2022年4月 ミステリーツアー沖縄4日間 

知念岬公園にて(沖縄は日差しが強く偏光フィルター処理をしています)

<1日目 4月17日(日)>羽田から那覇まで ANA便で約3時間
今まで一度も来なかった(妻は何度も来ている)沖縄 今年返還50周年
を迎えるに際し 今回は下見旅行 そして5月末に本番再訪する予定です
「クリスタルハート」のミステリーツアー 何と参加者が30名の大人数

妻は今朝 ANA便で大阪伊丹から羽田に到着し 2時間後に那覇へ出発
という強行軍 そう言えば前回の山陰・山陽では最終日 ツアーを離団し
新大阪で大阪の自宅に戻っています 4月はずーっと東京を離れています

1泊目は 那覇市内旭橋からすぐの「リーガロイヤル グラン沖縄」です
高層階プレミアムフロアだそうで 部屋は35㎡以上という贅沢空間です

夕食は 沖縄郷土料理と琉球踊りの竜宮城「うらしま」にバスで往復
ミミガーの和え物(耳皮)」よりスタート オリオンビールを注文

ジーマミトウフ(落花生豆腐)」と「スヌイの酢の物(もずく)」
ラフテー(三枚肉角煮)」と「クーブイリチー(昆布の炒め煮)」
これが沖縄の健康長寿食だと 抵抗感無く美味しくいただきました 

「ウムクジアンダギー(紅芋の揚げ物)」
「ジューシー(炊き込みご飯)」「中味の吸い物(もつ)」「香の物」

写真は 「いちゅび小」いちゅびとは野苺の意 愛しい人の比喩的表現で
野苺採りを口実に 男女の逢引きの様子を描いた踊りだそうです 合点!

もう一枚は「四つ竹」 中国からの客人をもてなす際に踊られる代表的な
宮廷舞踊の一つ 鮮やかな紅型衣装に花笠をかぶり 四つ竹を打ち鳴らし
踊ります 天下泰平の世を寿ぐ歌に乗せ 宮廷の華やかさが蘇る舞台です
注:この花笠 「お菓子御殿」の店構えに飾られています

ホテルのバーでウェルカムドリンク 甘ーいカクテルを一杯いただきます

<2日目>波上宮から知念岬そして北谷 東南植物楽園

朝食ビュッフェ(右窓下に見えるのは次回宿泊ダブルツリーBYヒルトン)
沖縄県「朝ごはんフェスティバル」で第一位のメニュー 取り過ぎです!

波上宮(沖縄総鎮守府) 古来よりニライカナイへの祈りの聖地であった 
ブラタモリ那覇編」によると 戦前までは 那覇の中心は島にあったと
島の中心に波上宮があり 今の繁華街である国際通りは湿地帯や畑だった
  注:国際通りとは「国際劇場」という映画館名が由来となっていると
    島には 高い技術力を持った中国人が移民で来て高い位に着いた 
    その子孫が玉木さんとか具志堅さんを名乗っているとのことです

1944年の空襲で 波上宮及び古い那覇が焼失したため 人々は止むを
得ず国際通りに移るが 当時生活必需品の食器さえも無く 壺屋やちむん 
通りで食器造りが始まる 現在は平和通り商店街と呼ばれている地域です

米軍からのおこぼれ食料が闇市に流れ 闇市が公設市場に吸収されていく
旭橋駅南の入江から見える港の一部1・6kmは 米軍基地となっている

神社敷地内に見られるデイゴの花は県花 花言葉は「夢 活力 生命力」
沖縄県が北限(原産はインドやマレー半島)見事に咲くほどに台風が多い
デイゴの花が咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た♪ という島唄をバスガイド
さんが唄います 恐れると同時に台風の雨を待ってもいるとのことでした

ハイビスカス(花言葉は「繊細な美 新しい恋」)は県花ではありません

沖縄が苦手な理由の一つがハブの存在 ここで絵を描いていたおじいさん
「大丈夫 ハブは夜行性 昼間は寝ているし 出ても踏んづけない限りは
人間に危害を与えない」と そう聞いてとても安心しました
今の沖縄では ハブの天敵と言われるマングースの食害がひどいそうです

左:明治天皇像 なぜにここに建つ?
昭和45年沖縄の日本復帰が決定 像の台座には明治天皇揮毫「国家」の
二文字が刻まれ 背後には「五か条の御誓文」が刻まれています
同胞を殺戮し故郷を焦土にした米兵に媚びを売ることでしか生活できない 
という人権を抑圧された不平等な境遇下に 戦後27年間耐え忍んだ沖縄
県民の悲願が 日本に復帰することでアメリカを追い出し 本来の故郷の
姿を取り戻せるんだ そう思えばこそ日清・日露を戦い抜き不平等条約
撤廃し 近代「国家」日本の指導者となった明治天皇の像を建てたのです

