願寺の別院)の歴史上の位置とは?
そもそも本願寺は何故西と東に分かれたのか?を知ることが大事です

本願寺親鸞聖人の入滅に端を発し 京都東山大谷に廟堂が建立され
その後焼失や再建そして移転を何度も繰り返し やがて山科から大阪
(現大阪城の場所)へ移転した
天下統一を目指す信長は 広大な本願寺の土地明け渡しを要求するも
それを拒否するお寺と11年(1570~1580)に渡る石山合戦
(最終的に兵糧攻めで決着)を経て 顕如上人と信長が和解しました

とは言うものの 籠城派(顕如の長男・教如)と和睦派(顕如と三男
准如)間の火種は大きくなり 大阪本願寺火災で京都に移転する際に
秀吉寄進の土地に西本願寺准如派)関ケ原以降 家康寄進の土地に
東本願寺教如派)が建立されたのです
お寺が原因ではなく 信長・秀吉対家康の勢力争いで分裂されました

満開と同時に散り始めています
時間がありません 東野駅から京阪四宮駅に そして琵琶湖疎水乗船場
私の計画は 常に分刻みなのです

四宮駅からの途中 いずみ幼稚園前では桜の巨木が見事!

琵琶湖疎水に到着しました 一安心です

山科から乗船して蹴上到着までの30分 4,500円/1名
ふるさと納税でもって乗船券2枚ゲット 一般での購入は相当
難しい 人気の観光船なのです

大津からの船が到着し 乗り込みます 自撮り撮影で顔デカ!

第2トンネル東口 井上馨の揮毫「仁者は動かない山によろこび 
智者は 流れゆく水によろこぶ(論語)」何のことやらであります
この形のトンネルは難しいそうです 馬蹄型の第2トンネル出口です

第3トンネルを出て 下船しました

インクライン(傾斜鉄道の意 1891~1948年操業)に到着
ここまでの疎水の水位高低差 何と2ミリ 流しそうめんを2ミリ
傾斜で流すと考えると分かり易いですと インクラインで引っ張り
上げられた舟は40m余を一気に下り 南禅寺付近まで運ばれます  

インクラインの桜も満開です ようやく巡り合えた満開!
建設当時 世界最長の約528mのレールが形態保存されている

妻の指差す方向に田辺朔郎の像が立っています
田辺は明治27年(1894)英国土木学会からテルフォードメダルを
授与されています このメダルは土木学会の最高賞で 日本人では田辺
一人です また平成28年(2016)には 蹴上発電所が産業発展に
貢献した施設と 電気・電子技術の世界組織IEEEのマイルストーン
に認定され グラハム・ベルやトーマスエジソン等の業績と肩を並べる
偉業であったことが伺える

京都府庁の桜を見るため 地下鉄に降ります その昇りエスカレーターの
人の列 列 列 一体どこで情報を得たのか 見物客が押し寄せます

本日文化庁が京都に移転です 長官は都倉俊一さんです
ペッパー警部のお出ましです 邪魔はしません

隣が京都府庁旧本館 今日から観桜祭 本日満開ですと警備員さん
祭の最終日4/16まではとても持ちません どうするのでしょう?
4年ぶりの観桜祭 イベントも沢山用意されていて桜無しでは・・

すごい! 桜守 佐野藤右衛門さんの作品です
円山公園初代枝垂れ桜の孫にあたる「祇園枝垂れ桜」です

左は 綾瀬はるかさんの「はるか桜」

どうしても見たかった「容保桜」です もう散り始めています

府庁の2階に上がります 窓を開放して桜見物し放題

桜に隠れて対面の壁が見えません

2階からの名物枝垂れ桜

足や腰に効き目のある『護王神社」妻が真剣に祈ります

通りの反対側には京都御所が・・・ここからの桜見物とします
今出川駅までの途中にある虎屋本店ですが 本日は休業ですと
昼食に予定していた北大路の大戸屋を止めて 北山の開晴亭を
TELするも予約でいっぱい 最後の手段 ホテルでの軽食に

少し休憩して14:30再スタート 円通院に向かいます
以前は庭からの借景さえも撮影禁止 猛烈な抗議が殺到しました


お庭を眺めていると 住職のダミ声音声ガイドが流れますが
聞き取りにくいし 気分が損なわれます 辞めて欲しいです


後水尾天皇の幡枝離宮跡だそうで このあと修学院離宮造営なのです
どちらも探し当てるのに数年かけたそうです この借景を守るために
京都市が「景観条例」を定めたとのこと 周囲は住宅地 高層はダメ

次の妙満寺までは歩きです
坂の途中で見た比叡山 これが一番ではと思える瞬間でした

妙満寺「昭和の大遷堂」があったため 堂内が新しいのですね

安珍清姫の鐘 和歌山県道成寺からのもの
というか 道成寺で再鋳された鐘を供養する際に 白拍子は呪力で鐘を
落とすと蛇に変身 その後災厄が続き 清姫のたたりと鐘を土に埋めた
後に 秀吉紀州攻めの大将が掘り起こし 京都へ運び妙満寺に納めたと

京都「雪月花の庭」のうち雪の庭

俳諧連歌からの独立により成立 妙満寺が俳句発祥の地だなんて・・・

清姫ってこんなイメージだったっけ お寺の風格とあまりにも違和感!

