2023年5月 茨城・栃木4日間 ①茨城県

袋田の滝にて

1日目 5月31日(水)晴れ水戸偕楽園から袋田の滝

水戸駅で「水戸漫遊1日フリーきっぷ」を買ってバスに乗車します

表門でボランティアガイドの女性・菊池さんと9時待ち合わせです
我々は9時少し前に到着 9時までは入園料無料とはラッキーです

偕楽園の案内図
偕楽園の名称は「孟子」の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ」から

竹は何に使う? 左の竹は弓矢の弓用に 右は矢に使うそうです
竹林(ちくりん)とは 間が透けていて向こうが見えるとき使う
即ち 管理されている状態を指し 竹藪とは違いますと

ガイドさんが更に説明「竹の成長は極めて速いんです」「フーン」と
聞き流す これこそシニアですね 子供の様に「なぜ?」が言えない
それでは「チコちゃんに叱られる」ボーッと生きてるんじゃねーよ~
「竹に節がいっぱいあるのは?」めちゃめちゃ早く 成長するため~
竹の節一つ一つに成長点があり 節ごとに一斉に成長して伸びていく
他の草木は  枝や茎の先端から成長するのに対し 竹は節ごと1日に
2~3mm伸び 場所によっては1cm以上(最高記録では 1日で
121㎝) 竹一本平均60個の節があり2か月で10m以上になる

「なぜ早く成長しなければいけないか?」筍が美味しいから~
皮をむいた筍は 天敵である野生動物(猿やイノシシ)のごちそう

竹を横に切って見る 真ん中の方は節と節の間が長く 曲げても力を
受け流し 根っこの方は狭く力がかかっている 竹は中身が空洞で
自重では折れない 成長の早さ 軽さ 強さを併せ持った理想的な
植物で 弓矢にも適しているのでしょう

「吐玉泉」 徳川斉昭は 偕楽園の造成に当り 地形の高低差を利用して
白色の井筒を据えた湧水泉を設置 眼病に効く水で 好文亭茶の湯にも
供された 現在は四代目の大理石 湧出量は1日100tと

萩の垣 婚礼前の写真撮りに使われるスポットとか

好文亭中門 門の先には「陰」の樹とされるツバキの巨木を境に
眼前に「陽」の世界が広がります

好文亭の好文は 梅の異名「好文木」からつけられた 語源は中国
1841年 第九代藩主 徳川斉昭が水戸の弘道館と共に建築した

「菊の間」と「桃の間」(総板敷きで 調理室として利用)
平屋部分の奥御殿は藩主夫人が来亭の際の休息所として利用されました 
斉昭夫人の貞芳院(慶喜のご生母様)が最初に利用されたのでしょうか 
10部屋の内9部屋に描かれた花木の襖絵が部屋の名前になっています

躑躅の間」と「松の間」(躑躅の間は 御付きの婦人たちの詰所
松の間は 藩主夫人の産所及び奥対面室)


     参考:好文亭のポストカードから

「紅葉の間」と「竹の間」(紅葉の間は控えの間)

釘隠し

「梅の間」と「萩の間」(梅の間は奥御殿中 最も高貴な部屋であり
明治2~6年まで藩主夫人の居室となり 明治35年には大正天皇
皇太子時代に ここに宿泊された 大正元年 昭和天皇が皇太子時代
には御休息された 萩の間は 御付きの女中衆の詰所・休息の部屋)

昭和20年8月2日 水戸大空襲で 好文亭焼失
戦後の再建は 世界最古の578年創業 金剛組が1955年施工開始
襖絵は 東京芸大の須田助教授が 松・紅葉・梅・萩 須田氏亡き後に
東京芸大田中教授が 菊・桃・躑躅・竹・桜の間を完成させたが 昭和
44年 落雷で奥御殿全焼 日中であり 萩の間天袋以外は持ち出せた

障子を開けると 部屋の中から 両方のお庭が見渡せる贅沢さ

                 「櫻の間」(藩主夫人お付婦人詰所)

外から見ると内部は見えません 中からだと外が見渡せる

奥御殿から太鼓廊下を渡って・・・刀を振れない高さになっている
右は徳川斉昭公 徳川最後の英傑 井伊直弼と対立 強硬な攘夷派


上の敷石は 烈公(斉昭)が好文亭に来られる際 千波湖から舟で来て
できるだけ民に合わない様にした証 現在の駅からのバス通りを通ると
それだけで 民は窓を閉め 歩行途中の民は土下座して 殿様一行の列
が通過するのを待つ これが迷惑なことだと 烈公は理解していたのだ


   奥に見えるのが「東塗縁」この部屋は烈公が 80歳以上の家臣
や90歳以上の庶民の老人を時々招き 慰労したり 家臣と共に作歌や
作詞をして楽しんだところだそうです

水戸藩の伝統に「一張一弛(いっちょういっし)」という言葉があり
一方で張りつめ 一方で緩める(類語で言えば 飴と鞭)政策だそう
水戸の弘道館偕楽園も 学問所と公園風で一張一弛の精神の現われ
偕楽園の陰陽(表門から竹林辺り陰 梅林に出て陽)自体もメリハリ
が感じられ 一張一弛の流れなのかも知れません


藩主の間 何と質素な・・・
皇族 から降嫁された奥様(吉子女王ー後の貞芳院)を大事にされた証
かも知れません なにしろ奥様用には10室も用意されたのですから

    戸を開けずに 室内の状況(藩主の様子)を確認する工夫
「透かし戸」や右は「物見引手金具」これで おもてなしの適切な
タイミングを見計らっていたようです

配膳用昇降機 滑車で上下(いざと言う時には脱出用にもなる)