しかし結果として広大な米軍基地はそのまま 日米地位協定は手つかずで
残り 米兵犯罪も一次裁判権を米軍が持つという 歪んだ状態が継続した
理不尽な現実に沖縄県民のやり場のない怒りは不甲斐ない日本政府に向く
注:このブログの最後に「沖縄は復帰したのか~50年の現在地」という
  琉球新報という地元紙他の記事を載せておきます

右:昭和天皇御製碑(武田恒泰氏説明)
昭和天皇は 終戦後国民を激励しようと 全国各地を訪問したが沖縄県
米国の施政下で果たせず 昭和47年に本土復帰したことで強く訪問希望
決まりかけた矢先 昭和50年ひめゆりの塔で 当時の皇太子同妃両殿下
が火炎瓶を投げつけられ 天皇のご訪問は沙汰止みとなった
昭和62年 ついに天皇のご訪問が決定したが 直後病に倒れてしまった
病床で「思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを」と

対馬丸遭難学童遺族会が1円募金で建立した「小桜の塔」を発見しました 
昭和19年8月22日 学童疎開対馬丸は 米潜水艦の魚雷攻撃を受け
悪石島沖で轟沈し 学童と連れ添い計1,484名が死亡した悲劇を弔い 
世界の恒久平和を念じ建立された 時間が無いため奥に向かい黙礼で失礼

知念岬公園 天気よし

妻は膝の負担が心配で 階段の上で待機

ニライカナイ(理想郷の意)橋

北谷のシーフードレストラン

阪急交通社限定 カリフォルニアスタイルの「スペシャルランチ」
「サラダとオリジナルクリームスープ」「バジルクリームペンネ
真鯛のグリルとイカと海老のルーロー」 あとはデザートとコーヒー
爽やかなあっさり味 サラダのドレッシングが美味しかったので聞いて
みますと シークワーサーを使用しているとのこと 沖縄らしいですね

もしかしてここに係留されているボートは米軍関係者の所有物?
米軍の福祉施設はどこまで我が物顔で闊歩しているのでしょう?

このツアーはミステリーツアー 行先が秘密なのです 到着間近まで
我々が分からなかった「東南植物楽園」来たかった観光地の一つです

ここは知花村 もしかしてファンである知花くららさんの出身地?

ここが日本?という雰囲気の熱帯性ヤシの並木道 屋外で見ることの
できる素晴らしさ 恋人同士で歩けば感激も倍増することでしょう

高速を下りて ここへ来る途中 そしてホテルまでの帰路の国道58号
沖縄の米軍基地が広がります 特に嘉手納基地の大きさにはビックリ!
3,700mの滑走路が2本 100機の軍用機 在日空軍最大の基地
旧陸軍の中飛行場を接収した 羽田の二倍の広さ 何と600万坪です
品川区に匹敵 東京ドーム420個分だと 町の82%が基地なのです 
そして施設敷地は 9割以上が私有地 その地主に対して 税金で毎年
239億円が払われていると 何とも悔しい限りです 何でそこまで!

バスガイドさん(悔しさを押し殺して)「敷地内の倉庫 米軍が建てた
物は1棟8千万円 日本が建ててあげた物は1棟4億~5億で15棟」
淡々と説明していました「米軍関係の車はYナンバー 税金は日本人の
5分の1 Aナンバーは米国から持ち込んだ車で無税なんです・・・」
バスガイドさんは5人家族で 小型車も5台 生活必需品とのことです
沖縄県民の悔しさが ガイドさん(注)の口調からも感じ取れました

私が別途調べていて気になったこと NHKスペシャルです 復帰前の
沖縄の基地には1,300発の核兵器が貯蔵されていました では現在
でも貯蔵され続けているのでは? 今となってはあってほしいものです
だって これって立派な「核共有」 対中国戦を意識し強力な盾になる

注:ガイドさんは比嘉さん 沖縄で一番多い名字と 二番は金城さんで
  三番は大城さん 四番は宮城さん 五番は新垣さん・・・・
  二番目の金城さん 有名な人物で言えばウルトラマンの生みの親の
  金城哲夫さん 沖縄海洋博もプロデュースされていました
  五番目の新垣さん 言う間でもなく女優の新垣結衣さんファンです