長かった今日一日ようやく国際会館まで戻って来ました

ホテルでウェルカムドリンクの抹茶とカクテルタイムのおばんざい

ホテルから徒歩15分 19時一休で予約の「ゆば泉」です
本日3月27日までの限定 文化庁の京都移転記念でもある
第14回京都レストランウインタースペシャル2023です

前菜:酢橘ジュレ ゆばサラダ仕立て 胡麻ドレッシング
   ゆば冷やし餡
向付:巻き湯葉真鯛のお造り 

季節の一品:甘鯛道明寺蒸し うすい豆のソース
温物:ゆばグラタン

肉料理:国産サーロインの炙り 鞍馬山椒 山葵
お椀:白味噌仕立て 
ご飯:ゆばかけご飯 又はゆばちりめん山椒ご飯
デザートは撮影無しだが 豆乳プリンでした

ホテルの桜のライトアップです


























 




































 

 

 
























2023年3月 大阪・京都桜紀行8日間①

今回の旅行は 大坂城からスタートし 大阪・京都の桜を満喫します

<1日目 3月24日(金)>ANAで羽田から伊丹へ

石垣の石の寄進が 圧倒的に金沢・前田家からの物が多いのは?

豊臣大坂城は 徳川幕府により大量の盛り土で覆い 石垣ごと地中に
埋められてしまった その後を徳川大坂城が 江戸城より美しく堅固
な城に築き上げた 加賀藩前田利常の 江戸幕府には逆らわない意思
表示の一つが石垣の石の寄進の多さ(江戸城も同様)にも見られます
「(ライバルだった前田利家に似ている利常を)殺せと命じられた」
秀忠は 家康の命を無視し続けた 次女珠姫を利常に嫁がせ 五女の
和子は後水尾天皇正室に 因って利常と後水尾天皇は義兄弟となる

伊丹空港が近いからか 飛行機の着陸への降下シーンが頻繁です


今年3月30日 大阪城天守閣大阪市の景観重要建築物第1号に指定
豊臣・徳川時代に続く三代目のもの 昭和6年市民の寄付金により復興
されたものです

妻が杖をついているため 本来5階までのエレベーターが8階までOK
8階からも一階ずつ乗降させてくれます(秘密ボタンがあるのです)

通天閣が見えました

秀吉晩年の「醍醐の花見」(花見のあと2か月で秀吉死去)

大坂冬・夏の陣 真田幸村合戦の図 徳川方は松平忠直・前田利常軍です

「豊臣期大坂図屏風」オーストリアグラーツ郊外エッゲンベルク城では
上の八曲一隻の本間屏風が一扇ずつ解体されてしまっていた
(ガイドが「大阪タワー」と紹介しており「大阪キャッスル」と訂正す)
日本には上のデジタルコンテンツが残っているだけ 大変悔しく寂しい!

「ジャパニーズ・キャビネット」として 我々も見学できましたが 
中国画と中国画の間に 一枚ずつ解体された屏風の一扇が・・・
大事に保存されてはいるのでしょうが 何とも痛ましい・・・
エッケンベルク城大阪城は「友好城郭提携」しているようですが
せめて 中国画には挟まないでくださいぐらいは言えなかったのか!

右の石垣のとてつもない大きさの石は 加藤清正寄進のもの

十三のお好み焼き屋に入店(カメラだと美味しそうに写りません)

<2日目 3月25日(土)>大阪から京都へそして花脊へ

鴨川の桜は もう満開です

重要文化財「旧三井家下鴨別邸」です
大正14年 三井家11家の共有の別邸として建築された 昭和24年に
国に譲渡され 以降京都家庭裁判所の所長宿舎として平成19年まで使用 

この角度から見ると4層

3層ですね

下鴨神社の「糺(ただす)の森」に入ります
京を潤す賀茂川と高野川が合流する只洲(ただす)に広がる糺の森
紀元前からこの地を守る下鴨神社の神聖な森なのです

私が引いた「みずみくじ」は大吉でした
「旅行:公表できる旅行なら良い」何ですかこれ? 我々は夫婦です!
「願い事:思うままなるも 油断すれば叶わず」どっちなんでしょう?
「恋愛:心寄せ過ぎても 相手は引く」これって 本当に大吉ですか?