障子は三連障子 1枚を引くと2枚目 3枚目が続けて現れる工夫
雨戸は回転式になっており 眺望を妨げる戸袋はありません

「楽寿楼」部屋は3室あり 南に面した8畳が正室で 烈公がお出まし
の際だけ使用された 東南西方の欄干に寄って四辺を眺めると 遠近景
山河の景がここに集まる趣です
竹の床柱は(復元時に)鹿児島市長から寄贈されたもの 西側の丸窓は
富士見窓で烈公が作った陣太鼓の余材を用いたもの
ガイドさんの説明 烈公と鹿児島の島津斉彬公(9歳上の斉昭を先駆者
兄貴分として敬い相談す)は親しい 実は 前の床柱は島津家から寄贈
されたと 竹の柱の節は11個 じゅういちの漢字は士であり よって
ここの階段の段数も11が二つ 確証は無いけれど夢のある逸話ですと
参考:島津斉彬公は 西郷隆盛の主君で天璋院篤姫の養父としても有名

楽は水を 寿は山を表わし 楽寿楼とは 山と水の眺めの双方を兼ねた
山水双宜の楼を意味しています

ガイドさんと別れ際 水戸徳川家では 2代目の光圀さんと9代斉昭
しか知らないのですが 他に有名な藩主はいたのですか?と質問する
「私自身も 名前も業績も知りません 他の方は江戸詰で 水戸には
いなかったからなのかも知れません」と
参考:斉昭公は1859年の安政の大獄で水戸に永蟄居 翌年の
   万延元年 謹慎中の水戸城中で没する(61歳)

梅を愛した斉昭 春の魁として咲く梅の花は 詩歌の良い材料と
なり また 実は梅干しにして軍事や飢饉の際の 非常食となる
ことから 実用を重んじた斉昭 領内に広く植樹するよう奨めた

本日は「梅落とし」売店で1瓶500円 すぐ完売になりますと
そういえば 本日は岡山後楽園でも梅落としと TVで見ました

駅前広場で 水戸黄門ご一行と

ブラタモリ水戸編」は2017年1月放送
ドラマ水戸黄門の起源はこんな理由だった!から始まります
家康の孫にあたる徳川光圀は 日本全国漫遊した? いいや光圀は
実際鎌倉までにしか行かず 各地に派遣した水戸藩藩士のお話を
もとにドラマは作られたと
タモリ一行は水戸城跡へ ここには水郡線が走っている 水郡線
かつての水戸城跡の堀の中を走っています 堀に沿ってというのは
あっても 堀の中に線路という例はちょっと聞きません・・・

本日は水郡線で 水戸から袋田経由郡山まで全線乗車です
全部で41駅 袋田駅は19番目 次の常陸大子駅からは1両です
単線で 駅での待ち合わせやら無人駅多数の 今時珍しい路線です

11時15分発 常陸大子行き 実は出発の水戸駅で5分遅発
原因は 妻の康子です 大事な杖代わりのステッキを列車とホームの
間に落として(というか車内で 手を離した瞬間ころがって落ちた)
「列車が出発してから拾います 次の列車に」という車掌さんらに対し
「この列車で袋田経由 本日は那須塩原まで行くのです しかも杖無し
では とても歩けません!」必死に訴えていたところ 別の係員さんが 
マジックハンドを持ってきて ステッキの輪に通しヒョイと吊り上げて
大成功です 妻が乗客の方に向かって ひたすら頭を下げ 無事出発! 

バスは列車の遅延分を待っていてくれ 無事袋田の滝本バス停に到着


         さあ 袋田の滝観光です

大子町の鳥である「オシドリ」をモチーフにした銅製のモニュメント
「恋人の聖地」に選定された記念です 台座の上に 2羽のオシドリ
上部にハート 下部に無限(∞)のマークが現れるデザインなのです

第一観瀑台

第二観瀑台へのエレベーター

二人の写真は 観光に来ていた東南アジアの美人にお願いしたところ
「もう一枚 もう一枚」と三枚も写してくれました

今のシーズンは水量が少ないですね

秋は紅葉

冬がいい 滝が凍結すると一番とか言います  現在もいいですが・・・

最後の吊り橋からの眺め

袋田の景色をあとにして

袋田駅ホームに掲示されていた)徳川光圀公の句です
「いつの世に つつみおきけん 袋田の 布引き出す 瀧の白糸」

1両だけで走行 運転室の後方右手にある水色の円柱形はトイレ
2時間も走りますので トイレは必要なのです
郡山の一駅前で 高校生の大群が乗って来ました 下校時間です
水郡線が到着する郡山駅のホームは 新幹線入口から離れていて
焦りました 高校生をかき分けかき分け 何とか新幹線ホームに

そこで駅弁一つゲット(一番人気ののり弁は売切れ)到着の那須
塩原駅でもう一つゲット あと駅前でテイクアウト弁当一つゲット

ここでチョット疑問を投げかけます
どうして袋田駅から福島県郡山駅まで行き そして那須塩原駅
2時間半を要し 新幹線も利用せざるを得ず コスパ最悪なのです
地図上で 底辺(袋田ー那須塩原)が一番短いのに二等辺三角形
頂点である郡山までわざわざ北上し 南下して那須塩原まで行くと

実は 常陸大子駅袋田駅周辺)と那須塩原駅を結ぶバス「奥久慈
おでかけ快速バス」があるのにです 70分500円直通なのです
大変残念なことに このバスはゴールデンウィーク お盆 紅葉期
年末年始限定出発なのです(観光協会にもメールで照会しました)
今回の旅行を計画していて 一番悔しい思いをした事案でした!!

本日から3泊する東急ハーヴェストクラブ那須の送迎バスが到着
ホテルまでは 車をビュンビュン飛ばして30分 お疲れ様です

部屋の様子 スタンダードながらまずまずです

ベランダに出ると さすがに空気が美味しい