2泊目は「沖縄プリンスホテル オーシャンビュー宜野湾」
全室テラス付 33㎡以上 テレビでアベマテレビ Mリーグ麻雀観戦
4月12日にオープンしたばかり 我々はクラブフロアの12階に宿泊
14階のクラブラウンジと 専用インフィニティプールを利用できます

17時まではケーキや飲み物が 17時以降はアルコールも無料!
泡盛とスパークリングワインを合わせたもの 計3杯飲みました

腹の出具合を隠す水着で 向かうはジャグジー 独り占めです

プールがあるので少しだけ浸ります
泳いでいる様ですが 水深110㎝ 足がついているのです
大変!! あまり下をのぞかないで~と祈ります

実はこうなっているのでした
プールは寒い寒いと また温泉ジャグジーでお風呂気分

夕食「マグロの炙り焼きと海ブドウのサラダ仕立て ゴーヤ風味ソース」
注:沖縄ではゴーヤーが正解と バスからも良く目にするシーサーの発音
  シー↓ サー→ ではなく シー↑ サー→ が正しいとバスガイドさん

「本日のポタージュスープ」         「天ぷら盛り合わせ」

「牛肉のステーキと沖縄野菜のグリル ポリネシアンソース」が来ます
ここで催促してようやくライス 何だか手順が変 パンの人はスープと
一緒にサーブされています 片やライスは最後に出されるのが正しい?
注:ライスはバケット(パン)の代わりで スープと一緒が正解では?
  パンの役目って次の料理の前に口の中を綺麗にすることだそうです

食べ終えて随分時間が経過して「デザート盛り合わせ」が出されました
これまたコーヒーは 督促してから出て来ましたが これはどうなの? 
注:デザートがアイスであればコーヒーは後 デザートがケーキであれ
  ば一緒に出してほしいものですが いかがなものでしょう?
妻は紅茶を注文し 後で緑茶に変更したのですが 紅茶が出されました
この品数で1時間半以上経過とは? 督促しなかった皆さんは2時間と
翌朝は 皆さん方の不平不満大会で 添乗員が代わりに謝っていました
オープン当初とはいえ プロとして恥ずかしいのではないでしょうか?


<3日目>中城(なかぐすく)城跡から美ら海水族館 古宇利大橋

朝食はビュッフェ形式 小皿に分けられていて とても気持ち良かった
他の二つのホテル朝食は 各自が好きなだけ皿に盛るというものでした

幕末のペリー探検隊が見て素晴らしい石組み(相方積)と絶賛したとか
漆喰もセメント使わずの工事で耐久性がすごいと(亀甲乱れ積とも言う)
この城跡からは 東西に太平洋と中城湾(東シナ海)が両方見渡せます

ここの海岸から上陸した米国軍が 沖縄戦の悲劇を引き起こしたのです

美ら海水族館」 後ろに見える島は沖縄海洋博が行われた伊江島

妻が言います 「そっくりね!」と私の顔と比べます

チンアナゴ」とは仲間ではあるが 属が違う「ニシキアナゴ」
目の前に来た物だけを食べ 魚のフンでさえ 一度飲み込んですぐ出す


この大画面にサメが来てくれません

水面のすぐ下を通るので カメラアングルが追いつきません

サメとマンタが共存していることが珍しいそうなのです

昼食のレストラン「イノー」から見えたイルカのショー

昼食は またも大盛 糖尿病になりそうなのにです
右は レゴで作られたジンベエザメ

海洋公園内にある沖縄村 TV「ちむどんどん」の世界です
家を囲む塀(入る場合 身分の高い人は右から 低い人は左から出入り)
そして赤レンガの屋根 フクギ これらは台風対策なのでしょう

エレベーターには水族館の絵が・・・


古宇利島公園からの大橋 小雨交じりで残念 海の色が冴えません

3泊目は「ホテルモントレ沖縄 スパ&リゾート」 バルコニー付です
36㎡以上の部屋です 窓から養殖棚らしきものが もずくだそうです
沖縄の海岸に襲来した軽石 ホテルでは毎朝従業員が取り除いていると
朝 高校の修学旅行生が海岸に出て記念写真 贅沢な私学なんだなあ~
エレベーターに乗り合わせても 礼儀はしっかりしていて感心しました

夕食は和定食です

<4日目>残波岬由那覇空港そして帰京

ビュッフェとはいえ カレーまでチョイスしてしまうとさすがに食べ過ぎ 
体重増加が心配になってきました・・・

受付の女性に聞きます 「何段?」「99段です」

沖縄では台風は困ったものではなく 雨の恵みという前向きな捕らえ方で
屋根の上には給水タンク(古くは天水槽と呼ばれる 雨水を濾過し再利用
する装置)を多くの家庭が備えている 建屋は石やコンクリート造りです