昼食に予定していた浅井食堂が満員で1時間待ち 入店可能になったら
妻の携帯に連絡と すぐ近くの「加茂みたらし茶屋」でお団子いただき
そして再度下鴨神社

河合神社まで来ました 妻は 浅井食堂が入れず ブータレています
(神聖な糺の森なのに 何とも不謹慎な態度 神社参拝も無視します)
予約しなかった私を責めます 実は1時間も待たず15分ほどで携帯に
連絡があった 30分後にも・・・妻が気付かなかっただけなのです
戻る時間は無く 出町柳駅前の志津屋でサンドイッチ購入で済ませます
妻には二人分食べさせます 私は食べる気がしませんでした


高野川(鴨川デルタ以降は鴨川)


出町柳駅で購入 2日間で2千円 都度購入より若干お得です

上は鴨川の桜 下は白川の有名な桜 どちらも満開です

テレビ「百年名家」で見た時から 機会をみつけて訪れたかったのが
「駒井家住宅」です 公益財団法人日本ナショナルトラスト管理物件

1階のサンルームとキッチン

このガイドさん 我々が一定以上の知識を持っていると分かったのか
急に親切になり あれやこれやと細かく説明してくださいました

2階のサンルーム

左:玄関上部の窓からは 年に2回光が差し込みますと
右:丸窓から庭の木々が見えるように工夫されています
建築設計はW・M・ヴォーリズ建築事務所 ヴォーリズ夫人と駒井静江
夫人が神戸女学院の同窓生でクリスチャンとしての交流があったからと

駒井家住宅のある茶屋駅から出町柳駅まで戻り 再度鞍馬に向かいます

鞍馬駅前 天狗の位置が変わっていました(妻は気付かず)
山崩れで天狗さんの鼻が折れたそうで 再作製されたもの

鞍馬駅前から 本日宿泊「花脊ハイランドイン」の慶子さんが
車で迎えに来てくれます 妻とは高校・短大とも一緒ながらも
面識は無かったようですが 共通の友人を介して本日の宿泊に
車中あれやこれやと昔話に花が咲きます
鞍馬から30分 話しながらカーブの連続をスイスイ運転です

花脊といえば「美山荘」いつしかここの話になって盛り上がります
美山荘あれこれについては 長くなります この①末尾をご覧あれ

ハイランドイン(ゲストハウス)に到着しました
杉林のど真ん中 とはいっても ここ京都市左京区なのです
但し コンビニも無く 新聞・ラジオ・テレビ一切無し・・・

一日一組限定の宿で 1・2階とも使用します

カメムシが出ました 備え付けのガムテープで取るのだそう

2階は寝室になっています
それにしても置かれている調度品の数々が半端ない一級品
大阪の実家から搬入した実父の古美術品のオンパレード
外人用宿泊を目的としたゲストハウスで 宿泊の外人さん 
これぞ 古き良き日本だと 大変喜んでいただけるそうで
外国人の口コミでは「only 1 hour from Kyoto CBD」とあり
1時間かけても宿泊の価値があると広まっているようです

築130年の古民家をインターネットで探し出して 2年かけて改修 
スコットランド出身のサイモンさんと 大阪出身の慶子さんご夫妻が
2017年にオープン 地元民との触れ合いを十分に感じ取りました
送迎中の車にも 近所の方からお昼の注文が入ります ワンコインで
受けてあげるそうです サンドイッチやらなにやらご主人に連絡です

ゲストハウスは 重要文化財と認定されて 家屋の補修費も出ますが
当初は3分の1でしたが 今は10分の1程度に減らされ負担大です
市内との温度差が10度 冬の寒さは尋常ではなく 雪で交通も遮断
冬の宿泊申し出は極力避けているそうです

屋根に積もる雪 落ちる際は木々の枝は折れ 地響きがスゴイそう
それでも慶子さんは 四季では冬が一番とキッパリ 肌を突き刺す
キーンとした緊迫感 スコットランドの寒さをも凌ぐ壮絶な世界!

食卓の奥には 薪ストーブが その前に愛犬の柴犬ボスが横になり
繋がれています(妻が犬が苦手と事前に伝えてあります)

野菜が美味しい 敷地内で無農薬野菜を育てていますと
日本って農薬使用が全世界ワーストだそう 特にホウレン草が危ないと
ドイツの細菌兵器製造会社が 戦後農薬製造に切替え 世界から非難され
売り先を失うも 日本は現在でも受け入れていると 農協も分かっていて
販売を継続しているんですと 日本政府って一体何しているのでしょう?

「宝石の様なチョコレート」と評判のチョコ 妻が全部大阪に持ち帰り
私は食べていない(後日TELあり 大阪には3個だけ1個はあなたよ) 
お土産にいただいたウィスキー・マーマレードは 私が持ち帰りました 
さっさと試食します

おくどさんは使用不可で使っていません 奥のコンロで料理です

ありゃあー 久しぶりの入浴シーン
浴槽は信楽焼の特注品 重量は800㎏もあり 家への搬入には
大人が8人がかりだったそうです 従前は蔵だったお風呂場です

<3日目 3月26日(日)雨>京都市内に戻ります

ここは杉林のど真ん中 花粉症の再発です
折角4年間 医者通いして完治したかと思いきや 元の木阿弥?

朝食のポエジ

そしてドイツ製のソーセージ料理
自家製クロワッサンが一番気に入りました
夜は湯たんぽでバッチリ 朝まで安眠出来ました

昔は林業の町でした 娘が結婚 では木を1本切ろう 家の普請で
費用がかかる では木を1本切ろう・・今はどうでしょう 1本で
コーヒー1杯分出たら御の字 木が倒れてもお構いなしのようです

最後に 花脊を通る京都バス ここら辺では手を上げれば止まって
くれるそう 一度バスで来てみたい 松上げの時期がいいかなあ~

鞍馬駅まで車で送ってもらえました

さて美山荘あれこれです
高級料亭としてミシュラン二つ星獲得 料理研究家の大原千鶴さんの
実家としても有名で 是非一度宿泊したいと思っていた人気店でした

1895年 一代目が 峰定寺(ぶじょうじ)の宿坊を復興させた
1937年 三代目中林吉次が「美山荘」と改名し大幅改修工事を
      設計・施工は 数寄屋造りの最後の巨匠 中村外二さん

料理は三代目 経営・接客全般を女将の和子が担当し 有名店になる
三代目としては 息子の久人が とても頼りなく パリに修行に出す
三代目の後継は 実弟の久雄(現 草喰なかひがしオーナー)が担当
息子の久人がパリから戻って 四代目を就任 但し実質料理長頼みで
母親和子が全般を仕切る 息子久人の嫁佐知子を育成・指導中・・・

TV「情熱大陸」でも 久人の包丁使いシーンは無く料理は不得手?
ハイランドインの御主人が 同人の包丁さばきを見てビックリしたと
頼みの料理長が「辞めたい 辞めたい」と言い続けており その時は
美山荘の最後かも? 今の所 和子大女将が 袖の下で懐柔中ですと
もしかしたら大原千鶴が出て来て 集客活動をするのではとの噂あり

大原千鶴の夫 一切報じられません 北朝鮮人で犯罪歴ある受刑者と
大原千鶴がNHKの看板であり 年間2億円支払われているとのこと
NHKの職員の大半が韓国人であり 大原千鶴の悪口は一切ご法度と
TV「きょうの料理」「あてなよる」「京都人の密かな愉しみ」全部
録画して観るほどファンだったのに 新年のおせち料理重箱は 毎年
頼んでいたのに 今後どうしようかなあ 年間3千個売れるそうです

現女将の佐知子が「京都・大阪ミシュランガイド 2023」で受賞
「サービスアワード」というもので最高級のおもてなしに対するもの
ただし地元での評判は不芳 従業員が皿を割った その代金をお給料
から差し引き 労基署に訴えられ給料からの差し引きは咎められたと

入店する従業員が 佐知子のキツサに耐えられず早期退職者が続出と
一方 久人のパフォーマンスも見え見えだそう 冬の摘草料理に使用
する摘草は TV中継の前の晩 従業員が雪の下に植えておく 翌朝
TVカメラマンを引き連れ 久人が目ざとく掘り当てる こんなこと
ある訳ないと近所の笑いものにされていると

美山荘の実情は 御贔屓の方々には自然と知られ どんどん遠のいて
今や ツアー会社の集客頼み 以前は予約の取れなかった超有名店で
最近ツアー月刊誌に頻繁に取り上げられる その理由が理解できた
恩のある峰定寺までの参道を 美山荘所有だと取り上げてしまったと
何たる人でなし 恩知らず・・・・・
















 














































 

 

2023年3月 ホープツーリズム 福島の「今」を知る旅

福島県は 世界で類を見ない「複合災害(地震津波原子力災害)」を
経験した唯一の地域なのです
ホープツーリズムとは 福島の各分野で 復興に正面から取り組んでいる
「人」との出会いと共に「福島のありのままの姿」を実際に見て 聞いて
学んで 希望を感じる体験と学びのプログラム(学び✖福島=希望)です
今回の旅は 福島県の全面支援に 旅行会社のクラブツーリズムが応えて
添乗員も 10人の乗客も カメラマンも全員が 会社に選ばれたという
社外の人で組成された2日間のモニターツアーです 私は乗客の一人です

行程は 上野発8:15のバスに乗り込み 昼食は「いこいの村なみえ」
そして ホープツーリズム(見学は 東日本大震災原子力災害伝承館と
請戸小学校 大平山霊園 双葉駅周辺)宿泊は「やすらぎの宿双葉の杜」

2日目は リプルンふくしま 道の駅ならは Jヴィレッジ そして昼食
ワンダーファーム」で上野帰着が17時頃の予定と書かれています

添乗員さんは 専業主婦から会社に応募してフェロースタッフになったと
いう15年もの経験を持つベテラン 毎週出かけ今や全国津々浦々を巡り
隠岐の島を残し 国内全域を廻りましたと(誠に羨ましい限りです)

私は添乗員さんの後ろ席 添乗員さんがレジメを必死にめくりつつ説明を
するのを見ていました 添乗員さんも会社自体も このホープツアーは初
だそうで 特別緊張していました(現在では他のフェロー添乗員の指導員
という立場にある人でも 初のコースは大変なご苦労があるのでしょう)