今回 初めて沖縄県に足を踏み入れ そして実際に米軍基地を見て感じた
こと 本土の我々が持つ沖縄の人々のへ思い 果たしてどうなのだろう?
考えてみると 旅行中接触したのは ガイドさんやホテル・店舗の従業員
という観光に直接関与している人たちだけで その人達がツアー客に対し
本音をぶつけたり 不愉快な態度をとる訳がない これでは本当の沖縄を
理解できません

そこで 沖縄の現状を 既述した琉球新報他の記事からピックアップ
「沖縄は復帰したのか~50年の現在地」
1,1972年5月15日 日本復帰「今も憲法の番外地」
  平和の島は 沖縄戦で「鉄の暴風」と呼ばれた米軍の猛攻撃によって
  県民の4人に1人が命を落とし 戦後は米軍の銃剣とブルドーザーで
  「基地の島」に変えられた
  復帰を前に県知事が 県民の総意を「直訴状」にしたため 佐藤栄作
  首相に手渡そうとしたが 米軍基地固定化が 前日の国会で強行採決
  された(佐藤栄作は 後にノーベル平和賞を授与されるのである)

2,1975年7月20日 沖縄海洋博覧会が開催される


     復帰事業の巨大イベントだが 目標入場人数に達せず「海洋博不況」 
  と言われる 観光面では「美ら海水族館」等の完成で 観光地として
  は人気となるが それでも「県民所得」につながっていない 沖縄の
  産業は観光等のサービス業が主で非正規社員が多い 製造業が少ない  

3,1987年10月26日 日の丸焼き討ち事件 
  沖縄県国体の際 ソフトボール競技の開会式で日の丸が燃やされた!
  掲揚台によじ登り ポールにはためく日の丸を引きずり下ろし ライ
  ターで火をつけたのは39歳の読谷村商工副会長で 口笛とか指笛と
  か拍手が起こっていた 「日の丸 君が代は血塗られた歴史を持ち
  罪がある」との声明を出す その後日の丸は国旗か否かの論争があり 
  長い裁判の末有罪判決が出された
  開催地の読谷村は 沖縄戦で米軍が初上陸した地で 日の丸と君が代
  の下で集団自決(注)を強いられた残虐な歴史を抱かえていたのです
  注:集団自決(強制集団死)とは 子供に布団をかぶせ火 毒入りの
    注射に並ぶ住民・・・軍隊による「住民同士による自決強制」を
    指す これは塹壕に入り切れないとか食糧確保が住民の分までは
    無いと言う名目から強いられたもの         

    大江健三郎氏の「沖縄ノート岩波書店)」を当時の戦隊長らが
    名誉棄損で訴えたり 文科省教科書検定で軍関与を削除したり
    皇軍の名誉棄損は許されずとした 住民の自決は 崇高な犠牲的
    精神に基づくということにされて 沖縄県民の訴えは退けられた
               こう言う証言アメリカ軍より友軍(日本軍)の方が怖かった」

    参考:集団自決裁判 原告 連隊長や遺族 被告大江・岩波書店
       2005年 8月 5日 原告より大阪地裁に提訴
            10月28日 第1回 口頭弁論

       2007年 3月30日 文科省教科書検定軍の関与否定
            12月21日 第12回口頭弁論 結審
       2008年 3月28日 判決言い渡し 原告の請求棄却
             4月 2日 原告控訴

             6月25日 大阪高裁で第1回口頭弁論
             9月 9日 第2回口頭弁論 結審
            10月31日 判決 地裁判決支持 控訴棄却

       2011年 4月21日 最高裁判決 高裁判決支持
                   上告棄却決定で原告敗訴 大江
                   岩波書店側の勝訴確定
    
  沖縄県国体の2年前 卒業式や入学式での日の丸掲揚と君が代斉唱の
  実施率で 沖縄県が飛びぬけて低いと 文部省より注意徹底があった
  
  4,1995年9月9日 少女暴行事件
  12歳の少女が 3人の米兵に暴行され それでもアメリカに何も
  言えない政府・・・・・
  基地内で米側が拘束した3人の身柄引き渡し 日米地位協定を盾に
  拒否された 日本側が控訴するまで 米側が身柄を持ち続けること
  これこそが「政府による沖縄差別」であると憤懣は収まらず・・・

5,1996年4月12日 普天間返還合意
  上記憤懣が収まらない中 突然に橋本龍太郎首相より発表があった
  ただし「密約」があったり 基地にヘリポートを作れなどの条件が
  付されて 普天間の苦しみは今も「5~7年以内に返還」は叶わず