私は エコースタッフ歴10年目 昨年「モニターキャスト」と言うもの
に応募して なぜか選ばれて 各種のツアーにも参加して来ました

バスの車窓から見える筑波山
茨城県の紹介がスタート メロン栽培が有名 新幹線が通りますが 駅は
無い(確かに) 霞ヶ浦は琵琶湖に次ぐ面積(第三位はサロマ湖)・・・ 
何と茨城県の面積の3分の1とか(琵琶湖は滋賀県面積の6分の1です)

関本SAでは 津波で流された六角堂 海から拾い上げて修復とか 塩屋
岬では 美空ひばりの「みだれ髪」私の一番大好きな歌が紹介されました 
ガイドさん さては歌ってくれるのかと期待するも次の説明に素通りです 

いこいの村なみえで 本日限定 日替わり定食Bのさわら味噌漬け焼きが
1,100円(同乗の奥様が 結構美味しかったけど卵料理が3つもあり
どうなの?と不満 何言ってるんだか 今卵が高いんだと心の中で反論)

我々と同様 清水建設東北支店の背広組が来ていました きっと復興便乗
商売視察なのでしょう

さすがに震災後 今週末で12年目ともなると 道路は整備されています 
気になったこと 沿道沿いに花が全く見えません 何とも殺風景なのです
でも当然ですね 周囲の田畑や土壌は掘り返し除染したのですから・・・

震災関連の写真提示多数の 学びの館(2020年9月オープン)です
駐車場に名鉄観光のバスが停車中・・・やはりホープツーリズムの札を
出しています ただしバスの車内には 一般の乗客がいないようでした
会社の下見段階で 当社の方が早いわと添乗員さん ライバル意識大
(調べてみたらホープツーリズムは6年前からスタートしていますよ)

 

この模型は ふるさとを離れた双葉町民が 避難先で それぞれの記憶を
頼りに 町の復元模型(神戸大学が作成)に色をつけて作成したもの
模型に立てられた旗には「花火を見た」「お祭り」などの思い出が書かれ
ていた(写真を拡大して小さな文字を 読み取ることができます)


「プロローグシアター」 ナレーターは福島県出身の西田敏行さん
震災時の津波の映像が 全7面のスクリーンと床全体に広がります

展示されたパネル写真を見ながら 螺旋階段を上ります

往時は 町全体も 学校の授業でも「原子力万歳」だったのでしょう
浪江中学校の教室に掲示された習字の課題作品です この生徒は今?

原発の候補地は貧しい地域から選ばれました 稲刈作業が終わると冬場は
出稼ぎで人口が大幅減 生活を支えるのが精一杯でした 原発稼働で生活
は一変し 出稼ぎせずとも関連の仕事で豊かな生活が得られたようでした

地震発生時刻 伊達市 
地震に因る大きな揺れで落下した時計 14:46で止まっています

(記事中に)大船渡市末崎町の細浦地区は 津波に流され壊滅状態・・・

2011/3/11  16:59 福島県大熊町

震災のビフォーアフター


2011/3/17 宮城県気仙沼市
子どもをおぶった女性が 暗いトンネルを歩いていた・・・

この一枚が胸に突き刺さりました 震災当日 避難所で再会できた母と娘
説明はありませんが もしかすると後で見学した請戸小学校の児童とその
母親なのかも知れません・・・・

2011/9/11 宮城県名取市 
津波で流され 回収されたランドセル 震災から半年過ぎたが 引き取り
手が現れず 学校に残ったままだった

2011/3/18
震災から1週間 発生時刻の14:46に合わせてサイレンが鳴り響いた
変わり果てた風景の中 手を合わせて黙祷する親子の姿があった

3月11日です
読売新聞社の記者 カメラマンが撮影した2012年から2020年の
「3月11日」の写真です 愛する人やふるさとを思う被災地の今日を
これからも伝えます

2012/3/11 福島県いわき市
津波の発生時刻 住民らが僧侶の読経に合わせ 黙祷した
塩屋崎灯台が見える平薄磯地区では 津波で約9割の家屋が全壊し
100人以上が犠牲になった

再度塩屋岬となり「みだれ髪」の出番です 美空ひばりの歌碑の前では
この歌が流れます 舞台上では歌うたびに目を潤ませ 思わずこちらも
心痺れる哀歌 魂の歌です 団塊シニアにはここは憧れの聖地なのです
また 映画「喜びも悲しみも幾歳月」のロケーション地でもあるのです

♬髪のみだれに手をやれば~ 憎(にく)や恋しや塩屋の岬
 投げて届かぬ想いの糸を  胸にからんで 涙をしぼる♬
♬暗(くら)や涯(はて)なや塩屋の岬~ 
 見えぬ心を照らしておくれ ひとりぼっちにしないでおくれ♬

時代を越えて 人々の心を揺さぶり 福島に寄り添う天からの歌です

ここ伝承館から海岸まで 何もありません


理科室の黒板に書かれた言葉 H25/3/1
福島が戻るまで何度でも来ます 一緒に頑張ろう  8321
必ず立ち直れる 自分に出来ることを精一杯します 8322
子ども達の未来のために頑張ります 九州管機 大分第二小隊
頑張れ請戸 ねばり強く 陸自もねばる!!

 
このピアノは震災当時 請戸小学校の2階音楽室にあったピアノです
津波により10㎝ほど浸水したものの その後使われていました 今回
請戸小学校の震災遺構オープンに合わせ 浪江町より借り受け展示

そうです 震災当日避難勧告ではなく避難指示・命令であったなら 
どれだけ多くの人命が救われていたことでしょう!

廃棄物の中間貯蔵施設です(この奥に存在する第一原発は見学できず)

鉄塔(見晴台)の上に掲げてある矢印は ここまで津波の水位が・・・
福島県復興祈念公園が令和7年(2025年)末の完成を目指しています
位置的には 先ほどまでの伝承館と隣接 双葉町浪江町の境になります

請戸小学校に到着しました 海岸沿いに黒松の植樹がなされていますが
黒松は 2年で人間の身長まで育つそうです

さあ 奇跡の請戸小学校の実話が始まります
右の絵本は NPO法人ノーブレス・オブリージュのメンバーに福島県
出身者がいて 視察に来た際 当校の事を知り絵本として発刊したもの
参考:「ノブレス・オブリージュ」とは「貴族が義務を負う」から発して
   いて 日本語では「位高ければ徳高きを要す」ビジネス上の言葉に
   置き換えると「自発的な無私の行動」と表現できるのでは・・・

津波の高さが実感できます 改めてとんでもない高さだったんですね
避難する子供たちの絵と文章が 絵本から抽出され 震災遺構の順路に
沿って 案内パネルに使用されています

数日前にも地震があったこともあり 児童は「また地震か」と思いながら
机の下に隠れ 揺れが収まるのを待ちました
しかし揺れは収まらず 机ごと数十cm移動してしまいました 体育館に
いた5年生は その場にしゃがみ 頭を手で守るようにしていました

校長室内の耐火金庫には郷土史の原本など20数冊が
町教委の職員が被災5年後に金庫から取り出し保管 水に浸っていた時間
が少なく カビなどの被害は無い・・・

地震の後には津波がやってくる」と近所のおじいさんに教えてもらった
ことを思い出しました・・・

請戸小学校から大平山を望む(パノラマで撮影)

掲示板を見ながら体育館に 3/23の卒業式の準備がそのままでした

山へ避難した児童とは別に 1年生11人は既に下校しており 児童全員
の安否確認は 連絡が取れにくいこともあり 困難を極めた 
最終的に全員が無事であったことを確認できたのは一ヵ月後でした

震災に遭遇のある娘さんの手記に この小学校の教師だった母親に連絡が
取れませんでしたと 2日後に連絡が取れ無事を確認 2日間どうしてた
のと聞くと 連絡が取れなかった1年生の子ども達の安否を追っていたと

そうです 母は1年生の担任教師だったのです そしてこの娘さんがそれ
まで一度も訪れなかった請戸小学校の震災遺構立ち上げに尽力したのです

先生と児童たちは 田んぼの畦道を通って1・5km走ったのでした
この学校にはエレベーターがあります 足の不自由な車椅子の児童が
いました 皆で助け合い 励まし合い乍らの必死の避難でした

陥没した体育館 ねじ曲がった時計・・・

小学校の2階廊下には 沢山の人の実体験が掲示されていました

校旗は後日 寄贈されたもの(フレンジ付の総刺繍オーダーメイド)

管理塔と校舎全景

大平山の慰霊塔から右奥に請戸小学校が見えます
2021年10月開館の「震災遺構 浪江町立請戸小学校」です

下のガードレール横は車道です ここは自動車渋滞で津波に飲まれました
車を捨て 上の霊園がある場所まで高低差6~7m ここをかけ登った人
だけが助かりました まさに生死の分岐ポイントとなった斜面だそうです

霊園から見下ろすと もう一軒見えますが 最近建物が完成ました
いつ来るか知れぬ「災害危険地域」であり一般の住宅は建てられません
昔から商売をしていた鈴木水産と言う会社だそうで 当地産の魚が忘れ
られないと ここの社長さんにもインタビューするとか 児童が走った
田んぼの畦道から山道も体験してみたい という意見がありました

ガイドさん(このツアーでは フィールドパートナーという呼称)が
双葉町の商店街だった今は無人の通りを 歩きながら案内してくれました
上の酒屋さんは 今米国のシアトルで営業しているそうです

一見すると無傷のように見える家も 中はイノシシやネズミにやられ
ムチャクチャだそうです 家に蓄えられていたお米が狙われたらしい

図書館の入口 段差ではありません 陥没したものですと

左 町役場 右 新旧駅舎 復興のシンボルでしょうか?

双葉駅は無人駅 常磐線が1時間に1本通ります
鉄道路線図では 左6個目がJヴィレッジ駅 右1個目が浪江駅

丁度駅に なあんだ普通の常磐線です 線路は新たに敷き直したようです

駅の向こうは今後開けるようです
今現在 双葉町では居住希望者に提供できる住宅戸数が圧倒的に少なく
ガイドさん自身 ワンルームで6万7千円も払っているそうです

町を離れる際 バスの車中から 家々の壁に絵が描かれていて何だろうと
思っていました 東京の方から 壊す予定の家に描く人が来るようですと
バンクシーが描いてくれればいいのに」 ヒットな名言 その通り!
同氏のウォールアートなら復興の大きな財源になること間違いなしですね


ご飯は当地産のこしひかり
お米は当初から全量 放射能測定と どう思いますか?答えは全くゼロと

宿泊したホテルの夕食と朝食 魚がとても新鮮で 特に刺身が分厚い!
道の駅なみえで おつまみ(無印良品)ローソンでビールを購入 部屋で
一人で飲みました(今回の旅行ではいつも横にいる妻がいません 大阪で
母親のお見舞いなのです)ご夫婦で参加の2組も別々の部屋でお休みです

2日目の出発です 「リプルンふくしま」 リプルンって意味は?
再生・復興の想いが「リ・プロデュース」で 「~する」の造語で
「リプる」親しみを込めるため語尾に「ン」をつけてリプルンとは
極めて真面目な施設・事業体に 何かふざけている感じで良くない

震災の複合被害で大気中に放出された放射性物質を含む土壌や廃棄物 
今もなお 県内各地に保管されている 除去土壌や特定廃棄物などを
できるだけ早く安全に確実に処理する(埋め立て)ための事業体です

見て触れて学べるというコンセプトながら 早口の説明で終始し 我々が
自由に操作できる時間が無かった 極めて興味深い施設でもあり 後ろの
行程が押しているのでしょうが あと30分ほしかった 大変残念でした

ここのリプルンって「特定廃棄物埋立情報館」なんです 折角埋立現場に
来ているのに 見学可能なのに我々には時間が無い 上の写真の埋立現場
既に最終段階であと一層(下の袋を)積み上げれば 最終土を被せて終了
ビル4階分だったかな?順次周囲の壁も積み上げていったそうです

この袋 地盤改良用収納容器 6段積 覆土  ゼオライト混合土
右は空気中の放射能を測定するガイガーカウンター様の機器
これを実際に携帯し あえて除染していない場所での針の振れを
体験出来ました 皆さん大声で数字が上がるのを叫んでいました

除染していないフィールドの数値でさえ「放射能オリンピック反対」を
叫んだ狂気の韓国より数値が低いとは!! 日本政府しっかりとせよ!
(最近では韓国国内でも これから実施の除染水というか薄めたものの
海への放水は数値上問題ないと発表したようで 日本にきちんと謝れ!)

「道の駅ならは」の30分をリプルンへ欲しい! 次はJヴィレッジです
私は興味小です サッカー好きの小中高の生徒は狂喜乱舞らしいのですが
シニアにとっては どうでもいい いままでの震災関連から あまりにも
かけ離れたもので 学びの感覚からスポーツの感覚への移行が出来ません

日本代表やアルゼンチン代表もトレーニング なでしこジャパン
レーニングしたようで 「神のピッチ」と呼ばれているようです
ドラマ「ノーサイド・ゲーム」の最終回の舞台になったとか
ピッチの線引きは「ライン引きロボット」がしてくれるとか
Jヴィレッジ広報担当のマスク美人が 明るく元気に説明されます

テントを張ったような全天候型練習場の入場口から なでしこの
連中により東京オリンピック聖火リレーがスタートしましたと

以上の件はさておき ここから原発までは20km 震災時には
このピッチに自衛隊のヘリコプター基地が置かれた 最初の晩に
ヘリが降りる際 停電で ここの社員達が自家用車を持ち寄って
ピッチをヘッドランプで照らしヘリを誘導した ピッチ上は瞬く
間に泥まみれになり使用不能になるも そんなことはお構いなし 
自衛隊に声援を送り続けたそうです これこそが本筋の話でした

建物内には「蹴球神社」なるものがあり おみくじを引きます
何と大吉を当てた同行者に倣い 私もお賽銭を投入 結果はウンとも
スンともなし 

なでしこジャパンの聖火ユニフォームとサッカージャパンの選手足型

左天然芝 右人工芝 ピッチへ下りて芝の感触を実感できました


サフランライスが少し固めでした
最初からメニューが一切なかったと不満を漏らされた奥様がいましたが
昼 夜 朝 昼と4食付 ホテル代も交通費も入場料も含め1万円です
どうして文句が言えましょうか 問題点は最後の意見交換会でどうぞ!

上野駅には午後5時過ぎに到着しました

何と言う事でしょう 本日は3月7日です 上野公園の桜が満開です
いったいどうなっているのでしょう?
妻から電話「JAXAのH3ロケットが失敗」と 大ショックでした
昨年筑波宇宙センターに行って以来 H3の打上げを応援していました

おまけ 最後のワンダーファームで行なわれた意見交換会での私の意見
アンケート用紙の設問順と違いますが 覚えている間に残しておきます
1,昨年4月にクラブツーリズムのツアーで山陰・山陽を廻り 広島の
  原爆ドーム原爆資料館 5月に復帰50年の沖縄で ひめゆり
  塔と平和祈念公園に行きましたが 何組もの高校生達の卒業旅行に
  出会いました 両方とも魅力的な観光地に囲まれていて 観光の
  ついでに「学び」が入っている 旅行行程がスムースだと思います

2,1日目に浪江から双葉を廻り感じたこと
  ①このコースを 先ず全国の学級担任教師に回ってもらい 震災時
   小学生だった高校生及びその父兄に現地に行くべき意味を伝えて
   もらう 卒業旅行に大勢招くに当たり 当地に収容施設はある?
   十分でないのなら 会津 いわき そして県外の仙台にも協力し
   てもらう必要がある
  ②コース設定に歴史的意味合いが少な過ぎる 例えば江戸時代又は
   それ以前から 津波は発生しており この時には津波がここまで
   来たという標識がある(ガイドさんからは浪江町にありますと)
   避難地域のままであれば そのレプリカでもいいので 伝承館に
   置き その前で「想定外 想定外」を繰り返す東電の役員連中に
   これでも想定外?と問いただしたい(と個人的希望)
3,15:37 請戸小学校の校舎または校庭に我々はいました
  この時間は 校内の時計が津波で止まった時間ですが 添乗員さん
  バスへの集合時間を15:40にしました これは偶然ですか?
  それとも意識して合わせました?と聞いてみました 偶然ですと!
  今後本格的にツアーを組むのであれば お客様の感動を倍加させる
  サプライズとして 是非とも この時間帯を合わせてください
4,最後に いちツアー客としてお願いがあります シニア向けや若者
  向けにコース設定を考えてほしい シニアにはやはり温泉が無いと
  興味が湧きません 福島の会津若松 東山温泉など中通り以西には
  温泉が豊富 県外なら宮城の秋保温泉や 山形銀山温泉をつけても
  面白いのでは?
  それが難しければ 現地集合・現地解散方式で温泉はツアー客任せ
  又は ツアー中に離団届を出してもらい 最後の観光地いわき市
  離団を許可 そうすれば磐越東線会津へ向かえます

随分盛りだくさん話し 既定の3分間をオーバーしましたが まだまだ
検討要のポイントは多い 他の人の意見で 鈴木水産に どうしてまた
当地で会社を始めたのですか?を聞く機会を持つ また小学校の児童達
が辿った田んぼや山道を実体験する また海岸線を見学することもいい
との意見も 私は 秘かに「放射能除染水の放出時に船上から見学する
コース」などがあればいいのになあと考えますが これは無理ですね? 

3週間後くらいに「旅の友」に本コースの募集が掲載されるそうです
意見交換会で出された10人の意見が どれだけ反映されるものなのか
興味津々 とても楽しみです 
今回はキャスト特別料金でした 果たしていくらに設定されるでしょう

参考:ガイドさんから聞いた浪江町にあるという「津波到達水位標識」
   検索しますが見つけられません
   そこで検索でみつけた岩手県宮古市のものを紹介しておきます

岩手県宮古市重茂姉吉地区に立つ津波標識
「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな」
明治三陸地震津波(1896年津波高46m)に襲われ 当地区で多くの
犠牲者を出した事を教訓に建立された 以来この地区では この碑より下
に住宅は建てられていない そのため東日本大震災津波高39m)発生
時に人的被害は無かった・・・

 

左上の白い掲示板 上は明治三陸津波で約15m 下は昭和期約10m
ここまで津波が来たんですよという歴史の証拠です
(当時の津波の最大打ち上げ高は大船渡市で38・2mと記録されている)
右は 今般の東日本大震災後に建てられたもの 後世には役立つでしょう

それにしても不思議なのは浪江地区で過去の教訓は?
浪江町地域防災計画(平成29年度修正版)には過去の津波事実の記載も
不明瞭 WEB上に津波標識の存在も見当たらず 何かが隠されている?
過去に学ぶという「温故知新」を知らない町なのでしょうか?

ブログ作成のため 伝承館についても調べていると・・・
館内では1日4回(各40分)震災被災者が語り部となっての講話がある
内容は 未来につなぐべき記憶・教訓 ただし話す内容については制限が
あるようで 特定の団体批判は不可 笑顔で対応するようにというもの

これで理解できました 各ガイドさんが いやに元気で明るいのが・・・ 
全体が ある種の縛りの下で運営されているんですね! 制限のかかった
ホープツーリズムと考えなければいけないんだと 奇妙な感じで納得です
でもでも 最終的には自分自身で考察して 子孫には伝達していきたい